幕間 星降る天の舟【特別SS】
あの男、この真夜中の寒空の下で、なにをしているのかしら。
華琳は
彼が華琳をここに縛りつけてまで求めているのは、華琳が隠し持つ、皇位継承に不可欠な神器・《天命の華》だ。
元々、華琳は天藍に嫁ぐことを定められていた
華琳にとって、夫となるはずであった天藍太子は今や一族の仇敵。この男にだけは《天命の華》を渡すものかと拒んだ華琳に、彼は笑ってこう言った。
もしも華琳が天藍を討ち取ることができたなら、自分の天命はそこまでということ。よって華琳をこの宮から解放する。だがその前に、必ずや《天命の華》を捧げさせてみせると。
――ならば一刻も早くあの男を討ち取り、ここを堂々と出ていってやる。
華琳はそう決意し、今宵こそ討ち取ってやろうと、仇敵の帰りを待ちわびていた。
だが今日の天藍はいつものように華琳の房へ直行せず、ふらふらと庭を横切り、池の水ぎわに泊めた小舟に寝転がると、じっと動かなくなってしまった。
……遠目では彼の顔まではうかがいしれないが、あんなところで寝入っているのか。
(本当に、「太子さま」らしからぬ男だわ)
華琳は懐に忍ばせた小刀の鞘を抜き、長い袖に隠して房を出た。
庭の闇に、無数の吊り灯篭が赤く滲んでいる。つんと鼻の奥に沁みるような、冷たい夜風のにおい。
木々を渡る風に靴音をまぎれさせながら、注意深く歩を進める。
そして、小舟の前に立ち止まった。
貴族が遊びに使う豪奢な船ではない。おそらくは園丁が向こう岸の手入れに使っているのであろう、簡素な木舟だ。
(本当に……寝てる?)
彼はたゆたう舟の中、両腕を枕代わりにごろりと寝そべっている。
閉じたまぶた。整った精悍な顔のうえを、水面の揺れにあわせて月光がゆらゆらと踊っている。
(討つなら、今)
ごくりと喉を鳴らし、袖から刀を抜き放つ。
水ぎわの砂利に膝をついて重心を定め、白く光る喉笛へと刃を振り上げた――その時!
すばやく身を跳ね上げた男に、刀をにぎった両手首をがしりと掴まれる。
そしてそのまま腕を引っぱられ、華琳は転がるようにして男の胸の上へ。
ざぶんと舟が大きく揺れた。
「なっ」
頬にかかる冷たい水。
気づけば、睫毛の触れる距離で黒い瞳がにやりと笑っている。
「舟を引っくり返されるかと冷や冷やしたが、毎度ながら、まっすぐすぎる正攻法だな」
「うるさい……っ!」
結局、また読まれていたのか。
男の胸の上に両腕をつっぱると、彼は刀を足もとに放り、空いた手で華琳の腰をつかんだ。
「なにするのっ、放して!」
「そなたから近づいて来たんだろう」
彼の強い手が問答無用で華琳の身をぐるりと反転させる。そのまま仰向けに抱きこめられ、華琳は天藍の胸に頭をのせた格好で動きを封じられてしまった。
拘束から逃れようとじたばたすると、舟が揺れ、真冬の水が衣の裾を濡らす。
「こら、おとなしくしろ」
仔犬を躾けるような口ぶりで言った天藍は、伸ばした足で岸辺を蹴る。
舟は音もなく黒い水面をすべり、池の真ん中へ。
華琳は自分が泳げないことを思い出し、抵抗をあきらめた。刀も手元にない今、無意味にこの極寒の池で溺れるのは避けるべきだ。体力の落ちている今、熱など出したら死が間近にせまってくる。《華》の正統な後継者を見つける前に死ぬわけにはいかない。
と、天藍は華琳の腹を読んだのか、くつくつ笑いだした。後ろ頭にひびく低い振動が無性に腹立たしい。
「あなた、真夜中にこんなところで何をしていたのよ」
「ああ。俺を待っていてくれたのか。こんな時間まで悪かったな」
新妻の機嫌を取りなす夫のような口調で言うと、彼は後ろから華琳のあごをつかみ、くいっと上を向けさせた。
「これを見ていた」
――突然、視界いっぱいに飛びこんできた、満天の銀の星。星の河。
吸いこまれそうな夜空に、華琳はひゅっと喉を鳴らした。
今にも空からこぼれてきそうな、億千万の清い光。
(夜空なんて見上げたのは、いつぶりかしら……)
一族が無事だったころには、露台からそろって星を眺めたものだ。だが市井に落ちてこの一ヶ月、乾いた地べたばかり見つめていた気がする。
今、一筋の光が天を斬るように堕ちていく。
「天の狗が走っているな。不吉の前兆だ。天が怒っているぞ。早く俺を玉座につけよと」
「なにを。あなたが《天命の華》を我が物にしようとするのを、天がお怒りなのよ」
それぞれに勝手な解釈をつけて、また、遠き天の星々に目をもどす。
この男は仇なのに、なぜ自分は腕を振り払わないのか。彼が何をしたのか嫌というほど知っているはずなのに。
凍て風が星をちらちらと瞬かせる。
この男は私の《華》を奪おうとしている。私はこの男から《華》を守らねばならない。私たちは相容れぬ星のもとに生まれてきたのだ。
華琳は冷たい夜気を胸に吸いこんだ。
太陽は西の稜線に沈み、今は華琳を見ていない。
水を浴びて濡れた衣が、肌に吸いついている。背中に滲む天藍のぬくもり。彼がくりかえす穏やかな呼吸。耳の後ろに、心臓の音がする。それが自分のものなのか、彼のものなのか、よく分からない。
今だけ――、あと少しだけ、この身を容赦なくもてあそぶ天命の嵐を忘れることを、許してもらえるだろうか。
華琳は星よりも清かにきらめく白銀の瞳を閉じた。夜のしじまに響く水の音。
こんなふうにまぶたを下ろしているのは、今この時かぎり。
天に与えられた使命を果たすため、明日こそは自由の身となってみせる。
【特別掌編付き】後宮の天華 黎明を告げる皇子/あさば深雪 角川ビーンズ文庫 @beans
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