第6話「繋がる、連なる、続いてく」

 時間が止まったかのような、一瞬のふれあい。

 外崎正重トノサキマサシゲの手の中に、小さく柔らかな染井吉乃ソメイヨシノの手があった。

 鳴り続ける黒電話のベルだけが、永遠に続くかに思われた。

 だが、正重はその奇妙な刹那せつなを自分から終わらせる。


「あっ、す、すみません!」


 思わず手を放してしまった。

 異性に触れるなど、姉以外では初めてだったかもしれない。野球部にもマネージャーはいたし、クラスに仲のいい女子もいたはず。でも、そうした人間が、周囲に散りばめられた背景のように感じていた。

 異性を意識すること自体、もしかしたら初めての可能性すらあった。

 吉乃は何も言わずに微笑ほほえんで、電話の受話器を取り上げる。


「はい、こちらリカーショップトノサキでございます」


 綺麗な、とても落ち着いて静かな声だった。

 吉乃はすぐにペンを手に、メモの準備をしながら受話器へ耳をかたむける。回線の向こうから年老いた男の声がして、すぐに正重は心当たりを思い浮かべる。

 だが、その時……さらなる衝撃が正重を襲った。

 吉乃は電話なのに、丁寧に軽くお辞儀をしながら言葉を続ける。


「いつもお世話になっております。でございますね? 少々お待ち下さい」


 突然の、呼び捨て。

 自分のフルネームを、吉乃はんだ声色こわいろで口にした。

 普段のどこかおどおどとした、内気な雰囲気は感じられない。堂々としていて、りんとした緊張感がすずやかに彼女を包んでいた。

 そして、吉乃は自分のことをフルネームで呼び捨てにしたのだ。

 突然のことで理解不能、思わず正重は固まってしまう。


「え、あ、お……おう? え、待って、待とう。……距離、近いの? そう、なの?」


 正重は、こんな小さな酒屋でビジネスマナー云々をうるさく言うつもりはない。しかし、ビジネスマナーに関しては全くの素人しろうと、高校卒業直後の18歳なのである。

 アットホームな職場を心がけようと思っていた。

 でも、アットホームどころか、な雰囲気が生まれた気がした。

 そしてそれが、勘違いだと今は気付けない。


「正重さん? あの、正重さんっ。お電話です、けど……」


 受話器の口を手でふさぎながら、向かいの机で吉乃が首を傾げている。

 あれ? 今度は『正重さん』だ。

 我に返った正重は、慌てて受話器を受け取った。少し混乱していたが、自分に平静を言い聞かせて電話に出る。チラリと見たが、吉乃は何事もなかったかのように自分の作業に戻っていった。

 そして、聴き慣れた声が響く。


『いよう、マサちゃん! 何? よめさんもらたのか!? 水臭みずくさいじゃねえか、こいつぁお祝いだな!』

「ども、ゲンさん。……違いますよ、新しく帳簿を見てくれる経理の方です」

『本当かい? へへ、いいんだぜ……俺とマサちゃんの仲じゃねえかよ!』

「……どんな仲ですか、どんな」


 電話の相手は、吾妻源太郎アズマゲンタロウ。通称、源さんだ。この町で小さな居酒屋『吾妻家あずまや』を経営するお得意さんだ。午後には店のバンを運転して、配達を担当する喜多川清春キタガワキヨハルが伺うはずである。

 だが、こうして源さんが電話をしてくることは珍しくない。


『実はな、マサちゃん。急な頼みで悪いけど、ってあるかい?』

「魔王、ですか。ちょっと待って下さい、ええと」


 昼を過ぎても正重達が事務所にいるので、姉の外崎涼華トノサキリョウカが顔を出した。すぐに吉乃が先程のメモを見せて「魔王、って……何ですか?」と目を丸くしている。

 魔王とは芋焼酎いもじょうちゅう銘柄めいがらで、比較的高価な酒である。

 すぐに涼華は、倉庫へ走ってくれた。店舗内に陳列ちんれつしてある在庫は把握してあるので、今すぐ探している旨を正重は伝える。同時に、スマートフォンでメールを手短に打って、それをあらかじめグループ化してある複数のアドレス全てに一斉送信。

 そして、涼華はあっという間に走って戻ってきた。


「ごめん、魔王ない! 勇者に倒されたかも! なんてな、わははっ!」

「いや、ないから……ないから、姉貴あねき。あ、すみません。源さん? うちにはないけど、あとで折り返し電話していいかな? 今、他の店に当たってもらって……お、来た」


 再びスマートフォンが鳴る。

 着信のメールの、儀礼的ぎれいてきな挨拶をはいした簡素な短文に笑みが浮かんだ。

 同業者の一件から、在庫アリとのメールが届いたのだ。


「悪いけど、うちじゃなくて我満酒店がまんさけてんに連絡してみてくれる? そう、そうそう、三丁目の。すみません、そっちで買えるんで。……でも、何で魔王なんか」

『ガハハッ! 今夜、接待せったいで使ってくれるお客さんがいんのよ。そいで、芋焼酎を何種類かって話になってよ。赤霧島あかきりしまとかはあっけど、魔王がね、魔王!』

「あー、なるほど。一応、メールで我満さんにも一言入れとくよ」

『おう、ありがてえ! ちょっとひとっ走り行ってくらあ!』


 唐突に電話は切れた。

 涼華は何事もなかったように昼飯の話をし始めたが、吉乃はしきりに目をそなたかせている。


「あ、あの……正重さん。魔王、って? あ、お酒の、銘柄……? でも、在庫はないんじゃ」

「うちにはね。ただ、この小さな町に個人営業の酒屋は12件ある。全部、互いに協調関係きょうちょうかんけいなんだ。自分の店にない酒を融通し合う……これ、うちのオヤジが作ったネットワークなんだけど」

「はあ……す、凄いですね。でも、売上が別のお店に」

「いいのいいの。別のお店にないお酒が、うちにあるかもしれないし。こうすれば、無駄な在庫を抱えず自然と住み分けできてるんだってさ」


 ウンウンと腕組み頷く涼華は、何故なぜか自分の手柄のようにドヤ顔だ。

 そして、正重は逆に吉乃に問いかけようとして……そして、言葉を飲み込む。

 突然、呼び捨てにされた……呼び捨てで呼んでくれた、その意味は? もしかしたら、この短時間でも少しだけ、彼女の初日の緊張をやわらげてあげられたのだろうか。

 それにしても、吉乃の電話対応は素人しろうとの正重にも完璧に見えた。

 流麗りゅうれい所作しょさ、穏やかで明確な声音、そして言葉遣い。

 ――言葉遣い?

 ああ、とようやく正重は悟った。

 何となくだが、合点がてんがいったのだ。


「あの、吉乃さん」

「は、はいっ」

「電話……」

「ああ、すみません! すみません……つい、鳴ったので手を伸ばしてしまいました」

「いや、ありがと……で、さ。もしかして社会常識的に、自分の会社の人間は、例えば上司や上役うわやくでも、呼び捨てで話す? 相手に対して」

「ああ、そうですね。係長や部長といった役職もつけず、呼び捨てるのが礼儀としては正しいと思います。あと、同姓の混同を避けるためにフルネームで」

「だよ、ね……それだけ、だよね。そっか、はは、ははは……」


 馬鹿みたいだ。そして、実際に無知だった。なんてことはない、正重が知らないビジネスマナーだったのだ。それに対して、あまりにも無頓着むとんちゃくだったのである。

 少し恥ずかしい反面、今も耳の奥に吉乃の優しげな声が反響してる気がした。

 すると、気色悪きしょくわるいニヤニヤ顔で涼華が突っついてくる。


「よしのん、こいつさ……普通に普段から呼び捨てでもいいよ? まだ18のガキだしさー」

「い、いえっ! 正重さんは、その、副社長さんですし。それに……」

「それに?」

「……歳は、関係ないです。こんなに頑張ってて……もう、一人前の男性です」


 少し気恥ずかしそうに言って、吉乃が笑った。その微笑みが、いろどりを知らぬモノクロームの彼女を桜色に染める。わずかにほおを赤らめる笑みが、正重には強烈にまぶしかった。

 あわてて正重は、昼休みを一方的に宣言して自宅の居間へと逃げるのだった。

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