第9話「初めての夜に」

 春とはいえ、まだまだ夜は肌寒はだざむい。

 冷たい夜気やきは透き通ってるような、そんな気がする。見上げる夜空は星々のまばたきもまぶしく、浮かんだ月も近く感じた。

 そんな夜を、外崎正重トノサキマサシゲ染井吉乃ソメイヨシノと歩いていた。

 脳裏にすぐ、姉の外崎涼華トノサキリョウカの言葉が過る。


『マサ君、よしのんを送ってって! 夜道を女の子だけ歩かせるとか、ありえないから!』


 ちなみに、そうのたまった涼華は勝手にである。

 吉乃の新人歓迎会は、それはもう盛大に執り行われた。涼華の手料理を食べながら、ビールで乾杯してから日本酒を飲み、適当にかわものやスナック菓子がし、チーズ等を食べ散らかしての数時間……今は丁度、22時を回った頃だ。

 勿論もちろん、その間ずっと正重は烏龍茶ウーロンちゃを飲みながら閉店作業までこなしたのだが。

 だが、不思議と気持ちは軽くておだやかだ。

 少し先をほろよい気分で歩く吉乃が上機嫌だからかもしれない。


『いい? マサ君っ! よしのんを送りつつ、何かあったら……GOゴーだよ! お姉ちゃん、期待してるからね! ガンホー! ガンホーだよ!』


 姉はどこでそんなことを覚えてくるのだろうか。

 だが、正重は自分に限ってありえないと思っている。

 異性を変に意識してしまうのは、自分に免疫めんえきがないから。そして、そういう人間が異性との関係性を築くのは、とても難しいと思うから。

 そもそも、そういったものは両者の気持ちが大事な気もしている。

 そういう青臭いことが真っ先に思い浮かぶ程度には、正重は純情だった。

 そんな彼の前で、振り返った吉乃がにっぽりと笑みを浮かべる。


「正重さん、今日はありがとうございました。すっごく! 楽しかったです」

「そりゃ、どうも……まあ、俺もよかったですよ。吉乃さんみたいな人が入ってくれて」

「お礼を言うのは私です。今までとは全然違いますし……そのことに驚いてる自分もおかしくて。今まで普通だったことが、違うってわかると……少し、面白いです」


 黒い長髪のみに、透けるような白い肌。そして、ほお薔薇色ばらいろに染めながら吉乃は笑う。その足取りは、酔ってはいても危なげない。泥酔でいすいというレベルではないらしいが、どこか普段よりうわついて見えた。

 だが、正重は自分をしかりつける。

 普段と言う程、彼女を知らない。

 そして今、少し好奇心から知りたがっているのだ。


ちなみにあの、吉乃さん……今までの普通、ってのは」

「そうですね、まず……新人歓迎会では、先輩全員におしゃくして回ります」

「ああ、なんかドラマとか映画で見たことあるような」

「でも、酷いんですよ? 

「それ、セクハラっていうか、犯罪ですよね」

「そうなんです! で、飲め飲め言われるから沢山飲まなきゃいけませんし。一気飲いっきのみとかも新人の仕事らしいです。私、あんましお酒は強くないから、大変でした」


 やはり、吉乃の語る以前の職歴はおかしい。

 日本でも有数の大会社、知らぬ者など存在せぬ一流企業にいたはずなのに、だ。

 今日一日でアレコレ知った範囲で言えば、間違いなくだ。正重に社会人の知識や経験が不足してても、今ならはっきりとわかる。

 染井吉乃は、ブラック企業に一年務めていた。

 では、その後の空白の一年とは?

 そのことに踏み込むのが、少し躊躇ためらわれる。

 そして、自分の想像だにせぬ何かがある、くらいをさっする想像力が正重にはあった。

 今はただ、吉乃が笑顔だからそれでいいと思ったのだ。


「でも、本当に美味しい日本酒でしたね……私、何ていうか、衝撃的でした」

「あれね、うちでもまれにしか入荷しないから。お得意先の常連さんのためにとっておくけど、姉貴あねきも好きなんだよなあ」

「えっと、何ていう銘柄でしたっけか」

「青森の田酒でんしゅ、かな。山廃仕込やまはいじこみ

「日本酒って、からいイメージがあったんですけど……すっごく柔らかくて、ほんのり甘くて」


 田酒とは、青森県内でのみ作られる純米酒だ。その名の通り『田んぼの米だけで作る酒』である。そのまろやかな口当たり、芳醇ほうじゅんな香りと甘みにとりこになるファンが多い。

 都会では、目玉が飛び出るような値段で売ってることもある。

 高級酒なのだが、最近は名前だけがひとあるきしている状態だ。

 だが、品質を管理して保存しておいた田酒は、生酒きざけとしては極上品である。

 正重の説明を吉乃は、大きく何度もうなずきながら聞いていた。


「ま、俺は未成年なんで飲んだことがなくて……あと二年の我慢ですけどね」

「ふふ、その時はじゃあ、正重さんの成人祝いをしないといけませんね!」

「いやあ、何か照れますって。……それに、絶対姉貴が悪ノリしてやるやる言い出すし」

「いいお姉さんですよね、涼華さんって」


 いいお姉さん……そう、気前がよくて、威勢いせいがよくて、思い切りがよい。

 同時に、かなりどうでもいいことに熱心になる、そんな姉だ。

 だが、彼女が家事一切をやってくれているから、正重も従業員とともにリカーショップトノサキを切り盛りできるのだ。その仲間に今日、新たに吉乃が加わった。

 経理担当が増えた以上に、正重にとってありがたい人材だと今は信じることができた。


「あっ、ここです。あのアパートの二階、207号室です」

「意外と近いとこに住んでるんですね」


 店から徒歩で10分程、住宅街のどこにでもあるようなアパートだ。

 その二階を指差し、吉乃が無邪気な笑みを見せる。

 眼鏡の奥で、彼女の瞳が星空よりも眩しく輝いていた。


「あっ、少しあがってきますか? お茶くらいお出しできますけど」

「……へ?」

「せっかく送っていただいたんですし。その……そのまま帰しちゃったら、少し甘え過ぎかなって……えと、そのぉ」

「あ、いや! 駄目です! まだやり残した仕事があるので!」


 うそである。

 何度も頭の奥にちらつく姉のニヤケ面を、必死でかき消しながらまくし立てた。

 正重には、あまりにも異性の免疫がなさすぎた。

 そして、笑えないほどにそのことが痛感できてしまう。

 凄く情けなくて、正直逃げ出したい。


「じゃ、じゃあ、明日からまたよろしくお願いします! 9時までに来てくれればいいので! 朝の掃除とかいいんで! えと、その、とりあえず、ありがとうございましたっ!」

「は、はひっ! こ、こちらこそ……あの、なんかすみません」

「い、いえ……じゃ」


 回れ右で全力ダッシュ、正重は来た道を全速力で引き返した。

 その背にまだ、吉乃の視線を感じている。

 今日ほど、自分が未成年なことを恨めしく思ったことはない。お酒を飲んでいる大人と、飲めない自分の温度差が少しさびしかった。

 もし、自分も酒気に身をゆだねていたら……?

 もしかしたら、もっと上手に吉乃のことを!?

 どうしたいんだと自問自答し、世間でよくいる『酒のせいにする大人』の気持ちを逆側から思い知った。そう、今の正重は『酒が飲めないせいにする子供』なのだった。


「あーくそっ、格好悪ぃ! 明日から、リセット! 吉乃さんは従業員、俺は副社長……俺が店を仕切って、みんなで稼いで、そして……やっぱ、飲み会? 宴会? かなあ」


 野球部で鍛えた肉体も、今はかなりにぶっている。

 すぐに筋肉が熱を帯びて、オーバーヒートしそうな感覚だ。

 それでも、振り向けば吉乃が見えなくなるまで見送っててくれそうで……事実、そういう一途いちず健気けなげなところがある彼女に、ブラック企業での一年が影を落としている。

 それも想像でしかないが、正重にはどこか気になって、気にかかる。

 そして、やっぱり異性として過剰に意識してしまう自分が恨めしいのだった。

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