第26話

 


 俺がまだ三歳の時のことだ。

 父が病気で亡くなった。



 まだ幼かった俺はあまり実感がわかず、泣くことも出来なかった。



 母は毎日夜遅くまで働いて、俺を育ててくれた。祖父は俺が生まれる前に他界していたので、正確には母と祖母の二人で俺を育ててくれた。


 母は仕事が忙しく、俺の面倒をよく見てくれていたのは、祖母だった。


 俺は母と祖母の手によって、愛情いっぱいに育てられた。


 忙しい母になかなか会えず、寂しい思いをしたこともあった。でもそんな時は何も言わず、祖母がしわしわの手で頭を撫でくれた。



 そんな祖母は、俺が小学生の頃に認知症を患った。



 症状は毎日少しずつ悪化し、寝たきりになってしまった祖母は施設に入った。


 俺は毎日お見舞いに行った。


 しかし、お見舞いに行っても、祖母は次第に俺のことが分からなくなり、突然意味の分からないことを喋り出すようになった。幼い俺は、祖母が全然知らない人になってしまったようで凄く怖かった。



 だから逃げ出した。



 俺はあまり祖母のお見舞いに行かなくなった。


 毎日学校帰りに行っていたお見舞いが、2日に1回に減り、3日に1回に減り、最後は必要最低限しか行かなくなった。祖母と喋る時間も減り、祖母に一言声をかけて帰るだけの日もあった。



 祖母と喋るたび、悲しい気持ちが自分の中に蓄積された。今思えば、弱ってく祖母から目を背けたかったんだと思う。



 そして祖母をひとりで逝かせてしまった。



 葬儀中も、葬儀が終わった後も、俺の中にあるのは悲しみと後悔だけだった。



 あんなに優しくしてもらったのに、

 あんなに愛情を貰ったのに、


 俺は一体祖母に何を返せた?

 祖母のために何が出来た?


 答えは自分が一番分かっていた。


 何も返せていない。

 何も出来ていない。



 悲しみと後悔の涙で顔面をぐちゃぐちゃにしながら、祖母の墓の前で俺は誓った。



 母は絶対にひとりにしないと。

 母には絶対に恩を返すと。



 俺は俺の手で、絶対に母を幸せにすると心に決めた。



 本当は中学を卒業してすぐに働こうとしたが、母の強い思いもあり、高校に進学した。バイトをしながら高校に通い、高校を卒業してすぐ働き始めた。


 自分が働くようになってよく分かる。


 母が一人で働いて、稼いで、子供を育てるのが、どれだけ大変だったかということが。


 俺も働くようになり、母は少しだけ楽になったかもしれない。



 でも、まだだ。

 まだ全然足りない。

 稼いで稼いで稼ぎまくって、母に楽をさせる。



 ボロアパートじゃない、庭付きの大きな家を建てて、動物好きの母がずっと飼いたいと言っていた大きな犬を飼って、幸せに暮らす。



 そんな野望を誰にも語ったことはないが、自分の中でずっと持っていた。



 母は昔「生涯、お父さん以上に愛する人はいないわ」と笑い、再婚を考えていないと言っていた。きっとその思いを変わらず貫くのだろう。


 俺がいなくなってしまえば、母はひとりだ。母は薄暗いボロアパートで、ひとりぼっちになってしまう。また……祖母の時みたいに、ひとりにしてしまう。


 子供の頃、家でひとり母の帰りを待つことが、どれだけ寂しかったか。森の中でひとり彷徨っていた時、自分がどれだけ心細かったか。病院でひとりの祖母は、どれだけ辛かっただろう。



 そんな思いを、母にまでさせるわけにはいかない。



 だから俺は帰りたい。

 帰らなくちゃいけない、家に。



 心が折れそうになったり、覚悟が揺らぎそうになった時は、いつも家の鍵を握りしめる。


 鍵についているボロボロのキーホルダーは、父さんが生きていた頃に行った、家族旅行で買ったものだ。


 家族旅行のことは正直、殆ど覚えていない。でも、このキーホルダーのキャラクターが気に入って、両親にねだって買ってもらったことは覚えている。


 もう塗装が剥げてしまって、何のキャラクターだったのかも分からないような代物だ。でも、大人になってもずっと捨てられずに持ち続けている。



 多分、これからもずっと捨てられないだろう。



 ……



 俺は帰りたい理由を、言葉を選びながらぽつりぽつりと二人に話す。

 話し終わった後は、この部屋に入って来た時よりも更に、重苦しい空気になっていた。


『あー……なんか、暗い話になっちゃって、ごめん……』


 俺は沈んだ空気が申し訳なくなり、思わず二人に謝罪する。

 静かに俺の話を聞いていたフレドが顔を上げて、穏やかに笑う。


『なるほどな……。そっか、分かった』


 ティミドも顔を上げ、同じように笑う。


『……ありがとう、トワ。そんな大事な話……してくれて』


 フレドとティミドは先程までの暗い表情が嘘のように、明るく笑いだす。


『じゃ、仕方ないな! そりゃあ帰んなきゃな!』


『そうだね……トワのお母さん、きっと待ってるもんね……!』


 そして二人で頷きあった後、予想もしていなかった言葉を続ける。



『トワ、俺もその旅、一緒に行ってやるよ!』

『トワ、私もその旅……一緒に行かせて!』



 フレドとティミドが嬉しそうに『本番はバッチリ揃った!』と喜んでいる。どうやら二人で事前に練習していたらしい。


『ティミドと話してさ、決めてたんだよ。トワがノイに残らないなら……旅に出るなら、俺達も付いて行こうって!』


『そうなの……! フレドは力持ちだし、私は……力は弱いけど、魔法、得意だし!』


『トワ一人で旅するなんて、命を捨てに行くようなもんだからな!』


 二人は明るく笑い『これで旅も安心だ』なんて話している。


 ―― あぁ、もう、本当にどこまで優しいんだ。どこまで俺を甘やかせば気が済むんだ。



『二人とも、ありがとう』



 泣きそうになりながら、俺は二人に感謝の言葉を継げる。どうして俺は感謝の言葉をこれしか知らないのだろう。こんな言葉で、こんな短い言葉でどうやってこの思いを伝えればいいんだ。


 二人は笑いながら、三人で旅した後のことを考えてくれる。


『いいってことよ! 魔物とか出たら、俺が近距離で戦って、トワは中距離からジュウで攻撃。ティミドは魔法で後方から支援って感じかな?』


『ふふ……三人で組んだ戦い方、考えなきゃね……!』


『料理はトワがすればいいだろ? ま、片付けくらいは俺がやってやるよ!』


『わ、私も料理出来るもん……! お、お手伝いくらいなら……』


 そんな風に三人で旅出来たら、それはそれは楽しいだろう。


 でも、二人の優しさに甘えるわけにはいかない。あの日の夜、俺はもちを抱きしめながら、ちゃんと考えた。目をそらし続けていたことを。



―― 皆とは、ちゃんとお別れするともう決めている。



『本当に、ありがとう。でも、二人を旅に連れていくことは出来ない』



 楽しそうに話していたフレドとティミドは、信じられないものを見るように、俺を凝視する。


『はぁ!? なんでだよ!?』

『なっ、なんで!?』


 二人とも声を荒げ、俺に詰めかかってくる。


『な、なんでだよ、トワ!? お前がノイに残れない理由は分かった……! でも何で俺達が旅に付いていくのが駄目なんだよ!?』


『そ、そうだよ……! トワは一緒に旅に行く人、探してたんでしょ?』


 二人は口々に理由を聞いてくる。少し前の……考えなしの俺なら、喜んで二人の申し出を受け入れてたかもしれない。だけど俺はもう、ちゃんと別れを覚悟している。



『二人の気持ちはすごく嬉しい。でも、俺は最初は自分の意志で、次は自分の意志に関係なく……家族と離れてしまったことを、凄く後悔してる。二人に、そんな思いはさせられない。させたくない、絶対に』



 俺が真剣にそう告げれば、フレドは少し怒ったように叫ぶ。


『俺達はちゃんと考えた! トワの旅に付いて行って、後悔なんかしねぇよ!』


『私も……! ちゃんと考えた! 後悔なんてしない!』


 フレドもティミドも力強く言い切ってくれる。二人がそう言ってくれるだけで充分だ。俺の心は満たされる。


『二人を家族から引き離すなんて出来ない、したくない、させないでくれ。二人が後悔しないって言ってくれて、本当に嬉しい。それだけでもう、充分なんだ』


 笑顔で俺がそう告げれば、二人は『でも……』とまだ食い下がってくれる。俺は言葉を続ける。


『二人は後悔しないでいてくれるかもしれない。でも、俺がきっと後悔する。きっと自己嫌悪に陥って、ずっと後悔する。すげー引きずる。もうこれ以上、俺は後悔を重ねたくないんだよ、分かってくれ』


 そう、二人には申し訳ないが、結局のところ自分のためでもあるのだ。


 二人を旅に連れて行ったら、二人にも、二人の家族にも、きっとずっと申し訳なく思い、俺は罪悪感に苛まれ続けるだろう。


『……そんな言い方……卑怯だよ、トワ』


『本当に……卑怯だぜ、トワ。そんな言われ方したら、無理やり付いていくことも出来ないだろ……!』


 恨みがましく俺を睨みながら、ティミドとフレドが口々に俺を責める。



『悪いな、自分勝手なんだよ、俺は。でも本当に、二人の気持ちは嬉しかった。ありがとう』



 俺がしてやったりという表情で二人に笑いかける。その顔を見て、二人は少しポカンと間の抜けた顔をする。


 そしてフレドはちょっと笑顔に失敗したみたいな変な表情で、いつものように軽口を叩く。


『あーあ、じゃあもう連れていけなんて言わねぇよ! 薄情なトワは一人で行っちまえ!』


『悪いな、薄情で』


『本当にな!』


 ティミドは気持ちを切り替えられないのか、急に意見を覆(くつがえ)したフレドを戸惑ったように見つめる。

 

『ふ、フレド……! なんで……!? え、で、でも……!』


 フレドはそんなティミドの肩を引き寄せ、耳元で囁く。


『諦めろ、ティミド。トワの顔見りゃ分かるだろ。あいつ、絶対意見を曲げないって顔してるぜ』



 それ、肩引き寄せる必要ありますかね、フレドさん?

 耳元で囁かなくても、普通に言えばいいんじゃないですかね、フレドさん?



 俺の心の声は口に出ていたようだ。ちゃんとフレド達に伝わる言語で。


 フレドは『今その突っ込みいらなくね?』と言いながら、更にティミドを抱き寄せ、にやにや笑う。抱き寄せられたティミドは、顔を真っ赤にして『え? え?』と俺の顔とフレドの顔を何度も交互に見る。


『ま、俺とティミドがついてったら、トワが疎外感感じて可哀想だもんな』


『へーへーそうですよーらぶらぶいちゃいちゃカップルと一緒に旅なんて俺には出来ませんよー』


『え、えぇ……?』


 ティミドはさっきから『え』という言葉しか言えていない。そして段々とティミドも諦めがついたのか、少し悲しそうに笑いながら言う。



『そうだよね……楽しそうにしてるのを一人で外から見てるの……辛いもんね』



 なんというか……ティミドが言うと、その言葉がすごく重い。


 一瞬空気がまた固まった気がしたが、俺は『そ、そうそう! は、はははは!』と棒読みな笑いを返し、フレドも『は、はははは!』とよく分からない笑い声を上げた。


 ティミドは不自然に笑う俺達を見て、不思議そうに首を傾げながら『え、えへへ?』と一緒に笑ってくれた。


 多分ティミドなりに冗談……軽口を叩いたつもりだったのだろう。俺達にしてみれば軽口じゃなく、重口だったが。



『じゃ、じゃあ、トワが一人で旅に出てもボコボコにされないように、せめてアイディアくらいは考えてやろうぜ!』



 フレドの一声により、俺が旅に出た場合の行動について、三人で話し合うことになった。


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