第7話「彼女はまだ酒を知らない」

 午後になっても、外崎正重トノサキマサシゲの心は落ち着かなかった。

 自分がこんなに女性に免疫めんえきがないなんて、思わなかったのだ。

 そして、一度意識してしまえば、染井吉乃ソメイヨシノはとても綺麗で美しい異性なのだった。その彼女が今、姉の外崎涼華トノサキリョウカと一緒に店番をしている。

 いちいちメモを取りながら、吉乃は真剣に仕事を覚えていた。


「まあ、でも……普通に美人さんだから、俺が特別おかしい訳じゃない。た、多分」


 もうすぐ夕方の六時、すでに日も暮れかけている。

 一度夕食の準備に引っ込んだ涼華は、物凄い先輩風せんぱいかぜを吹かせて吉乃を指導していた。フンスフンスと鼻息も荒く、有頂天うちょうてんでアレコレ教えてゆく。

 もうすでに、出勤初日としては退店時間なのだが……正重は声をかけそびれていた。

 別に、エプロン姿の吉乃に見とれていた訳ではない。


「……本当に地味だなあ、なんか。垢抜あかぬけない、って言ったら失礼だろうけど」


 涼華がアレコレと自前のエプロンを持ち出し、好きなの選んで! と笑顔をクシャクシャにしていたのが小一時間前。正重のように、リカーショップトノサキの帆前掛ほまえかけもあったし、赤青黄色……中にはフリフリのフリルが小うるさいエプロンドレス風なものもあった。

 吉乃が選んだのは、そんな中でも一番地味で普通なエプロンだった。


「若いお姉さんが、ベージュって……どうなんだろうなあ、うーん」


 黒のシャツとパンツに、ベージュのエプロン。

 地味だ。

 凄く地味だ。

 だが、彼女はそうじゃないと落ち着かないらしい。涼華がもっと派手なのを勧めていたが、やんわりと断っていた。

 やはり、地味だ。

 そして、その容姿が不思議と、正重は嫌いではなかった。

 だが、そろそろ声をかけてやらないと、どこまでも涼華が調子に乗ってしまう。

 丁度そんな時、正重を呼ぶ声がした。


「ウス、坊っちゃん……」


 振り向くとそこには、いかつい大男が立っていた。

 配達を担当してくれてる、喜多川清春キタガワキヨハルだ。

 彼は、いつもの険しい表情でペコリと頭を下げる。


「ああ、清春さん。お疲れ様です。丁度よかった……あとはうちの者でやるんで、清春さんも吉乃さんと一緒にあがってください」

「ウス、お疲れ様です……」

「何か変わったこと、ありました? 配達先で」


 清春は寡黙かもくな男だ。

 それでも、ある邸宅でお年寄りに頼まれ電球の交換をしたこと、新しく注文を取ってきたこと、大手の居酒屋チェーン店が夏頃に出店してくることなどを教えてくれた。

 無愛想ぶあいそうだが、清春の仕事ぶりは徹底している。

 それに、お得意さんには『親切な清春さん』で評判もいい。

 敷いて難点を言えば、……そのことは本人も気にしているが、清春はやはり怯える子供にも優しい男なのだった。


「坊っちゃんは、どうでした?」

「ああ、俺? いやぁ、常連さんが来る度に、その……う、うるさくてさ。嫁さんもらったのか、って何度も何度も」

「はあ。そりゃ災難でしたね」

「そうでも、ないけど……まあ、そんな感じ。世は全てこともなし」


 真顔でうなずき、清春が店舗の方へと歩く。

 その大きな背に続いて、正重も声をあげた。


「吉乃さん、今日はもういいですよ。すみません、うちの姉が……今日の残業、ちゃんとつけときますから」

「は、はい。……残業、ですか?」

「今、もう18時ですからね。本当は17時にはあがってもらうはずだったのが」


 じろりとすがめれば、涼華がデヘヘと笑った。

 悪びれないこの笑顔は、彼女の最強の武器だ。何でも許してしまう、そういう愛嬌あいきょうのある表情で、とてもずるいと昔から思っている。

 心なしか清春も表情が柔らかい。

 その彼が、店内で冷やされた缶ビールを持ってレジの前に立った。慌てて吉乃が戻ろうとするが、涼華がやんわりと止める。


「よしのんも何か飲む? うち、社員は八掛はちがけだよん!」


 POSポスレジのバーコードリーダーを、Pi! Pi! と歌わせながら、ニシシと涼華が笑う。

 正重も目を丸くしてる吉乃に勧めてやった。


「うち、社員には定価の八割で買ってもらってます。お酒でも何でも、よかったら是非ぜひ。ま、あんまし飲み過ぎてもらうと困るけど」

「は、はあ」

「因みに、その……吉乃さん、お酒とか、飲みます?」


 ちょっと想像がつかない。

 こんな美人さんだ、異性とのおつきあいだってあっただろう。どんな場所で食事して、どんなお酒を飲むのか……だが、ありったけの想像力を働かせる正重を、吉乃はあっさりと裏切る。

 彼女はほんわかとした笑顔で、眼鏡の奥の瞳を細めた。


「少しなら、飲みますね……たまにですけど」

「そう? ま、何か飲みたいのあったら買ってって。今日はほら、初出勤だし」

「そうですね……じゃあ、今夜は乾杯かんぱい、でしょうか」

「……は?」


 以外な名前が出てきて、正重は間抜けな声を出してしまった。

 ストロングゼロ、それはサントリーの缶チューハイだ。ストロングの名が示す通り、アルコール度数は9%と比較的強い。そして、糖類とうるいやプリン体が0%……有り体に言えば、体に良くて太りにくいという触れ込みの缶チューハイだ。

 地味ながらも落ち着いた大人の女性と、ストロングゼロ。

 あまり脳内で結びつかない。

 だが、酒造メーカー各社が『女性向けの強い缶チューハイ』を開発、市場で競争しているのも確かだ。少ない量で酔えて、健康志向なお酒には需要があるのだ。

 すかさず涼華が「よしのん、何味? これ?」と冷蔵の棚を開ける。


「ま、飲み過ぎには気を付けてとしか……酒に貴賎きせんなし、ってオヤジも言ってたし」

「ですね。ただ、ストロングゼロは糖類がゼロ……つまり、糖質が入っていないので、アルコールの分解が遅いんです。悪酔いの原因にもなるので――」


 そこでまた、正重は耳を疑った。

 その頃にはもう、清春は会計を済ませて「お疲れッス……」と帰ってゆく。

 彼を見送る涼華も、流石に変な顔をした。女性がしていはいけない顔をしていた。


「私はで割って飲みますね。結構すぐ酔っちゃうので、そのまま四時間くらい寝れば、次の日も24時間戦えます。……あ、今の若い人は知らないですよね、リゲインのCMなんて……あら? 正重、さん?」


 正重は思った。

 吉乃は人生を損している。

 未成年で酒を飲んだことがない正重でも、すぐにわかる。

 どうしてそんな悪趣味な飲み方をしているのか……そう思った瞬間には、涼華がパン! と手を叩いた。


「よしのん、今夜はひま? 歓迎会! よしのんの歓迎会やろ! うちで! よし、決まり!」


 強引で唯我独尊ゆいがどくそんな姉によって、急遽我が家での吉乃の歓迎会が決まった瞬間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る