第2話「自宅で店舗で、彼女には会社で」

 また、あの夢を見た。

 最後の甲子園、その切符を得るための最後の試合。

 そして、外崎正重トノサキマサシゲにとっても最後の野球の記憶だ。

 マウンドにうずくまり、周囲の仲間達に囲まれる。焼け付くような肩の激痛と、不安げな表情の控えのピッチャー。そして、スコアボードに並んだゼロの行列が終わる。

 地区大会の決勝戦での、逆転負け。

 律儀にその一部始終を再生して、夢は終わった。


「……またかよ。ったく」


 ベッドを抜け出て、部屋の時計を見る。

 まだ七時だ。

 実家をねた店舗、リカーショップトノサキの開店は十時からである。だが、その何時間も前から正重の仕事は始まる。

 スマホを手にとって、まずはメールを確認した。


「オヤジからの連絡はナシ、と……」


 正重は姉と二人暮らしで、社長の父親はずっと家を空けている。

 だから、家を継いだ正重が若干18歳で副社長なのだ。

 従業員は配達を担当してくれる人が一人……そして、今日からは二人だ。

 先日面接して採用を伝えた、染井吉乃ソメイヨシノが今日から店に入ってくれる。


「やれやれ、これで帳簿とのにらめっこからも解放される、か」


 自室を出て階段を降りると、台所に立つ姉の背中が見えた。

 味噌汁のいい匂いがして、はやくも食欲が腹の底から湧き上がる。

 軽く挨拶を交わして、そのまま繋がった店舗の方へと正重は歩いた。つっかけのサンダルを履いて、無数の酒瓶さかびんが並ぶ中を歩く。客が出入りする店舗を横切れば、倉庫の中に事務所として使っているスペースがあった。

 姉がいつも新聞を事務所に放り込むので、取りに行ったのだが――


「あ、え、お、うっ……あのっ! おはようございますっ!」


 何故かそこには、吉乃の姿があった。

 初めて会った時と同じ、長いみの黒髪に、黒縁眼鏡くろぶちめがね。化粧っ気はないように見えるが、18歳の正重に異性のナチュラルメイクという概念がいねんはまだわかっていない。

 カジュアルな格好でいいと伝えてあるので、今日の吉乃はジーンズに長袖ながそでのシャツだ。

 白い肌を浮き立たせるように、黒いシャツに黒いジーンズ。

 どこまでいっても地味なモノクロームの吉乃がぎこちなく微笑ほほえむ。


「……なにしてんの、ええと……染井さん」

「あ、はい! 私、新入社員ですし……まず、湯呑ゆのみやマグカップを洗って、事務所の掃除を」

「あ、そう……何で?」

「だって、!」


 見れば、やたらと机も床もピカピカだ。

 聞けば、正重の姉が店のドアを空けてくれたのだという。

 まだ少し寝ぼけているが、正重はぼんやりと吉乃を見詰めた。

 リカーショップトノサキは、就労規則や社員のアレコレに関する取り決めはない。正確には、個人事業主としてそれらのルールがあるのだが、細かくやってるひまなどないのだ。

 掃除は気付いた時に正重がやってたのである。


「あー、うん。ええと」

「あっ、他に何かないですか? え、えと、副社長っ!」

「……うーん、まずその副社長っての、何か、ちょっと」

「す、すみませんっ」


 また、謝った。

 今日も吉乃は「すみません」を口にする。

 恐縮きょうしゅくしてしまって、小さく細い身体をたたむようにうつむいてしまう。

 やれやれと頭をバリボリかきながら、パジャマ姿のまま正重は言葉を選んだ。


「出社、九時でいいですよ。タイムカードはそこにあるんで。掃除や洗い物は、適当に……何か、新人がやるって決まり、あるんですか? その、普通の企業だと」

「私はそう教えられたので……誰よりも早く来て、全員の灰皿はいざらを取り替えたりとか」

「……始業前に?」

「はい」

「勤務外の時間ですよね……あの、手当とかは」

「ない、ですね」


 意外と外の世界は無茶苦茶むちゃくちゃなんだなあ、なんて思った。

 だが、確かに綺麗になった事務所は気持ちがいい。

 でも、掃除婦そうじふやとったつもりはないのだ。


「ま、今度から朝はゆっくりでいいんで」

「えっ! そ、そうなんですか?」

「朝早いと、大変でしょう。俺も、この通りまだ起きたばかりだし」

「じゃあ、もしかして……!?」

「は? いや、九時までに来てくれれば」

「始業ギリギリまでなんて、超重役出勤ちょうじゅうやくしゅっきんですよっ!」


 身を乗り出してしまった吉乃は、あわてて「あ、すみません」とまた小さくなる。

 いったい、彼女はどんな会社に勤めていたのだろう?

 確か、すごーく有名な企業だ。

 日本で知らない人はいない、多国籍な大企業である。

 そして、思い出す。

 ? と。

 そんなことを考えていると、背後で声がした。


「ちょっと、マサ君? 朝ごはんだけど……ねね、もどう?」


 振り向くと、エプロン姿の姉がいた。

 吉乃とは対象的に、地味な部屋着でも一種不思議なはながある。男勝りで快活闊達かいかつかったつな性格で、髪も短くまとめたショートボブだ。

 とつぎ先からの出戻りで、そういえば吉乃と同じ24歳である。


「え、えと、私は……その、社員ですし。……よしのん?」

「染井吉乃だから、よしのん! いいわねえ、あたし好きよ? 綺麗な名前じゃん」

「あ、はい……すみません」

「朝はしっかり食べないと働けないわよ? ほら、マサ君もこっち来て!」


 それだけ行って、住居の方へと姉は戻っていった。

 あれが外崎家の家事一切を取り仕切っている、外崎涼華トノサキリョウカである。四年前によめに行ったが、なんやかやあって実家に戻ってきている。その頃にはもう、正重は野球生命を断たれていたし、父親はその前からずっと家にいなかった。


「えと、じゃあ……染井さんも飯、食べてよ。これ、業務じゃないけど……手当もでないけど、頼める?」

「は、はひっ! じゃあ、あの……すみません、御馳走ごちそうになります」

「うんうん、あと俺のことは副社長じゃなく、正重とかって呼んで」

「わかりました……正重さん。あ、あのっ! じゃあ……私も」

「普段は何て呼ばれてるの? あ、馴れ馴れしくてごめん、普通に染井さんでも――」


 だが、平然と吉乃は仰天ぎょうてんの言葉を放った。

 最初、意味がわからなくて正重は目を点にしてしまった。


「ええと……『おい』とか『こら』とかですね。あとは、『この野郎』『馬鹿野郎』とか……酷いですよね」

「ん、んっ!? ……何それ、酷いっていうか」

鹿はともかく、って……私、これでも一応、仮にも女の子なのに」

「そっちかよ! ってか、一応も仮もなく……おっ、女の人でしょうって」


 それも、美人の女性だ。

 何だか目眩めまいがしたが、とりあえず正重は吉乃を連れて自宅へと戻る。ちゃぶ台の上にはすでに朝食が並んで、興味津々の瞳を輝かせる涼華が待ち構えているのだった。

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