第3話

サクラ島


島に戻り島の名前は変える事は出来ないのでフウストネームを付ける事にした「サクラ島」と付けた。

縫製工場に事務所を設け元工場長を探し又働いて貰う事にし元居た工員を優先的に採用した。程なくしてラムズウン、と商社の社員が来て、生地、型紙、サンプルなど持ち込み試作品を作った。指摘された所を何度かなをし大量に作る事にした。量が多いので500人程新たに採用した。工場も新たに作る事にした。日本の証券会社から電話が有り全部高値で売れ、お金は四菱銀行に入れたと連絡が有り金額を聞いて驚いた。

140億も有った。島民は相変わらず貧しく現金収入が無かった。島民に取りあえず「水」を確保する事にした。日本から井戸の職人を呼び2カ所ボウリングした1カ所は1500メートル掘ったら温泉が出た。目的が違うので蓋をしもう1カ所を800メートル掘り下げたら綺麗な水が勢いよく吹き出した、水脈に当たったと言う事だだった。俺は島民を増やさない事にした、只で飯が喰えると言うことで親戚を呼んで要るのだ、島民を今居る家族350家族から増やさない入れないと島民に知らせた其れでも島民は1000人は居た、頭の痛い事が有った、子供が学校に行って居ないのだ、6歳から15歳の子供が250人も要るのだ。ラムズウンと工場拡張の打合せに東京に向かった、次いでにODAで学校を作って貰おうと思った、商社、の偉いさんと大臣にあい何とか話が着いた、何故ならマグロを絡ませて話した、フィリピン政府は私にマグロの権利を任すといつていると話したからだ。冷凍庫も作って貰う事にした。日本はバブルがパンクしたとかで不景気に担っていた、安い物しか売れないようだった。俺のサクラ印が良く売れる訳が分かったような気がした。

朝、ホテルで朝食を食べながら新聞を読むと株が軒並み暴落していた四菱銀行も額面を割っていた。

俺は親父のいっていた事を思い出していた。子供の頃親父と四菱銀行にいつたとき「健一この四菱銀行が潰れる時は日本も潰れる」そういつたのを思い出した。

証券会社に行き四菱銀行の株を買ってくれ100円未満で買ってくれといつて100億の銀行保証小切手を渡した。40億をフィリピン銀行の口座に入れた。

サクラ島に戻り、サンゴ礁の反対側に学校を作る事にした、サンゴ礁の反対側は海が深く簡単な岸壁が有り此処を整備するためだ。サンゴ礁側はいずれホテル、かリゾートマンションのような物を建てる積もりでいた。サクラ島はマニラと違い真夏でも気温が40度を超える事が無く30~33度ぐらいだった。サンゴ礁の反対側に安く泊まれるホテルを建てたそれと並行して学校も建てた、。

開校式と同時に日本から3人フィリピンから4人の先生が赴任して来た。

俺は日本の先生の内、平野桃子先生に一目惚れした桃子先生の話しでは一年しか居ないと言う話しなのでモウアタックした。星空の下で此からのフィリピンの事この島のこと、そして仕事の事、桃子先生を如何に愛しているか。ベトナムで戦闘している寄り苦労した其のかい合って結婚した、俺は間もなく女の、したたかさ、と前向きな考えに振り回される事になった。

マニラのスラム街に行き身よりの無い子供、家が貧しく学校に行けない子供達を連れて来て住まわせ学校に行かせ子供が働かないと困る家庭には縫製工場で使ってくれと頼み込まれた。マルがマグロ漁船と漁業関係を仕切っていたので頼み込んだ。

サンゴ礁の反対側のホテルは1カ月先まで予約で一杯だった。俺は日本の、女性誌、男性誌、を問わず広告を出した。流行り出したインターネットにも出した。

「サクラ島で世界中のタバコが吸える満天下の星空の下で楽しもう」これで充分だった。煙草はマリハナだ、警察の息の係った島民以外の人が販売した。

島の男達は漁船や魚の加工場で働き、女性達はホテルで働いた。電気はジゼール発電機を付けた。

兎に角俺は働いた縫製工場も4000人が働いてをり今ではオーイエムの品物が多かった。

瞬く間に10年が過ぎ子供も3人出来た。家族5人で日本に帰った時、とんでも無い事が起きた、朝、妻の実家で新聞を読んで何気なく株式欄を見たら四菱銀行の株が買った時の15倍になつていた。バブルが崩壊した時、銀行では一番傷が浅く横並びで国から借りた金も返した、と出ていた。翌日妻の実家の有る長野県の松本市を1人で朝早く出かけた、東京の中央区に有る四菱銀行の本店に確かめに行くのだ。

四菱銀行に付き名前と用件を伝えると総務部の部長が飛んできた。頭取室に案内され次々と来る役員と名刺を交換した。今日ので出来高で株を計算して貰ったら1750億有ることが分かった個人では筆頭株主だという事だった。

企画部の人を呼んで貰いサクラ島にホテルを建てたい、一度来てくれと頼み銀行を後にした。

高級リゾートホテルを建て、隣にリズーナブルなホテルも建て、世界中から客が来るようになった。

マルの水産業も船が増え近海で捕れる魚では、たりなくニュージーランド、やカナダなど15カ国から輸入して干物、切り身、などに加工して日本に輸出していた。、

俺もマルも子供達が大きくなり大学を卒業して10年たつた頃、息子に社長を譲り会長になり2人で、射撃、クルージング、など楽しんでいた。麻布十番、の事が無ければ、良い人生が終わるはずだった。


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