第18話「その子はママと呼んだとか?」

 リカーショップトノサキから、歩いて5分とちょっと。

 下町情緒したまちじょうちょあふれる町並みは、どこか平和だが閑散かんさんとしている。それでも、声を上げて走る子供達や、井戸端会議いどばたかいぎに熱中してる主婦達と擦れ違った。

 外崎正重トノサキマサシゲは今、再び染井吉乃ソメイヨシノのアパートを訪れようとしていた。


「まあ、忘れ物を渡すついでに、顔を見てくればいいんだよなあ」


 すぐに出てきてしまったので、ラフな服装に帆前掛ほまえかけという格好だ。これは正重の仕事着のようなもので、濃紺のうこんに大きく白字で『外崎』と書いてある。日差しは温かいが、軽くジャンパーを羽織はおって歩けば風は少し冷たかった。

 そして、すぐに目的のアパートが見えてくる。

 築三十年ちくさんじゅうねんくらいだろうか……正重が小さい頃からある古い建物だ。

 その一室に、吉乃が住んでいる。


「なんつーか……家まで地味、か。でも、何か……らしい、な」


 質素な暮らしが自然と伝わるような、そんなアパートだ。家賃もそんなに高くない気がする。何より、立地がいい。

 外階段を上がって二階に上がる。

 207号室のドアの前に立って、正重は軽く深呼吸。

 少し、ドキドキする。

 何故なぜかはわからない。

 だが、この扉の向こうはプライベートの吉乃がいる。多分、地味な部屋着で過ごしていると思う。容易よういに想像できてしまうが、野球少年一筋だった正重には、女性の一人暮らしという空間がとても神聖なものに思えた。


「よ、よし、チャイムを――!?」


 震える指を伸ばした、その時だった。

 突如、ドアが内側から開いた。

 それで正重は、頭を強打きょうだされてしまう。ガドン! と、かなりエグい音がして、世界が揺れた。それでも両脚で踏ん張ると……涙目でにじんだ視界に、信じられない人物が立っていた。

 それは、昨日の男を思い出させる。

 そう、突然吉乃の前に現れた、因縁いんねん浅からぬ雰囲気の男……桐谷拓也キリヤタクヤ

 確かに彼は言っていた。

 ……そう言って拓也は吉乃に迫っていた。


「……おにーちゃん、だいじょうぶ?」


 目の前に、小さな男の子が正重を見上げていた。

 年の頃は4歳か5歳だ。

 吉乃の年齢を思えば、これくらいの子供がいてもおかしくはない。

 そう納得してしまえる自分が、何故か正重はとてもおかしかった。

 そう、愉快という意味で言うなら、まったくおかしくない……面白おかしくない。

 むしろ、いちいちそんなことで動揺する自分が


「え、あ、お、おう……えっと、あー、うん。ゴホン! ママ、いるかな?」


 額を抑えつつ、冷静をよそおった。

 小さな男の子は、ニッコリ笑って部屋の方を振り返る。


「ねー、ママだってー! あはは、変なの!」


 自分でも変だと思う。

 突然、吉乃に対する情報量が増えて、増え過ぎて、頭がパンクしそうだ。

 そして、知れば知る程にかれてゆく……もう、自覚し始めている。

 そんなことをぼんやり思っていると、奥からパタパタと吉乃が現れた。


ツグくん、お客様? ……あ、正重さん!? ど、どうしてここに……?」

「や、やあ。えっと、これ。忘れ物、です」


 とりあえず、紙袋を差し出す。

 吉乃は受け取り中身を確かめ、少しホッとしたような顔を見せた。そして、胸にそれをギュッと抱き締め、足元の男の子へと屈む。


「もう、継くん。いきなりドアを開けちゃ、危ないよ? さっき、凄い音がしたけど」

「このおにーちゃん、ゴンって! ガン! ってぶつかったー! しかも、ママだって。吉乃、僕のママなの? ママって二人いる人もいるの!?」

「さあ、どうかな。でも、今度から気をつけてね?」

「うんっ!」


 立ち上がった吉乃は、何だか気まずい正重に改めて向き直る。

 そして「あっ」と目を見開いた。


「正重さん! オデコ! 赤くなってます」

「あ、ああ……大丈夫だから。それより、平気? 有給、気軽に使っていいから」

「私は平気です! それより……ああ、こんなに赤くなってる」


 そう言って、何気なく吉乃は手で額に触れてきた。

 確かに赤くなってるだろう。

 ぶつけた額よりも、ほおが。

 顔が火照ほてって、不思議と熱い。


「あ、あああ、あのっ! 吉乃さん、その」

「はい。あ、この子ですね……大家さんのお孫さんで、吉田継巳ヨシダツグミくんです」

「吉乃とは、ヨシ繋がりなんだよー? 僕、吉乃と遊ぶの好きー!」


 大家さんから以前、どうしてもと言われて小一時間子守こもりを頼まれたことがあるそうだ。その時なつかれて以来、ちょこちょこ遊びにくるという。

 ホッとした。

 よく見れば、吉乃に全然似てない。

 あの拓也とかいう男にも、勿論もちろん似てない。


「よかった……ん、ま、まあ! そんだけだから!」

「わざわざ、これを届けに? ……ありがとうございます、正重さん」

「ん、姉貴あねきもちょっと顔を見てこいって言ってたから。その……俺も、やっぱ、心配で」


 吉乃は何故か、少し目をうるませ……そして、微笑ほほえんだ。

 長いみに黒縁眼鏡くろぶちめがね、いつもの地味な彼女はそこにはいなかった。

 まるで、その名の通り満開の桜が舞い散るような、それは鮮やかな笑顔。

 吉乃は胸に抱いた紙袋を、ますます強く握り締める。


「あの、正重さん……じゃ、じゃあ……わがまま、言ってもいいですか?」

「ん、ああ! 大丈夫、ほら、なんてのかな? アットホームな職場? そういうの、割りと本気で目指してるから。調子が戻るまで休んでも大丈夫だし」

「あ、いえ……それは、また、ちょっと……まだ、考え中です。ただ」

「ただ……?」


 少し頬を赤らめ、さらに吉乃は笑顔を輝かせた。


「あの……?」

「はへっ!? ……あ、あああ、いや、ちょっと待って! その、まだ会って半月くらいだし、その、ええと」

「あ、ごめんなさい。えっと……このあと、少し付き合ってほしいんです。私と二人じゃ……ご迷惑でしょうか」

「あ! そういうね、それね! はは、勘違かんちがい……そっち系の付き合うね! い、いいよ、暇だから。店は姉貴が見てくれてるし、あとでメールしとくから」


 正重の勘違いという言葉に、また吉乃が少し嬉しそうに、照れくさそうに笑った。

 あんなことがあったあとでの笑顔で、正重は心のきりが晴れてゆくのを感じる。そのまま小さな継巳くんを大家のもとまで送り届けながら……正重は吉乃の着替えを待つ。

 ちなみに吉乃は、やっぱり部屋着も小豆色あずきいろのジャージで地味なのだった。

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