第5話「職場、仕事、二人きり」

 外崎正重トノサキマサシゲ、18歳。

 まだまだ多感な少年であると同時に、青年となって大人の責任を背負う時期をも迎えている。家業の酒屋で本格的に働き始めて、まだ二ヶ月だ。

 だが、書類上も実質的にも、副社長である。

 社長の父親が世界中を遊び回っているので、責任重大だ。


「けど、これは……実際にやってみると、なかなか……」


 倉庫の一角を区切った、建物の中の建物みたいな事務所。机が二つ向かい合ってて、その片方は正重のものだ。今も、非常に大事な伝票を書いている。これは実は、リカーショップトノサキの大事な事業の一つだ。

 そして……向かいの席に、今日からとても耽美たんびな光景が広がっている。

 仕事に打ち込む染井吉乃ソメイヨシノは、贔屓目ひいきめに言っても凄く綺麗きれいだ。

 あの頼りなくて弱々しい、どこか嗜虐心いじめたい!保護欲まもりたい!き立てる姿はもうない。働くお姉さんは、それはもうテキパキと仕事をこなしてゆく。異性と二人きりというのは、残念ながら正重には初めての経験だった。


「でも、これは……この意味は、なあ」


 ふと仕事の手を止めて、正重はちらりとデスクの隅を見る。

 そこには、クッキーの空き缶に二つのスマートフォンが並んでいた。それは勿論もちろん、正重と吉乃のものだ。

 どういう訳か、吉乃は自分の携帯電話を差し出してきた。

 意味がわからない。

 だが、受け取らないと納得してくれなそうな気配もあって、じゃあということでこうなった。職務中はお互い『携帯電話置き場』に自分のものを置く。緊急の連絡があるかもしれないし、プライベートも大事だから、着信には自由に応じる形にしたのだ。

 だが、正重はついつい不思議な現状に想像力が動き出す。


「……普通、人にポンとは渡さないよなあ……」

「ん? ああ、正重さん。どうかしましたか? あ……お茶! お茶、入れましょうか! すみません、気が利かなくて」

「あ、違います! いいんです、そういうんじゃなくて」


 じっと見詰めていたから、吉乃は視線を感じたのだろう。

 軽く小首を傾げながら、眼鏡の奥から見詰めてくる。

 黒目がちな瞳に、思わず正重は椅子の上でのけぞった。


「あの……なんでスマホ、出しちゃったんですかね? これ」

「ああ、そのことですね。んと、?」


 正重は驚いた。

 社会人経験はないから、そうなのかと首をひねる。確かに、学校では授業中に電源を消すよう言われていたし、校則でもそれは明記されている。逆に、昼休みになると皆が一斉にスマホの電源を入れるのもお馴染なじみの光景だ。

 それで思い出したが、もうすぐお昼の時間である。


「えっと、普通の会社はそうなの?」

「私がいた会社はそうでしたね」

「でも、個人情報……」

「ふふ、私もそう思うんですけど……でも、今度は大丈夫です。正重さん、凄くいい人だと思うんです、私」


 心の中で球審アンパイヤがストライクを叫んだ。

 真っ直ぐ投じられた、150kmキロ台のストレートだった。

 正重は呼吸も鼓動も、突然吉乃に支配されてしまったのだった。

 だが、そんなことはつゆ知らず、彼女は言葉を続ける。


「今、ほとんどの携帯にカメラが付いてますから……それに、パソコンや社内のサーバに接続することもできます。それで機密情報とか、持ち出されたら困るんだと思います」

「……裏帳簿うらちょうぼとか?」

「それも、ですね。ふふっ、でも、ごめんなさい。裏帳簿は私も言い過ぎました。正重さんのお店には……正重さんには、そういうのって似つかわしくないですね」


 やばい。

 なにこれ、どうしたの俺?

 自問じもんすれども自答じとうできず、ドギマギと正重は目を反らす。


「で、でもほら、昼休みとか……そろそろお昼だしさ! えと……ああ、俺はね、昼休みとかはスマホでニュースを拾うんだ」

「朝、新聞も読まれてましたよね? いいですよね、周りのに敏感なのって」

「周りのに敏感!? あ、いや……そ、そう! 敏感なの。ほら、新聞は朝と夕方しかないから。でも、俺の客層は年配の方がメインだから、新聞は大事っていうか」


 何でこんなにテンパってるのか、自分でもよくわからない。

 正重は童貞どうていだったが、童貞が少し恥ずかしいと感じる思春期を経験していない。彼にとっての少年時代は、その全てが野球一筋だったのである。勉強はそこそこ、エースピッチャーだから女子には人気があった……だが、それは彼の青春の余録よろくにすらなりえなかった。

 思わず自分の携帯を手に取り、ついつい饒舌じょうぜつになってしまう。


「昼に、最新のニュースを見るのは、やっぱネットニュース、スマホのニュースが便利なんだ。新しい話題、すぐ知りたいし。でも、お昼休みっていう一番の自由時間が、新聞の空白の時間だし」

「確かに……お昼休みになると、TLが一斉に賑やかになりますもの」

「てぃーえる? あ、ああ、ツイッター? タイムライン? はは、は……そ、そうだね! それにもう、お昼だしね!」


 時刻は丁度、12時になる5分前だ。

 そして、これ以上正重はなんだか、吉乃と二人きりが耐えられそうもない。どうしてだろう、意識してしまう。そして、夏からずっと空虚くうきょだった何かに、ふわりとぬくもりが詰め込まれてきた気がした。


「吉乃さん、うちは昼休みは一応、12時から一時間だけど――」

「一時間!? いっ、今、一時間って言いました?」

「は、はい……言いました、けど。あ、でもその日によって忙しかったりでまちまちだけど、前後することはあっても、必ず一時間の休憩ですから」


 驚くことかなとも思ったが、とりあえず吉乃のスマートフォンを返してやる。

 だが、彼女はそれを受け取りながらも……机を立とうとしなかった。


「あの、正重さんは」

「あ、俺? これを先に片付けたくて……いいよ、先に休んでて。うちの居間、休憩所も兼ねてるから。近くにはスーパーもあるし……吉乃さん?」

「そんなっ、上司が働いてるのに私だけ休憩するなんて!」

「……へ? あ、いやあ……それは……どうなの?」


 午後には宅配業者の集荷がある。その時に出す荷物の配達伝票を正重は書いているのだ。これが結構多くて、日に20から30程、多い時は50を超える。

 それを説明しようとした、その時だった。

 突然、二人のデスクの丁度真ん中で、今時ちょっと見ない黒電話が鳴った。


「あ、私が出ますね!」

「ま、待って、吉乃さん! ……ぁ」


 ベルを鳴らす電話機の上で、吉乃と正重の手が触れる。

 重なる手と手を行き交う体温に、二人は黙って固まってしまった。

 わずか一秒程だったが、その時二人の視線は互いに結ばれ……その中を、不思議な何かが行き交った気がした。

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