年上の新人は社畜さん

ながやん

第1話「プロローグ」

 外崎正重トノサキマサシゲは、手渡された履歴書りれきしょをまじまじと見る。

 ここは商店街の喫茶店、顔馴染かおなじみの店だ。

 目の前には、緊張した面持おももちのスーツの女性が座っている。

 美人だ。

 地味だが、とても綺麗な人である。

 年は履歴書に、24歳と書いてあるから、6歳も年上だ。彼女が落ち着かない様子なのも、自分が若過ぎるからだと正重は思った。


(へえ、東大出てる……で、就職して……一年でめて? 去年、何もしてない、と)


 チラリと顔を見たら、彼女と目が合った。

 すぐにうつむいてしまう、その仕草しぐさもなんだかかわいらしい。

 長い黒髪を腰までみにって、眼鏡めがねをかけている。今時ちょっと見ない黒縁眼鏡くろぶちめがねが、一層彼女の印象を地味にしていた。黒いスーツに白いシャツ、全くいろどりを感じさせない。

 それなのに、モノクロームに沈んだその姿が、とても美しかった。

 だが、仕事は容姿でするものではない。

 意を決して、正重は口を開く。


「えっと、ハローワークさんから聞いてると思うんですけど……簿記ぼき、できますよね?」

「は、はひっ! ……え、えと、履歴書に……複式簿記ふくしきぼき、大丈夫です」

「あ、そっか……すんません、書いてました」


 履歴書にちゃんと、日商簿記一級と書いてある。

 不自然な空白の一年が気になって、見るのがおろそかになってたらしい。

 他にも、情報処理云々うんぬんとかExcelエクセルWordワード、挙句の果てに危険物取扱者きけんぶつとりあつかいしゃやボイラー技士ぎし電気工事士でんきこうじし船舶免許せんぱくめんきょなんてのもある。

 フムとうなって正重は、言葉を続けた。

 正直、面接なんてどうやっていいかわからない。

 高校入学の時に受けたっきりだし、この春は大学に進学しなかったから。


「えっと、じゃあ……染井吉乃ソメイヨシノ、さん。……凄い名前ですね」

「は、はい……その、すみません」

「あ、いや、なんかおめでたいなって。あ! それも失礼か。ごめん」

「いえ……すみません」


 小さな声が自信のなさを押し出してしまっている。

 中高とどっぷりかった野球部でも、こういう奴は駄目だった。

 声が出ないのではない、出せないのだ。

 そういう選手はすぐに、脱落していった。

 だが、今の正重が彼女に……吉乃に求めるのは、経理と事務の能力である。


「とりあえず、うちは小さな酒屋、リカーショップです。ただ、取引先が意外と多いから、帳簿管理と雑務全般をやりつつ、店番をしてくれる人を探してる。あ、一応俺が副社長ね」

「はい」

「それで……何か聞きたいこと、あります?」


 自分からは、空白の一年の話を聞くつもりだった。

 先に質問をうながしたのは、もう少し人となりというか、相手の言葉を探りたい。終始オドオドしているし、どうにも人物像がつかめないのだ。

 そう思っていると、彼女はビジネスかばんから紙を取り出した。

 テーブルの上に置かれた、それはハローワークの求人票きゅうじんひょうである。


「あ、あの」

「何か、求人内容に不明な点でもありましたか? ……結構単純なことなんですけどね」


 正社員待遇せいしゃいんたいぐう、保険や年金も払って手取りで12万……ちょっとこれ以上は出せない。だから、もっと年配のおばさんとか、定年したおっさんが来るものと思ってた。

 東大卒のバリバリのエリートが、小さな酒屋で経理と事務……妙にミスマッチだ。

 だが、彼女は給与のことには全く触れてこなかった。


「こ、これ……えと、その」

「ああ、週休二日です。土日ばっかりって訳にはいかないですけどね」

「その……?」


 空気が固まった。

 カップを磨くフリをして聞き耳を立てていた、知り合いのマスターも固まってしまう。

 店内には他に客はなく、静かに有線放送でジャズが流れている。

 沈黙の中、サッチモことルイ・アームストロングの歌声が響いていた。


「あー……えっと、週休二日ってのは。あ! 確か、そうだったな」


 そう言えば、少し聞いたことがある。

 求人票に週休二日と書いても、毎週二日間の休日を与えない企業があるという。そしてそれは、ハローワーク側から見ればグレーゾーンとすることが多いらしい。

 週休二日と書いて、毎週は週休二日じゃない。

 本当はそこは、と書くべきだったのだ。

 失念していたので、正重は正直に話す。


「毎週、お休みの日が二日あるってことです」

「えっ!? ……あ、あの、毎週ですか?」

「そうですけど……あれ、何かまずいかな」

「……?」


 今度は正重が「へっ!?」と奇妙な声を出してしまった。

 一ヶ月働いて二日しか休みがなかったら、死んでしまう。

 だが、彼女は他にも求人票を指差して小声で話す。


「毎週二日も休んで、その上……こ、こっ、ここに……」

「ああ、繁忙期はんぼうきのお手当ですね。どうしても盆暮ぼんく正月しょうがついそがしいんで、残業してもらう時にお手当を……あ、あの、染井さん?」

「……え? !?」

「ええ、そのつもりですけど」

? ……まさか、全時間……ですか?」

「いやいや、何百時間も残業するような店じゃないですけど」


 正重は面食めんくらった。

 そして、驚いた。

 その時、信じられないといった顔をしていた吉乃が、笑った。

 まるで、神の祝福を受けた幼子のように、ぱああ、と笑顔になった。

 とても愛らしい、天使か女神のような顔だった。


「あ、あの! 私、こういったサービス業や小売業は初めて、でも、あの!」

「は、はあ……」

「一生懸命やらせて頂きます! 簿、もう何でも言ってもらえれば」

「あ、そゆのはいいです……裏帳簿うらちょうぼ?」

「はいっ! ……あ、その、すみません。つい」


 改めて正重は、履歴書を見た。

 去年、まるまる一年の空白。

 そして、その前は大学卒業と同時に日本一有名な大企業に入社している。で、一年で辞めている。

 何かの人間関係のトラブルか? 痴情ちじょうのもつれ、上司との不倫ふりん? ……そういう雰囲気はない。横領おうりょうや不正といった感じもなさそうだし、履歴書には一身上の都合で退職とある。

 小動物のような吉乃の第一印象に、ネガティブなものはなかった。

 勿論もちろん、ポジティブに思えるアピールポイントも皆無かいむだったが。


「……ま、わかった。明日からこれますか?」

「は、はいっ! ありがとうございまびゅ!」


 また、んだ。

 そして、真っ赤になって吉乃は俯いてしまう。

 白い肌に黒い髪、彩りのない彼女が初めて色付いた。

 ほお桜色さくらいろに染めて、彼女は再度正重を見上げてくる。


「よ、よろしくお願いいたします……私、頑張ります!」

「ん、まあ、あんまし気張きばらないでよろしく。場所、わかる? ここから歩いて五分だけど。染井さんの住所は……あ、結構近いんだ。バスとか使うなら交通費、出すんで」

「えっ……交通費? それ、何ですか?」

「いや、だから通勤時の交通費。バス代とか電車代とか。深夜までの残業になっちゃったらタクシー代出すから……あの? 染井さん?」


 吉乃は固まったまま、何度もまばたきを繰り返していた。

 これが、リカーショップトノサキの新たな社員……年上の新人、染井吉乃との出会いだった。

 そして、正重は後に知ることになる。

 彼女を通じて、社畜しゃちくという人種……いな、そういう生き物が世間にはいるということを。

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