第5話「職場、仕事、二人きり」
まだまだ多感な少年であると同時に、青年となって大人の責任を背負う時期をも迎えている。家業の酒屋で本格的に働き始めて、まだ二ヶ月だ。
だが、書類上も実質的にも、副社長である。
社長の父親が世界中を遊び回っているので、責任重大だ。
「けど、これは……実際にやってみると、なかなか……」
倉庫の一角を区切った、建物の中の建物みたいな事務所。机が二つ向かい合ってて、その片方は正重のものだ。今も、非常に大事な伝票を書いている。これは実は、リカーショップトノサキの大事な事業の一つだ。
そして……向かいの席に、今日からとても
仕事に打ち込む
あの頼りなくて弱々しい、どこか
「でも、これは……この意味は、なあ」
ふと仕事の手を止めて、正重はちらりとデスクの隅を見る。
そこには、クッキーの空き缶に二つのスマートフォンが並んでいた。それは
どういう訳か、吉乃は自分の携帯電話を差し出してきた。
意味がわからない。
だが、受け取らないと納得してくれなそうな気配もあって、じゃあということでこうなった。職務中はお互い『携帯電話置き場』に自分のものを置く。緊急の連絡があるかもしれないし、プライベートも大事だから、着信には自由に応じる形にしたのだ。
だが、正重はついつい不思議な現状に想像力が動き出す。
「……普通、人にポンとは渡さないよなあ……」
「ん? ああ、正重さん。どうかしましたか? あ……お茶! お茶、入れましょうか! すみません、気が利かなくて」
「あ、違います! いいんです、そういうんじゃなくて」
じっと見詰めていたから、吉乃は視線を感じたのだろう。
軽く小首を傾げながら、眼鏡の奥から見詰めてくる。
黒目がちな瞳に、思わず正重は椅子の上でのけぞった。
「あの……なんでスマホ、出しちゃったんですかね? これ」
「ああ、そのことですね。んと、職場は基本、スマホの持ち込みは禁止なんですよ?」
正重は驚いた。
社会人経験はないから、そうなのかと首を
それで思い出したが、もうすぐお昼の時間である。
「えっと、普通の会社はそうなの?」
「私がいた会社はそうでしたね」
「でも、個人情報……」
「ふふ、私もそう思うんですけど……でも、今度は大丈夫です。正重さん、凄くいい人だと思うんです、私」
心の中で
真っ直ぐ投じられた、150
正重は呼吸も鼓動も、突然吉乃に支配されてしまったのだった。
だが、そんなことはつゆ知らず、彼女は言葉を続ける。
「今、
「……
「それも、ですね。ふふっ、でも、ごめんなさい。裏帳簿は私も言い過ぎました。正重さんのお店には……正重さんには、そういうのって似つかわしくないですね」
やばい。
なにこれ、どうしたの俺?
「で、でもほら、昼休みとか……そろそろお昼だしさ! えと……ああ、俺はね、昼休みとかはスマホでニュースを拾うんだ」
「朝、新聞も読まれてましたよね? いいですよね、周りの情勢に敏感なのって」
「周りの女性に敏感!? あ、いや……そ、そう! 敏感なの。ほら、新聞は朝と夕方しかないから。でも、俺の客層は年配の方がメインだから、新聞は大事っていうか」
何でこんなにテンパってるのか、自分でもよくわからない。
正重は
思わず自分の携帯を手に取り、ついつい
「昼に、最新のニュースを見るのは、やっぱネットニュース、スマホのニュースが便利なんだ。新しい話題、すぐ知りたいし。でも、お昼休みっていう一番の自由時間が、新聞の空白の時間だし」
「確かに……お昼休みになると、TLが一斉に賑やかになりますもの」
「てぃーえる? あ、ああ、ツイッター? タイムライン? はは、は……そ、そうだね! それにもう、お昼だしね!」
時刻は丁度、12時になる5分前だ。
そして、これ以上正重はなんだか、吉乃と二人きりが耐えられそうもない。どうしてだろう、意識してしまう。そして、夏からずっと
「吉乃さん、うちは昼休みは一応、12時から一時間だけど――」
「一時間!? いっ、今、一時間って言いました?」
「は、はい……言いました、けど。あ、でもその日によって忙しかったりでまちまちだけど、前後することはあっても、必ず一時間の休憩ですから」
驚くことかなとも思ったが、とりあえず吉乃のスマートフォンを返してやる。
だが、彼女はそれを受け取りながらも……机を立とうとしなかった。
「あの、正重さんは」
「あ、俺? これを先に片付けたくて……いいよ、先に休んでて。うちの居間、休憩所も兼ねてるから。近くにはスーパーもあるし……吉乃さん?」
「そんなっ、上司が働いてるのに私だけ休憩するなんて!」
「……へ? あ、いやあ……それは……どうなの?」
午後には宅配業者の集荷がある。その時に出す荷物の配達伝票を正重は書いているのだ。これが結構多くて、日に20から30程、多い時は50を超える。
それを説明しようとした、その時だった。
突然、二人のデスクの丁度真ん中で、今時ちょっと見ない黒電話が鳴った。
「あ、私が出ますね!」
「ま、待って、吉乃さん! ……ぁ」
ベルを鳴らす電話機の上で、吉乃と正重の手が触れる。
重なる手と手を行き交う体温に、二人は黙って固まってしまった。
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