第1章 亡国の公主――2
「俺が皇帝になるには、そなたが必要なのだろう? 蓮礼公主、彩華琳」
息を引き切る華琳に、男はあぶみを蹴り速度を増す。人の少ない裏道へ出た馬は、土ぼこりをあげて
「何者──!」
「後でゆっくり話してやろう」
俺が皇帝に。この男はそう言った。彼自身が帝位を望んでいるならば皇帝の
次代の皇帝にと定められた太子本人か、
心臓がどくどくと鳴り始めた。筋の浮き出たがっしりとした腕が華琳を抱きこんで放さない。
彼らが華琳を
しかし皇子の身分の者が、地べたに落ちた干し肉など口にするだろうか。
(そうよ。この男が
華琳は
彼が華琳を女主人から助けてくれたことは確かだ。それにさっきの
それに……なんだろう。男の腕の中で、
神とつながる
華琳は男の瞳を見つめあげる。
彼は、私の絶望に光を投げかける太陽か、それとも
男は前を向いたまま、先ほどまでのおしゃべりが
黒い瞳に夕暮れが映りこんで、赤い花ように
──その色は、すべてを失ったあの朝、
◆◆◆
四華神国は、皇帝の住まう華王城と、それを花弁状に囲む四州から成り立つ国だ。
天華の神が自らの花弁を大海に浮かべて成した国であり、千年の時を
初代皇帝が天と
皇帝の代がわりごとに新たに
開祖の
華琳は、その七十二代の歴史に連なる蓮礼王の第一公主。
──
あの朝を境に、華琳を公主さまと呼ぶ者はいなくなった。けれど華盟を
……あの
華琳は馬の首を抱く腕に力をこめる。
でも、母王の
私は、蓮礼王族を
そのためにこそ、人の集まる皇都にまで流れ、
(いよいよ
胸が期待と不安に揺れている。
男は乗馬に不慣れな華琳が舌を
その頃には、睫毛を
「公主
「な、なんてことないわ」
公主として
見えすいていたのか、男は「勝ち気な
「そんなことより、まず名乗りなさい。あなたはどこの人間で、なぜ
「質問ばかりだな。さてどこから答えたものやら。まぁ、茶でも飲みながら話すか」
男は
河から水を引き込んだ清水の広大な池。中央の小島には、美しい曲線の
右を見れば、どこまでも続く赤い柱の
使用人と
(侍女がこんなに。よっぽど
男は門神が
「ようこそ我が
見返れば、馬のくつわを手にした従僕がまだ入り口の前に立っている。
結局、華琳は
侍女が茶器と湯を運んでくると、彼は自分で
「蓮礼州は
そう語りながら手ずから茶を注いでくれる。人に命令し慣れているかと思えば、まるで
(格式ばらない自由な気質だということは分かったけど、──それで?)
逃げるべき敵なのか、それとも、《華》を託すことを考えるべき相手なのか──。
(あれは、梅?……それとも、
李木は皇家の邸宅にのみ植樹を許される、いわゆるご禁木だ。もしあの木々が李ならば。
華琳は男に視線を
「まさかあなたは……、
「いかにも。俺が四華神国太子、李天藍だ」
心臓が、凍った。
この庶民の服に身を包んだ型破りな男が、あの、天藍太子……?
そうだ。彼は太子にして禁軍を
そして、一月前、蓮礼に何も起こらなければ、華琳が
激しい
──なのに!! この男が天命かもしれないと考えたなんて!
「皇城の
「よくも私を前に、平気な顔で笑えるわ……!!」
燃えさかる王府を背に、蓮礼州
天下をあざむく
(この男にだけは、《華》は
「安心しろ。蓮礼の土地は今、中央から
「……そう。蓮礼王族彩氏が
「さあな。早く問題を片づけたいのは山々だ」
天藍は華琳の顔をしみじみと
「公主殿は……、ずいぶんと
彼の指が
「私に
「俺は大逆の芽を
払われた手を引きながら、天藍は
「なぜ……、昔の私を知っているの」
「
蓮礼州の宴……。華琳にも覚えがある。
何年も前のことだ。二人の皇子がそろって訪ねてくるというので、王府は大騒ぎになった。
(この男は、あの時私の顔を見知っていたから、王府の
嚙みしめた歯がぎりりと鳴る。
「
そう語りながら彼が自分を見る目は──、
母王や父、兄たちに守られ、妹と王府の花園に暮らした、なんの不安もない、満たされた日々の自分。それと、身ひとつで市井に落ち、貴族の下働きに明け暮れ、着のみ着のまま
そう気づいたとたん、今の今まで心の底に
(こいつ、その手で私を
カッと頰を熱くする華琳とは裏腹に、天藍は静かに
「公主殿。俺は皇城書庫の記録を確かめた。過去、《華》なくして皇位についた大逆の
……だが俺は、皇帝にならねばならんのだ」
彼はもう一度、ひたりと華琳を見すえた。
「そなたが持つ天命を
「だれが、あなたなんかに」
口をついて出た、
同時に華琳は
「言葉には気をつけろ。お
「……どうとでも、勝手にするがいいわ」
華琳は息のかかる
「けれど、神女の一族を手にかける男に天命が下るかしら。いいえ、そもそも無実の罪で一州の王族を滅ぼした太子など、天が許すはずがないわ」
李皇家に、もはや天命はない。そう言いきれば、男の
だが少なくとも今、彼は情報を持つ華琳を殺せない。──そう、《華》を隠し持っているかぎり、太子よりも私に分がある。
華琳は浅くなっていた息を、深く長く
丸窓にそろそろと視線を移すと、
「あなたに天命があるか、
華琳の
「ぜひとも」
華琳が取り出したのは、手のひらに納まる小さな絹の
《天命の華》が人目に触れるのは、皇位
しかもそれは、
ゆえに天藍は今、華琳が隠し持つ《天命の華》がどんな姿をしているのかすら知らない。
ふしぎそうに目を
袋の中身を手のひらに空けると、大小さまざまの花の種が小山になった。
これはなんだと彼が問う前に、異変が現れた。
茶色い
ついに
「あなたに天命があるのなら、この中から《天命の華》を見つけられるはずよ」
「……さきほどの
「さぁ、確かめてみるといいわ」
ずいと目の前に差し出した花束に、天藍はふうむと首をかしげる。
彼の意識が花に移ったその
花々が宙に
「動くな!」
切っ先が彼の
「……よい
華琳は刀よりも
「いいえ。ここから出る
「俺が人質か。なかなか面白い考えだ」
笑うなり、彼が動いた。彼の手が華琳の細い手首をまとめて
「はっ、放してっ!」
体中を使ってもがいても、なんということか、男の腕は
天藍は足もとに落ちた花々を見下ろし、もったいないなと小さく笑った。
「考え直した。そなたの言うとおり、天華の神に愛される公主
どこか
「そなたが自ら本物を俺に捧げてくれる気になるまで、待つことにしよう。それまでこの朱煌宮でゆっくりしていくといい」
「ここに、私を?」
この男は何を言うのだ。今、自分に刃を向けた
「そうだ。そなたは一族の
楽しげな瞳で笑い、天藍は華琳の手のひらに小刀を
「そなたが俺を殺すが先か、俺が《華》をもらいうけるが先か──。天にはかってみよう」
殺せるものなら殺してみよと、しかも天子と認めさせようと、この仇は言っているのか。
天藍は
「センゲ。公主殿の仇討ちは自由にさせよ。見事果たせば追わずに逃がせ。もし俺が公主殿に殺されれば、俺の天命はそこまでだったということだ」
「
「よいか。俺が死んだときに彼女を無事に帰すのは、お前の役目。心しておけ。俺は俺が勝つほうに
絶句するセンゲと呼ばれた従僕に、「公主殿の世話はおまえに任せる」と言い残し、彼はそのまま
残された華琳とセンゲは、遠ざかっていく
※カクヨム版はここまでです。お読みいただきありがとうございました。本編の続きは製品版でお楽しみください。
※なお、次のエピソード『星降る天の舟』は、製品版では未収録の書き下ろしストーリーとなります。
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