第4話 はじめてと想起


「なぁ良いだろ? 少しくらいさぁ」

「えっと……」


 どうやらこの世界、少なくともこの国に風呂という概念はないらしい。しかしシャワーとトイレはあったのが救いだ。

 この世界は大方近世ヨーロッパのような雰囲気。風呂シャワーが無くて香水が発達とか、トイレが無くて馬鹿デカイドレスで覆いながらそこらへんに糞、みたいなふざけた世界観じゃなくて良かった。

 んなふざけた世界観あるかよ! と突っ込みたい所だが、残念ながら現実の地球の悲しき歴史である。


「折角ンなクソッタレな所でも出会えたんだからさぁ、仲良くしようぜぇ?」

「あの……」


 夜、柚希達転移組がシャワーを済ませた頃。良い酒と肴を用意したので皆様でどうぞ、と王から誘いがあり、地球人水入らずの飲みの席となった。

 勿論柚希は未成年だが、この国では酒の飲める年齢。それに立場やもしかしたら命をかけた戦いに出るかも、という状況など諸々を考えれば酒程度よいだろう、という事で参加している。

 柚希自身未成年と言っても元々舐めるくらいは口にしたことがあったが、しっかりと飲むのはこれが初めて。元の世界ではバーテンダーだったというロマンスグレー、今年で丁度六十になる刈山壮かりやま そうが飲みやすいカクテルを用意した。

 初めて見る酒でも簡単に扱えてしまうのは経験の成せる業だろうか。

 そして問題は、やはり例の問題児であった。


「なんだよぉ……エロい格好して、そんなん見せられたら我慢できねぇよ」

「ちょ……」


 問題児、鳥羽龍二とば りゅうじ。三十手前、自称暴力団所属。「山郷愚連隊っちゅーのだわ。」とドヤ顔で言い放つ様子に柚希は笑いを堪えるのが限界だった。下を向いて震える様子は龍二からすると恐れ戦く様に見えたのだが、それは柚希の知ることではない。

 それに絡まれて困っているのは都内暮らしの大学二年、笹原優奈ささはら ゆな。おさげが似合うロリ巨乳。推定Fカップ。

 調子に乗った龍二の手が優奈の太ももを伝い始めた所で、壮がその手を掴んで制止した。危うくぶん殴る勢いだった柚希は一安心するが、当のパイナップルは初老を睨みつける。


「ンだオッサン。……ムカつくなぁー?」

「もうやめなさい。嫌がっているでしょう。」


 龍二は精一杯の憎しみを込めて睨むが、しかし荘は全く動じない。

 空気が直接肌を刺すようにピリピリと震える。

 やがて根負けしたのか龍二が手を振り払うが──


「調子乗ん、なっ!!」


 油断した隙を狙ったのか、一度振り払ったその手を振りかぶって荘の鼻先目掛けて思い切り裏拳を入れる。

 『世界を渡る』事で、強化された肉体。

 その力は、実際に龍二の起こした行動でもわかる通り人智を超えている。その力による拳となると馬鹿にならない威力を誇る。……が。


「ここはそういう場では、ありませんよ。」

「っつつ……って……!」


 その力を持つのは龍二だけではない。此処にいる皆がそうなのだ。

 勿論裏拳を受けた壮にも該当する。

 彼はその拳を難なく手で受け止めたのだ。それどころか拳を掴んだ手に徐々に力を加えると、苦痛に龍二の表情が歪む。壮の方が力では一枚上手なのだろうか。


「……チッ……ダリい。テメェらで勝手にやってろクソ共」


 離せ、と言って今度こそ手を振り払った龍二は悪態をつきながらドアの横に飾られた壺を八つ当たりに蹴り飛ばして粉々にした後、部屋を出ていく。調度品のひとつひとつが日本人の平均生涯年収すら超えるのではと思わせるこの城だが、現環境では腹の膨れない宝なんてゴミ同然だろう。きっと王も気にするまい。


「あ、あの、ありがとう、ございます……」

「いえいえ。」


 おどおどと頭を下げる優奈と、それに応じる壮。しかしこのやり取りを見て、柚希は改めて自身の力を思い出した。

 今の自分は、かつての一般人ではないのだ、と。

 只の喧嘩程度のつもりでも、人を殴ったらそれは喧嘩レベルでは済まないのかもしれない、と。


「柚希君、お酒、口に合いませんでしたか?」

「あっ、いえいえ! とっても美味しいです。酒をちゃんと飲むの初めてだけど、飲みやすくて。」


 柚希が考え事をしていると、壮は口に合わなかったのか、と勘違いして気にかける。

 流石ですね! と柚希は称えるが、しかし荘は少し首をかしげた。


「んん……そこまで飲みやすい、となると、心身の強化とやらの影響もあるかもしれないですね。」

「ああ……確かに」


 心身の強化。

 それは人間の機能殆どに該当するものらしい。単純な筋力に、視力聴力などの五感。さらには回復能力など。内蔵も該当するのならば、酒程度で体がダメージを負わなくなっている、ということだ。


「え……てか、今首傾げたってことはもしかして結構強い酒入れてました?」

「ハッハッハ」

「おいおい! 話が違う!」

「ふふっ……」


 二人の会話に、優奈も小さく笑う。

 反射的に優奈に注目が集まると、優奈は少し紅潮して。


「あっ、いえ、す、すみませんっ……つい……」


 そう言うと顔を真っ赤に染めて下を向いてしまう。

 心身が強化されてこれとは、元はどれだけ人見知りだったのだろうか。それともそこは関係ないのだろうか。

 しかし、そんな優奈の様子のお陰もあって、場は少し和むのだった。





 自身の過去やら趣味やら、世間話をしながらある程度酒が入り。


「えぇっへぇっへぇっへぇ! なぁしょぉねぇん。なぁ……な!」

「ええと、何が……」

「何がってなぁそりゃぁ……何だっけなぁ! あぁっはぁっはっはぁ!」


 柚希は、生まれて初めて酔っぱらいに絡まれていた。その酔っぱらいとは何を隠そう、笹原優奈である。

 酒に完全に呑まれるタイプの彼女はすっかり出来上がって、会話もままならないレベルだった。

 思い切り肩を組んできた最初はその肩に当たる柔らかな感触に柚希も心を安らげたものだが、ずっとなすりつけられているとその幸福感もだんだんと薄れ、今では鬱陶しいだけであった。というか暑い。蒸れる。

 滅多に手に入らないからこそ、美しくなる物もあるのだな、と柚希は達観する。


「酒への耐性も強くなってるはずなんじゃ……」

「さぁ……個人差があるのかもしれませんし……。」

「あぁ!? なんだぁ!? 二人でぇコソコソコソコソぉ。ズルいぞぉん!」


 体へのダメージは無くとも脳の麻痺は無くならないのか。はたまた優奈の場合はこうだった、というだけか。兎に角心身の強化など信じられないほどべろべろに酔っている優奈との意思疎通を二人は諦め、無いものとする事にした。


「ところで刈山さん、真面目な話なんですが。」

「おぉ! 真面目なァ、話ぃ? おぉぉっほぉっほぉ!」


 壮は「はい」とだけ頷く。


「正直、どう思ってますか? この国に、協力しますか?」

「んー、どぉしよぉね! こわいししんぱい!」


 柚希は単刀直入に聞く。

 まどろっこしいのは無しだ。ましてや腹の探り合いなどする気はない。数少ない、同じ境遇の人間なのだから。


「正直、ですか。心はまだ、全く決まっていませんよ。倒してほしいという相手方の戦力も分かりませんし、それどころか自分の力もわかっていない。ここに来た前後の記憶も無いですし、ここが何処かもわからない。何もかも、分からないですからね。」

「どぅっへっへぇ〜。ぶゅ〜ん」

「そうなんですよね。この力がどれだけ強くても相手に通用しないのなら意味がない。それにここに来る前後、何か大事な、大変な事があった気がするんです……。」


 壮も同じく。

 簡単に決意が固まるはずは無かった。

 壮は真剣な眼差しの目を細めると、「そして、もう一つ道はあります。」と言って指をひとつ立てる。


「相手方、つまり魔王、とやらですか。そちらに寝返るのです。」

「………」

「んにゃ! いけない! 荘ちゃん悪い子だよぉ〜!」


 もし万が一我々が圧倒的に強い、という程の力でなく、相手方に敵わないとしたら。しかしそれでも敵方に通用する程度の力があるのならば、向こうも迎え入れてくれるかもしれない、と言う。

 正しい意見だ。明らかな有利側に付くというこの案は寧ろ合理的である。

 しかし。

 それはとても。


「胸糞悪いですよね……」

「そうですね。」

「うん。そぉだぁ。柚くんそのとーーり!」


 だがこれは自身の命に関わる選択。胸糞悪くても性格悪くても、だからといって簡単に切り捨てる事のできる選択肢では無い。

 勿論断られ、殺し合いになる可能性も十二分にあるが、情報の少ない今現在一番生存率の高い道はこれだ。もとの世界に戻れるのかはわからない。

 合理的に、自身の命を考えるのならば、一番の道なのだ。


「でも、そんな事しないですよね。」

「ええ、勿論。」

「おぉうぇっほぉぅっぺ!」


 身勝手でも、民の為に勇者を呼び、その者達に斬られる覚悟をも持つ王を見て。

 親しき人間を殺され、絶望の淵に立つ少女を見て。

 そんな彼ら彼女らを簡単に切り捨てられるほど、柚希は感情を失ってはいなかった。


「僕はもうだいぶ前に妻に先立たれていましてね。誰かの役に立って妻のもとに逝けるのなら、良いのではないか、なんて思っています。」

「……ぶぅ〜ぺぇ〜…………」


 壮も同じく、この城で働く者といくらか話をした。

 彼ら彼女らを裏切った罪悪感を背負ってまで生き永らえたいと、壮は思っていなかった。

 話の通じない優奈を除き、この国に協力する事に関しては「前向きに検討」という事で少なくとも壮と柚希の意見は一致し、この飲みの席はあまり遅くない時間にお開きとなった。




「はえ~、すっごい」


 どこまでも続くかのような長い廊下。まあ、実を言えば端は見えているが、だがそれくらい長い。廊下には今にも動き出しそうな甲冑が等間隔に配置され、圧迫感を感じさせる。

 柚希は先の人生初の飲み会が終わり、その足でまたも城内を散策していた。昔から家族との旅行などの時、大きめのホテルだと敷地内や少し外まで散策するのが好きな質だった。

 近世風の、しかも現在進行形で使われている城などに来たらそのスキルが発動するのは当たり前だろう。ただの廊下でも飽きないというものだ。

 それだけではない。異世界、勇者、王、魔王。さらに亜人、魔法まであるという。突然降りかかったこの訳のわからない状況を整理するのにこの特に何もない空間での散歩は丁度良かった。

 整理したところでどうにもならないのは言うまでもないが。

 と、そんなときだった。



「──っ! ──!」



 鼻歌交りに散策していた柚希は、ふと足を止める。柚希の耳に、微かに遠くの喧騒が聞こえた気がしたのだ。

 本来なら聞こえるはずもない、遠くの小さな音。だが世界を渡った影響、『恩恵』とでも言おうか、聴力にも該当するそれの影響により、その超人的な聴覚は何かを捉えた。

 柚希はその声の方へもう少し進んでみる。


「──!」


 また聞こえた。


「──やっ……!」


 気のせいではない。最早疑念は確信に変わり、彼の足は進む速度を少しずつ上げていた。

 近づくにつれ、その声は段々とはっきりと聞こえてくる。


「─が……ってん……? ほら……や……」

「……ぃ……」


 ここで柚希は、二人の会話、その声の主を理解する。

 高圧的な態度を取るような男は柚希と同じく召喚された男、鳥羽龍二。そしてもう一人、女の声は──


「ンのクソ野郎……!!」


 いつの間にか柚希は全速力で廊下を駆けていた。その脚力に堪え兼ねた床が悲鳴のようにバキバキと音をたててめくれあがるが、それでも構わず走り続ける。

 走る勢いを殺さぬまま柚希は近くの甲冑の腰についた剣を取る。模造品のそれはそもそも鞘から抜くことが出来ず、鞘ごと甲冑から引き剥がす。

 正確な部屋の位置まで、既にはっきりとわかっている。


「へぇ〜、やっぱし服の上からでも分かってたけどけっこう良い体してるじゃん。」

「お、お許し下さい……」


 今にも消え入りそうな微かな声。

 アネットの声だ。

 いよいよ時間は無い。柚希は全速力の勢いのまま扉を蹴破──


「っわぁあぁ!? なっ、何だよ!?」


るどころか、体当たりでふき飛ばした。

 桁違いのエネルギーを受けた扉は爆音と共に無残に砕け散る。

 目の前の女に夢中だったのか、柚希が走ってくる音に全く気付かなかった龍二は扉の爆ぜる音で危うく心臓が飛び出そうになる。

 が、それも恩恵による心身強化の影響なのだろうか、すぐに落ち着きを取り戻し、それどころか下賤な笑みを浮かべる。


「あァ? ンだクソガキかよぉ。あーわかってらわかってら。」

「……? なにが?」

「お前も参加してぇんだろ? しゃーねぇ特別に俺のおさがりで筆下ろしさせたるよ! それまではまぁ……お手本見せてやっからシコッてろ」


 龍二は服を引き裂かれたアネットにのしかかり、今にも襲う寸前だった。

 龍二の自分勝手で不愉快極まりない言葉に柚希は堪忍袋の緒が切れる。


「えっとさ、そーじゃねえって。嫌がってるから、やめろって。」

「あ? るせえ邪魔すんな。」


 鞘を握る拳に力が入り、模造刀は中程でぐにゃりと拉げる。

 金属の捻じ曲がる鈍い音に龍二は再び振り返る。


「ンだそれ。何のつもりだよ。」

「いいから、さっさと、離れろって」


 しかし柚希の威圧など子供の癇癪とでも言いたげに龍二はゲラゲラと嗤う。


「やれるもんならやってみろ、腰抜──」


 龍二が言いながらアネットに向き直った、つまり柚希に背を向けた時だった。

 柚希の手に握られていたはずの中折れの鞘、それが龍二の腹部を貫く。


「…ぁ」


 意識が混乱し、僅かに振り向いた時。

 柚希の爪先が抉るように顎に食い込み──


「ぉ」


 鳥羽龍二の体は首とそれ以外の2つに分裂した。

 もげた首から噴水のように大量の血液が吹き出す。

 そして柚希は、血の香りで思い出す。

 そう、この香りだ。

 俺はここに来る時、この香りに包まれていたのだ、と。



「ひっ……」


 部屋には液体の滴る音と、絞り出したような女性の悲鳴にもならない呼吸音だけが響き渡った。

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