第17話「彼女がいない日」

 外崎正重トノサキマサシゲは、仕事に身が入らずぼんやりしていた。

 朝、染井吉乃ソメイヨシノから電話があった。

 彼女は少し暗い声で『有給休暇の取得に必要な書類を教えてください』などと言った。昨日、突然東京から桐谷拓也キリヤタクヤという男が来てから、吉乃の様子は変だった。

 あのあと、心ここにあらずといった感じで、定時になるなり帰ったのだが……どうやら、拓也から渡された書類らしきたばが気になるようだった。


「おーい、マサ君? おーい……駄目だこりゃ」

「えっ!? あ、ああ、なんだ姉貴あねきかよ」

「なんだ、じゃないでしょー? もう、よしのんいないからって腑抜ふぬけちゃって。荷物、届いてるけど? ほら、でっかい木箱きばこで」

「お、おう」


 事務所の机でパソコンを眺めていたら、姉の外崎涼華トノサキリョウカに小突かれた。

 仕事が全く手に付かない。

 向かいの机に吉乃がいないだけで、気持ちが落ち着かなかった。


「有給、取ったことないんだってさ……吉乃さん」

「へえ、健康優良児けんこうゆうりょうじだったんじゃない? 風邪かぜとか引かなかったんでしょ」

「いや……

つとはじめだから、最初の年は……7日までだっけ? あんたが決めたんでしょ。そうだ、あたしも有給使わなきゃ!」

「まだ年度始めだって、姉貴……」


 やれやれと正重は、立ち上がって倉庫の方へと向かう。

 荷物の搬出はんしゅつ搬入はんにゅうを行うシャッターが開いてて、そこに巨大な木箱があった。厳重に梱包こんぽうされ、日本語ではない文字があれこれ書いたテープが貼ってある。

 送り主を見て、なるほどと納得した。


「オヤジか……今度は何を送ってきたんだ?」

「へー、スペインだって! いいなあ、行ってみたーい!」


 呑気のんきなことを言う涼華が、バールを手渡してくる。

 難儀して梱包をほどき、くぎを抜いてふたを開けた。こうして手を動かしている時は、吉乃のことを忘れられる……逆を言えば、ふとしたはずみに彼女のことを考えてしまう自分に驚いていた。

 だが、苦心して開封した箱の中身に、すぐに仕事の顔を取り戻す。


「ワインだな……姉貴、スペイン語は」

「ノーノー、読めませーん! でも、知らない銘柄めいがらね」

「赤、か……ふむ」

「早速店頭に出そうよ! ワインセラー、もう少し大きいのが欲しいわね……あ! あと、あたしに一本! 一本だけ! 社員割引で!」

「はいはい」


 スペインと言えば、カヴァだ。スパークリングワインで、高い品質と手頃な価格帯から人気がある。最近ネットニュースでアレコレ世界情勢なんかも追いかけてて、正重はカヴァの産地カタルーニャの独立騒動なんかも知っていた。

 他にも有名な銘柄のワインが沢山ある。

 フランスやドイツ、南米なんかと並んでスペインはワイン大国なのだ。

 だが、見慣みなれぬ赤ワインの銘柄は、まったく無名むめいのものだ。


「ま、オヤジが選んだんだ……味は確かだろうさ」

「マサ君、残念だねー? ふふ、早くオトナになんなさいよ。今すぐなんな! そしたら一緒に飲めるのに。よしのんも入れて、三人で!」

「無理だって、まだ18だし。……ん? 手紙だ」


 荷物の中に手紙が入っていた。

 開封すると、案の定父親の文字が踊っている。見慣れたくせのある筆跡ひっせきは、間違いなく父親、このリカーショップトノサキの社長のものだった。


「ええと、なになに……イカした赤を見つけたから仕入しいれといたぜ! だって」

「わはは、お父さんらしいじゃん?」

「それと……ん? ? 何だ、例の件って」

「さあ?」


 手紙は追伸ついしんで、奇妙な終わり方をしていた。

 例の件を頼む……心当たりはない。

 大繁盛だいはんじょうには程遠いが、食っていく分にはもうかっているリカーショップトノサキ……最近は吉乃も入れてアレコレ営業形態が改善したし、常連の客達も不景気の中で足繁あししげく通ってくれる。

 全くもって、例の件なる事案に思い当たるフシがない。

 だが、父親が選んだワインだけは信用できる。

 世界中を遊び回っているように見えて、時々こうして酒を送ってくるのだ。そのどれもが、常連客やお得意先の飲食店で絶賛ぜっさんされる。くやしいが、父親の趣味をねた仕事は、凄いと言わざるをえない。

 道楽どうらくもここまでいけば大したものだ。

 だが、謎が残る。


「あ、そうだ。吉乃さん、会社のアドレスにオヤジからメール、来てないですか?」

「おいおい、マサ君? よしのん、今日はオヤスミでしょ」

「っと……そ、そうだったな、うん。わかってたけど。た、たまたまだって」

「またまたー? こいつぅ、ひょっとして……ニシシ」


 涼華がいやらしい笑いで口元をおさえる。

 この手のゴシップが大好きな人なんだと、正重は思い出していた。そして、後悔した……何故なぜ、吉乃が休みと知ってて呼びかけてしまったのだろう。

 最近、いてくれるのが当たり前に思えていた。

 この半月近くで、彼女が必要だという実感を強めていた。

 それが従業員としてなのか、それとも――


「マサ君、おねーちゃん応援してるからね? ちょっと待ってて!」


 ニヤニヤしながら涼華は、自宅の方へとカッ飛んでゆく。

 そして、バタバタと慌ただしく帰ってきた。

 何やら紙袋かみぶくろを持ってて、それを正重に押し付けてくる。


「昨日、よしのんてばショックで動揺してたんじゃない? 忘れ物。届けてあげたら? 歩いてすぐの場所でしょ、よしのんのアパート」

「あ、ああ。でも……」

「店番ならやっとくからさ。ちょっと様子、見てきてよ。……って、開けんなバカ!」


 中身を見ようとしたら、涼華にチョップされた。

 そのままポスポスと何度も、彼女は正重を見上げながら頭を叩き続ける。


「薬だよ、ほら……よしのん、いつもご飯のあとに飲んでるじゃん」

「ああ、そういえば」

「忘れてったから、届けてあげて。困ってるかなーって気になってたんだ。んじゃ、そゆことでヨロシク!」


 こうして正重は、吉乃のアパートを訪ねてみることにした。

 初めて踏み込む、吉乃のプライベート……そして、気になる昨日の拓也とのできごと。

 考えるよりもまず行動だと、正重はすぐに店を出るのだった。

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