第15話「年上の新人は腐女子さん!?」

 あれから数日が経ったが、外崎正重トノサキマサシゲはどうしても忘れることができない。

 いかにもエリート商社マンといった風体ふうていの、あの客だ。閉店間際に現れ、自分は酒を選ぶでもなく、店内をくまなく見て歩いていた。そう、まるで調査するかのように細部まで見られていた気がする。

 部下の女性が『酒のさかなに甘いお菓子を食べる』というのも、強烈な印象として残った。


「あの連中は……何だろう、嫌な予感が止まらない」


 それは、胸騒ぎというにはあまりにも寒々さむざむしい。

 そして、その理由も根拠も論理的に説明不能だ。だが、スポーツマンだった正重は自分の直感を信じている。時々、思考で解決できない物事を感じることがある。

 多くの場合、それは些細ささいな事だ。

 しかし、試合ではその些細な事が明暗を分けたこともあるのだ。


「あの、正重さん? お客さんなん、です、けど……ちょっと、その、すみません」


 ふと顔をあげると、店番を任せていた染井吉乃が顔をのぞかせていた。

 そろそろ子供達の声が少なくなってきた、夕方の五時前。まだまだ夜風は少し冷たいが、春が感じられる一日が終わろうとしていた。日も長くなって、日中の暖かな気温がまだ外の空気に感じられる。


「どうしました? 吉乃さん」

「あの、なんか……そ、その、すみません……お客さんが、えと、んと」

「え、何かあったんですか?」

「……もっこり」

「は?」

「なんか、御年配ごねんぱいの方が二人組で……!」


 正重は目が点になった。

 そして、ああアレかと納得する。

 しかし、吉乃は耳まで真っ赤になりながらあわあわと喋り続ける。


「あの、それってつまり……。そしてこのお店は実は、裏でそういった男性同士の……そ、そんなの……とうとい、じゃなくて、ええと!」

「えっと、ゴメン。何言ってるか全然わからない。吉乃さん?」

「は、はいぃ! 違います、私もう腐女子ふじょしじゃないです! ……で、ええと、もっこりというお酒が、あるんですか? あるんですよね……に、にごり酒、とか……?」


 まるで訳がわからない。

 だが、狼狽うろたえてしまった吉乃と一緒に店へと出る。


「それ、多分のことですよね。もっきり酒」

「……へ? もっきり」

「そう、もっきり」

「もっこり、じゃなくて」

「もっきり、ですよ。ああ、こんばんは。お疲れ様です。今すぐお出ししますね」


 店の入口で、常連さんが二人。もうすぐ定年という方々で、確か近くの町工場まちこうばで働いていたと思う。いつも酒はここで買ってくれるし、時々こうして飲みにきてくれる。

 正重はいつものようにグラスを出す。

 そして、倉庫の奥の例の区画から、高級な日本酒を取ってきた。それは、試飲用に開封済みのもので、開封したからには風味が損なわれる前に飲んでほしい。そういう訳で、リカーショップトノサキは軒先のきさきで一杯だけの有料試飲サービスをやってるのだ。

 小さな皿の上にますを置き、その中にさらにグラスを置く。


「こ、この銘柄めいがらが……もっきり、ですか? や、獺祭だっさいですよねこれ」

「いやいや、違うんですよ。こうして……」

「あっ、こ、こぼれてます! 正重さん、7,560円の獺祭が! みが三割九分さんわりくぶ遠心分離えんしんぶんりが!」

「いいんですよ、升までなみなみに注いで……これがもっきりです」


 吉乃は目を点にしている。

 これで一杯500円、一杯こっきりの試飲サービス。

 父がまだ家に居着いていた時代から行っている。


「吉乃さん、これを御二人おふたりに出してもらえますか? 外のベンチにいらっしゃると思うんで」

「は、はい……ああ、それで」

「昔は将棋しょうぎなんかしながら飲む人もいたんですけどね。今日はまだ、そういうのには早いかな? もっと暖かくなれば、もっきりを飲みにくる人、増えますよ」


 もっきりの語源は『盛り切り』にあるらしい。

 昔は、お酒は全て升ではかりしていたのだ。一合いちごう、つまり180mlずつで販売していた時代がある。だが、当時のグラスでは一合をぐと入り切らない。そこで、下に升を置いて、あふれた分までキッチリ一合飲ませるために生まれたと言われていた。

 今の時代、もっきりは『』を見せる、ちょっとした遊びである。

 リカーショップトノサキでは、だいたい一合ちょっと、200mlくらいだろうか。

 開封した日本酒はなるべく早く飲み切るべきだし、売り込みもかねている。気に入れば、あとから買ってくれる客というのは、昔から一定数存在していた。


「さて……でも、なんだ? もっこりって……それと、腐女子とは……!?」


 おぼんに二杯のもっきり酒を乗せて、吉乃が恐る恐るゆっくり店の外へ出てゆく。

 仕事帰りの男達は、たまにこうして店先で酒を飲んでくれる。飲み屋に入るほどでもない、家に夕食も家族も待っている……けど、飲みたい時、少し語りたい時らしい。

 あの常連さん達も、ここで30分程かけて一杯を飲み、アレコレ話し込んでいる姿を幼少期から見てきた。


「あのおじさん達も、思えば長い付き合いだよなあ……さて、と」


 一升瓶に封をして、再び倉庫の保管室に戻してくる。

 この獺祭も、あと3、4人も飲めば空になるだろう。最後の一杯を飲む客は、少し多くサービスしてからにしてしまおう。そう思って事務所に戻ったが、妙だ。店の方に吉乃が戻ってきていない。

 どうしたんだろう、と正重も外に顔を出してみた。

 そこには、奇妙な光景が広がっていた。


「ほぉ、それじゃあ何かい? クラウドってのは『雲』って意味なのかい」

「いやあ、英語はからっきしだからよ! ガッハッハ」

「雲のようにデータを並べて、それらを必要に応じて繋げたり引き寄せたりするイメージですね。その時の、雲を浮かべておく空がネットワーク上、つまりインターネットになるんです。こうすることで、! クラウド管理されてれば、……便利でした」


 何故なぜか張り切って放す吉乃に、老紳士達はご満悦だ。

 正重も小さく、クラウドってそういう意味だったのかと驚く。小さな子供の頃、姉が遊んでたゲームの主人公がそんな名前だった、くらいしか記憶にない。

 お盆を抱きしめながら、どうやら吉乃が話し相手になって客も喜んでるようだった。

 そんな二人が、ほのかに赤らめた顔をこちらへ向けてくる。


「おう、マサちゃん! およめさん、頭のいいだねえ……なんでも教えてくれるよ」

「若けぇのが言ってた言葉はチンプンカンプンだったからな! 近頃は携帯電話も難しいし、ついていけなくていけねえや」

「そこんとこいくと、お嬢ちゃんの話はわかりやすい」

「でも、自宅まで仕事を持ち込むのはいただけねえな!」


 吉乃がまた、顔を真っ赤にして嫁ではないと説明を始めた。

 以外な効果があって、少し正重も驚いている。

 自分より若い女性が持っていく方が、飲む側も嬉しいだろう……そういう安直で単純な考えだったのだ。ちょっとそれは、前時代的だったかもしれない。

 やがて、他にもデータベースがどうとか話し込んでから、二人はお代を置いて帰ってゆく。街も夕闇ゆうやみが迫る中で、夕焼けに赤く染まっていた。


「……また、お嫁さんと……間違われてしまい、ました、ね……ふふ。あ、でも、すみませんっ! 私ったら、やっぱりまだまだ不勉強で」

「いやいや、助かりますって。喜んでもらえればOKですから、基本」


 それに、嫁と間違われても嫌じゃない。間違いじゃなくても、それはそれで……なんて思いつつ、正重はあわてて脳内の妄想を掻き消した。自分に都合がよすぎて、恥ずかしくなってくるのだった。

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