第2章 彼と彼女をくっつけたい

 共同研究が始まって5日目。

 生体管理室の水質チェックは、亜紀と貴美子が交替でやることになった。はじめの1週間は亜紀の担当だ。

 水槽の数はそれほど多くないし、数値をチェックして記録するだけだから、たいした作業ではない。中で泳いでいる金魚や熱帯魚を眺めてちょっと一息つけるのも嬉しい。ここの研究員たちによると、ほとんどの部門に生体管理室があるらしく、ミニ動物園みたいだと考えるだけで亜紀は楽しくなった。

 来週はまちさんの当番。びっくりするかな。この管理室の片隅に置かれた水槽で泳いでいる大きな黒でめきんについては、彼女には内緒にしてある。

「来週は、あなたのそっくりさんがくるからね」

 よろしくね、と声をかけると黒でめきんは大きな目玉を傾けた。

 このメスのでめきん――でめこという名だそうだ――を初めて見た時は驚いた。亜紀が両手を握ってくっつけたくらいの大きさにも、それが町田貴美子に似ていることも。さらには、このぽってりした愛くるしい金魚が、自分はもちろん、同期の“魔性のゆかりん”までがおののいた、超美形研究員の大事なペットであるということも。

 そして、学生時代から他人の密かな恋愛感情に妙に鼻が利く亜紀は、共同研究2日目にして気づいてしまった。

 その超美形研究員・山本健司――人間離れした雰囲気があるので、亜紀は時々心の中で超人ヤマケンと呼んでいる――は、貴美子に対し、でめこを慈しむのと同じ視線を送っている。彼の超人オーラのせいか、浩子とゆかりはそれに気づいていないようだが。

 まちさんは確かにいい人だ。でも、会ったばかりなんだから、まちさんの人柄に惹かれたわけじゃない。

 じゃあ、外見から好きになったってこと?

 考えたがすぐに打ち消した。敬愛する先輩には申し訳ないが、貴美子は一目惚れされるタイプではない。まさか――。

 亜紀は再びでめこに目をやった。

 ペットとして?

 もしそういうつもりでまちさんに興味を持ったんなら、超人だろうが容赦しないよ。

 健司の称号を超人からマッドサイエンティストに変更しかけた亜紀だったが、思い直した。

 研究初日の夜、貴美子以外のペトラ社員と健司で食事に行った(ゆかりが強引に誘った)。その時、貴美子が家でたくさんの金魚を飼っていると聞いた健司は、半ば夢見るような表情で“町田さんと金魚について語りたいな”と言っていた。ゆかりは笑っていたが、あの言葉は心からのものだと思う。

 水槽のでめこは、ひらひらと舞うように泳いでいる。そういえば、このでめきんは金魚すくいでとったと聞いた。大きさからも体表の美しさからも、何年も大事に飼育されてきたのが分かる。

 そうだ。共同研究は始まったばかり。これから女性として好きになればいいんだよ。彼が、たとえ今はペット的な意味でまちさんを気にかけているとしても、一緒に仕事をするうちに、興味から好意、尊敬、そしてそれを含めた愛情へと気持ちが変わるかもしれない。

 だったら。

 亜紀は、お気に入りの赤眼鏡のフレームをくいっと持ち上げた。

 あなたの恋、応援してやらんでもないですぞ、超人君。

 問題はまちさんだ。彼女は――。

 その時、ドアがノックされた。亜紀が返事をすると、ドアを開けて入ってきたのは、魚類部門の主任教授である金枝だった。

「あ、こんにちは」

 でめこを見てすっかり気が緩んでいたので、少し恥ずかしい。

「清水さん」

 お、名前を憶えてくださってたとは光栄です。

「今、ちょっといいですか」

「はい」

 この教授には初日に挨拶をしたが、その時から亜紀は彼に親しみを感じていた。部下と話す時のスピードがすさまじい速さで、話が途切れた瞬間、苦しそうにするのがおかしかった。たぶん、すごくシャイな人なんだと思う。茶色がかった髪がキノコのような形で、白衣を着ているからエリンギのような雰囲気だ。

「共同研究、なかなかいい雰囲気で進んでるようですねえ」

 成果を期待してます、と金枝は言った。

「ありがとうございます」

 亜紀が微笑むと、金枝は白衣のポケットに両手を突っ込み、亜紀の傍にある水槽に目を向けた。

「この子の姿かたちは何と言うか、絶妙ですよねえ。色もいい」

 なぜか、突然でめこの話が始まった。

「ええ、そうですね」

「この子を見てね、僕がそんな風に褒めたら、山本君が“教授、でめきんは食べられませんよ”って。普段クールな彼が血相変えてね。そりゃ、研究するなら食して美味いものっていうのが僕のポリシーですが、僕だって、人様の大事なペットは食しませんよ」

 人のペットじゃなかったら、食べるんですか? もちろん尋ねはしない。 

「山本君は、貴美子嬢も大事にしますかね」

「え?」

「僕、彼と彼女をくっつけたいんですが、何か良い作戦、ないでしょうか」

 直球だ! しかも至近距離から投げてきた。

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