幕間 星降る天の舟【特別SS】

 


 あの男、この真夜中の寒空の下で、なにをしているのかしら。

 華琳は朱煌宮しゅこうぐうの庭をのぞむ丸窓から、庭の池に目をすがめた。

 四華神国しかしんこく太子・李天藍の後宮に囚われてから、五日が過ぎている。

 彼が華琳をここに縛りつけてまで求めているのは、華琳が隠し持つ、皇位継承に不可欠な神器・《天命の華》だ。

 元々、華琳は天藍に嫁ぐことを定められていた蓮礼州れんれいしゅうの公主だった。しかし婚礼の支度を進めていた最中、この男は禁軍を率いて蓮礼州に踏みこみ、華琳の母、蓮礼王をはじめ一族を自決にまで追いこんだのだ。

 華琳にとって、夫となるはずであった天藍太子は今や一族の仇敵。この男にだけは《天命の華》を渡すものかと拒んだ華琳に、彼は笑ってこう言った。

 もしも華琳が天藍を討ち取ることができたなら、自分の天命はそこまでということ。よって華琳をこの宮から解放する。だがその前に、必ずや《天命の華》を捧げさせてみせると。

 ――ならば一刻も早くあの男を討ち取り、ここを堂々と出ていってやる。

 華琳はそう決意し、今宵こそ討ち取ってやろうと、仇敵の帰りを待ちわびていた。

 だが今日の天藍はいつものように華琳の房へ直行せず、ふらふらと庭を横切り、池の水ぎわに泊めた小舟に寝転がると、じっと動かなくなってしまった。

 ……遠目では彼の顔まではうかがいしれないが、あんなところで寝入っているのか。

(本当に、「太子さま」らしからぬ男だわ)

 華琳は懐に忍ばせた小刀の鞘を抜き、長い袖に隠して房を出た。

 庭の闇に、無数の吊り灯篭が赤く滲んでいる。つんと鼻の奥に沁みるような、冷たい夜風のにおい。

 木々を渡る風に靴音をまぎれさせながら、注意深く歩を進める。

 そして、小舟の前に立ち止まった。

 貴族が遊びに使う豪奢な船ではない。おそらくは園丁が向こう岸の手入れに使っているのであろう、簡素な木舟だ。

(本当に……寝てる?)

 彼はたゆたう舟の中、両腕を枕代わりにごろりと寝そべっている。

 閉じたまぶた。整った精悍な顔のうえを、水面の揺れにあわせて月光がゆらゆらと踊っている。

(討つなら、今)

 ごくりと喉を鳴らし、袖から刀を抜き放つ。

 水ぎわの砂利に膝をついて重心を定め、白く光る喉笛へと刃を振り上げた――その時!

 すばやく身を跳ね上げた男に、刀をにぎった両手首をがしりと掴まれる。

 そしてそのまま腕を引っぱられ、華琳は転がるようにして男の胸の上へ。

 ざぶんと舟が大きく揺れた。

「なっ」

 頬にかかる冷たい水。

 気づけば、睫毛の触れる距離で黒い瞳がにやりと笑っている。

「舟を引っくり返されるかと冷や冷やしたが、毎度ながら、まっすぐすぎる正攻法だな」

「うるさい……っ!」

 結局、また読まれていたのか。

 男の胸の上に両腕をつっぱると、彼は刀を足もとに放り、空いた手で華琳の腰をつかんだ。

「なにするのっ、放して!」

「そなたから近づいて来たんだろう」

 彼の強い手が問答無用で華琳の身をぐるりと反転させる。そのまま仰向けに抱きこめられ、華琳は天藍の胸に頭をのせた格好で動きを封じられてしまった。

 拘束から逃れようとじたばたすると、舟が揺れ、真冬の水が衣の裾を濡らす。

「こら、おとなしくしろ」

 仔犬を躾けるような口ぶりで言った天藍は、伸ばした足で岸辺を蹴る。

 舟は音もなく黒い水面をすべり、池の真ん中へ。

 華琳は自分が泳げないことを思い出し、抵抗をあきらめた。刀も手元にない今、無意味にこの極寒の池で溺れるのは避けるべきだ。体力の落ちている今、熱など出したら死が間近にせまってくる。《華》の正統な後継者を見つける前に死ぬわけにはいかない。

 と、天藍は華琳の腹を読んだのか、くつくつ笑いだした。後ろ頭にひびく低い振動が無性に腹立たしい。

「あなた、真夜中にこんなところで何をしていたのよ」

「ああ。俺を待っていてくれたのか。こんな時間まで悪かったな」

 新妻の機嫌を取りなす夫のような口調で言うと、彼は後ろから華琳のあごをつかみ、くいっと上を向けさせた。

「これを見ていた」

 ――突然、視界いっぱいに飛びこんできた、満天の銀の星。星の河。

 吸いこまれそうな夜空に、華琳はひゅっと喉を鳴らした。

 今にも空からこぼれてきそうな、億千万の清い光。

(夜空なんて見上げたのは、いつぶりかしら……)

 一族が無事だったころには、露台からそろって星を眺めたものだ。だが市井に落ちてこの一ヶ月、乾いた地べたばかり見つめていた気がする。

 今、一筋の光が天を斬るように堕ちていく。

「天の狗が走っているな。不吉の前兆だ。天が怒っているぞ。早く俺を玉座につけよと」

「なにを。あなたが《天命の華》を我が物にしようとするのを、天がお怒りなのよ」

 それぞれに勝手な解釈をつけて、また、遠き天の星々に目をもどす。

 この男は仇なのに、なぜ自分は腕を振り払わないのか。彼が何をしたのか嫌というほど知っているはずなのに。

 凍て風が星をちらちらと瞬かせる。

 この男は私の《華》を奪おうとしている。私はこの男から《華》を守らねばならない。私たちは相容れぬ星のもとに生まれてきたのだ。

 華琳は冷たい夜気を胸に吸いこんだ。

 太陽は西の稜線に沈み、今は華琳を見ていない。

 水を浴びて濡れた衣が、肌に吸いついている。背中に滲む天藍のぬくもり。彼がくりかえす穏やかな呼吸。耳の後ろに、心臓の音がする。それが自分のものなのか、彼のものなのか、よく分からない。

 今だけ――、あと少しだけ、この身を容赦なくもてあそぶ天命の嵐を忘れることを、許してもらえるだろうか。

 華琳は星よりも清かにきらめく白銀の瞳を閉じた。夜のしじまに響く水の音。

 こんなふうにまぶたを下ろしているのは、今この時かぎり。

 天に与えられた使命を果たすため、明日こそは自由の身となってみせる。

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【特別掌編付き】後宮の天華 黎明を告げる皇子/あさば深雪 角川ビーンズ文庫 @beans

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