第五幕



 大切にされているという実感はある。あるにはあるが、それが枷になっているのも事実だ。それが邪魔をして思い通りにコトが運ばれない。しかし口で言ってもそれに応えてくれるとは到底思えないし、簡単にいって八方塞りである。なんとか先に進みたいと思うが、あの頑固なおっさんをどうその気にさせればよいのやら。

「どんな理性してんだろ。きっと馬鹿みたいにでっかくて硬い理性してんだろうな」

「いや、逆に偉いと思うけどな」

 美雨の友人の赤羽翔はクロを男として尊敬しているらしい。

 しかし美雨はもう溜息しかでない。その理性をどうにかこうにかしてぶっ壊してやりたいと思うが、良い案が思いつかない。

 美雨は視線を自分の体に向けて自分の手で胸を触った。

「こんなんじゃまだダメなのかなぁ……はぁーあ」

「ちょ、ちょっとおお?」

 早く大人になりたい。兄妹と間違われないように釣り合う大人の女になりたい。しかしそれは願っても無理な話で、時間が経つのを待つしかない。どうしたもんかなと頭を悩ませていると、横を車が通り過ぎて行って少し向こうで止まった。窓が開いて中から顔が出る。

「なにをやっとんじゃ」

 自分の胸を自分で揉んでいる瞬間を目撃されてしまった。パッと手を放す。

「あっ、おじーちゃん」

 十干機関が一つ、壬の当主だった。

「乗ってくか?」

「うん。お願い。翔も乗りな」

「お、お邪魔します」

 その後、美雨は今の悩みを壬に打ち明けた。くだらんと笑っていたが真剣に聞いてくれて真剣に答えてくれた。そしてその後の方法も。決してそれが最善とは言えないが、クロにとっては最悪だろうが、美雨は面白いと思うし、先に進めるならと承諾した。

 それから数日間に渡って二人の厳しいレッスンが始まった。なぜ翔までレッスンを受けているのかというと、壬や美雨が口説き落としたからだ。このミッションにはもう一人信用できる人間が必要で、ちょうど運悪くそこにいた翔に白羽の矢がたったのだ。翔はそのミッションの作戦を聞いてしまったので後にも引けずに半ば強引に参加させられてしまった。

「まだへばるには早いぞ! ほれワンツーワンツー」

「お、おじーちゃん、もう無理~!」

「おじーちゃんではなーい! 師匠と呼べーい!」

「ししょー!」

 きつくも楽しい訓練のようだった。

 それからそれから。

「よし、完璧じゃな。作戦は明日行う。美雨はしばらくは誰とも連絡をとらないように携帯は家において行けい。翔は明日の放課後にマル秘と接触。近くで見といてやるから存分に暴れろ」

「了解しました師匠!」

 うむうむとご満悦に頷く師匠。

「私はどこで何をしてればいいの?」

「学校が終わり次第、儂の所有するビルに隠れておればよい。住所はこれだ。中野という者がおるから儂から言われてきたと説明すれば良い」

 そう言って紙切れを渡した。

「ここに行って中野さんに言えばいいわけね。りょーかい」

 役わりは決まった。あとは明日の決行日を待つだけだ。

 ちなみに三人が行う明日の作戦というものは、一言でいって、誘拐だ。もちろん演技の誘拐だ。翔がクロを脅して美雨は隠れてクロが助けに来るのを待つ。大切な人が誘拐などされたら黙っておけないだろう。自分の気持ちを再確認させる為に壬はこの作戦を思いついたが、所詮穴だらけの作戦だ。これがそう上手くいくとは思えないが、なんらかの進歩があるような気がした。美雨は警察官の娘だし身代金目的の誘拐をされてもおかしくない。それを最大限生かす。





 決行日当日。

「今日あやつは仕事は休み。これから美雨と会う約束をしておる。家を出たら……勝負だ」

 勝負といってもそれは一方的に行われるのでその表現は間違っている。たんなる嫌がらせだと言われても仕方がない。翔はここにきて、もっと他に何かやり方があるのではないかと思ったが、もう何を言っても遅いし、十干機関の一つである壬に反論など出来るはずもない。故に、やるしかない。これで何かが変わるはずだ、と信じて。

 今二人はクロのアパートの近くに車を停めて監視をしている。

「りょ、了解」

 翔の顔は緊張でいっぱいだった。上手く演じられる事ができるだろうか。あんなに練習をしたのだから大丈夫のはず。自分に言い聞かせるしかない。そんな事を考えている時だった。

「来た」

 ここからはとてもスムーズだった。時間にしたらほんの三分ぐらいの出来事だったろう。たった三分ですべてが入れ替わる。クロにしてみれば最悪の三分だ。

 クロがドアを開けて出て来た。それと同時に翔の緊張はスッと下がっていった。車から降りて気がつかれない様にクロの傍に走っていく。大丈夫、緊張は自分でも驚くほどしていない。クロはまだ気が付いていない。背後を、とった。

「すいません」

 クロは声をかけられて後ろを無意識で振り返える。条件反射というものは恐ろしい。かと言って、それを意識的に止めるのは不可能だ。だからこれは事故や災害や天災と思って諦めるしかない。

クロが振り返ったと同時に腹に衝撃が走った。

「ぐ――ッ」

 そして続けて左頬にも。

 何が起こったのか理解が出来なかった。突然鉛のようなものが腹に直撃したのかと思ったがそうではない。地面に膝をついて地面を見つめる。思考は何も追いついていない。なぜ自分が地面を見ているのか、なぜこんなにも苦しいのか全くわからなかった。

「か、かはっ」

 容赦ない一撃。翔は冷たい表情のままクロを見下していた。いつまで経っても顔をあげないので痺れを切らした翔はクロの右肩の辺りを思いっきり踏みつけた。

「――ッ」

 声にならない。少し顔を上げたら靴が見えた。そこでようやく誰かに殴られて今現在踏みつけにされているのだと悟った。しかし、わからない事がある。相手は誰だ? 庚に恨みを持つ人間か? いつかこんな日が来るとは思っていた。同じ名前を持っているのだ。報復にあったとしても仕方がない。でも、でも今はダメだ。ようやく見つけたものがある。それを手放す訳にはいかない。こんなところで殺されてたまるか。

「朝日美雨」

 その名前を聞いた瞬間に潮の満ち引きよりも激しく一気に血の気が引いた。何をされて何を言われているのかまったくわからなかったが、その言葉だけは鮮明に聞き取れた。砂漠の中から一つの砂を迷う事なく一発で見つけ出したかのような感覚に近い。それほどその言葉は、名前はクロにとってとても重要なものだった。

「そいつを預かっている。あんたと仲がいいんだってなぁ? とりあえず今日はただのあいさつだ。あんたは苦しんで生きるべき人間なのは自分がよく知ってんだろ。今日のところは退散するが、この事、他言無用で頼むぜ?」

 端的に告げた。それ以上言うのは無意味だし、覚えてられるかどうか怪しい。必要のないお喋りはする必要はない。決められた台詞を言うだけだ。

 そう告げて最後にもう一撃、腹を思いっきり蹴り上げた。肋骨が軋む音が聞こえる。肺の中の空気は全て外に押し出されてしまった。どんなに息を吸おうとしても吐き出すばかりで空気が入っていかない。クロは意識だけは失わまいと懸命に考えるが、どうする事もできない。せめて相手がどんな奴なのか一目だけでも見る必要がある。しかし視界はぼんやりしているし、もう後ろ姿が微かに一瞬見えただけだった。

「――クソッ」

 意味がわからない。なぜ美雨が狙われる? 自分の、名前の意味を見誤っていた。最近まったく警戒心がなくなっていた。自分と接点を持てばどんな苦労をするか、あれほどわかっていたのに、ぬるま湯につかってその事を完全に忘れていた。

「クソッ、クソッ、クソがッ――」

 地面を何度も殴った。本当に殴りたかったのは地面でも今の男でもなく自分の顔だ。もっと正確に言うなら名前だ。この瞬間ほど庚の名前を憎いと思った事はない。名前が具現化して物に出来たなら、さぞかしぞんざいに扱うだろう。お前はいらない、消えてくれと告げるだろう。しかしそんな事が出来るはずもない。これは八つ当たりだ。でも、その八つ当たり先が見当たらない。どこかに向けて発散しなければ狂ってしまいそうなほど今の状況は最悪だ。未だに立ち上がれなく芋虫のように這いつくばっている自分はさぞかし滑稽だろう。吐き気がする。体に力は入らないし頭はくらくらする。左頬は腫れ上がっているし脇腹は呼吸をすると軋む。

 だからその声を聞いた時、幻聴かと思った。いるはずのない人物の声。

「……無様だな」

「……」

 クロは何も答えない。

「あんなガキにいいように言われて……恥ずかしくねーのかよ」

「……」

 クロは何も答えられない。

「人一人守れねーとか無力だよな」

「……」

 幻聴、ではない。聞き覚えがある懐かしい声。幽霊だとかそんな類のものでは断じてない。懐かしくて、心細いときに何度も聞きたくなったあの声。それが今、目の前にいる。

「これがお前の選らんだ道だ。あの時に全部覚悟したはずだ」

「……」

 一体何年ぶりだろうか。あの頃と少しも声質が変わっていない。喋り方もあの時のままだ。

「結局、そんな願いは叶わねー。無理にきまってんだろ。血筋は、途切れねぇ」

 何を言われているのか、理解できる。その通りだと思う。

 どんなに抗ってもそれは追いかけてくる。つまり、引きはがす事は決してできない。いうならばそれは一心同体のものだ。そんなものからどう抗えというのだろう。

「無理だったんだよ。お前に普通の生活なんて。これからどうするべきか……」

 言わずともわかっているはずだろと男は静かに告げた。

 クロは拳を握りしめて吐き気と涙を堪えて終わりの台詞を言う。元に還るべき台詞だ。これを言えばもう抗う事はできない。今まで築き上げたものはその一言で全て崩れ去ってしまう。それこそ美雨との関係も。しかし、このまま誘拐されたままでは我慢ならない。このまま失うなど我慢ならない。全てを懸けて全てを捨ててでも守ってみせる。ここで迷う事はなかった。天秤にかけるまでもない。分かりきった事だ。

「……探せ」

 ぼそりと静かにそう呟いた。

「探せ。探し出せ、支倉」

 男は何年もその言葉を待っていたかのように柔らかい笑みを作った。

「かしこまりました」

 恭しく片膝をつけて頭を垂れたのだった。





 翔は車へと急いで戻った。

「ふ、ふぃ~」

 一気に緊張がぬけた。

「中々の演技じゃったぞ」

「それはどうも」

 ミッションはクリアだ。第一関門突破。しかしここからが本番だ。

「とりあえず移動だ。おい、車を出せ」

 静かにその場を離れる。壬はミラー越しに後ろを見た。

「ん? あれは……」

 すると一瞬、一人の男が見えた気がした。しかも顔見知りの男の顔だった。

「いや、まさかな」

 距離が随分あるし、たんなる見間違いだろうと思った。こんなところにいるはずがない男の顔が見えるなど、自分も歳をとったものだと溜息が出る。

「どうしたんですか?」

 壬の表情は強張っていた。まるで亡霊でも見たかのような顔をしている。

「いや、なんでもない。今後の予定はあやつがどういった行動に出るか。お前さんは普通に生活しとれ。あやつは儂が見張る」

「普通に?」

「今から普通に帰って寝て明日学校に行け。学校が一番安全だ。さすがにつきとめられても学校内までは這入ってくりゃせん。明日、帰りの時間になったら迎えをよこしてやる。美雨の事は心配せんでええ。今から行って様子を見てくる」

「わかりました」

 壬に任せておけば大丈夫。何も問題ない。なんといっても十干機関の一つである壬なのだ。その影響力は凄まじい。白を黒と言えば黒になる。それこそ庚クラスの悪名なのかもしれないが、それがなぜ悪名でないかというと理由は二つだ。

 まず一つ。壬が警察のトップだから。

 もう一つは、単純に庚の方が非人道的で有名だからだ。薄い影は濃い影に飲み込まれる。それは自然の摂理だ。

 それから壬は翔を家まで送り届けたあとに美雨をかくまっているビルへと行った。しかしここで作戦を覆す大きな誤算が生じた。

 それはその場所に美雨がいなかった事だ。

「あんの小娘が」

 どういったつもりだと頭の血管が浮き出てくる。これではせっかく立てた作戦がパアだ。出かけるなど言語道断。と、思っていたらどうやら違うらしい。

「なに? 一度も来ていない?」

 そう、美雨はまだこの場所を訪れていないというのだ。どこかに寄り道でもしているのだろうかと壬は思ったが、少し違和感を感じてそんな考えは否定した。この作戦の成功を願っているのは他の誰でもない美雨自身なのだ。その本人がいないという理由はいかなるものか。

 壬は美雨の携帯を鳴らした。電源は、入っていない。

 それは当然で壬が指示した事だ。そもそも携帯を持ち歩いている可能性すらない。家において出ているのかもしれない。

「……総一郎に連絡を入れてみるか」

 家にまだいるなら良し。しかしいなかったら? 朝日美雨はどこに行った?

 一抹の不安を胸に抱いて壬は美雨の父である総一郎に連絡を入れたのだった。





 時は少し遡る。

 美雨は壬の言いつけどおりに携帯の電源を切って家においてきた。いつも持っているものを持っていないというのは手持ちぶたさで不安になるが、それも最初のうちで、そのうち慣れた。きっとこの作戦はうまくいく。根拠などまったくないがそう思った。いや、思いたいだけだと理解している。だからこそ思わずにはいられないのだ。

 壬にもらった住所を書いた文字たちに視線をおとす。

「……達筆だなぁ」

 その文字は筆で書かれていた。達筆すぎて逆に見づらい。若干、何を書いているのかわからないような文字もある。

「これは数字の『6』? それとも『0』?」

 上にちょっと突き抜けていると言えば突き抜けているし、そうでないと言われたらそうでない気もする。本来なら連絡をとりたいところだが、生憎と今は携帯電話を持っていない。

「やっぱ不便」

 間違っている住所に行ったら次はあっている住所に行けばいいだけの話だ。美雨はそう思って足を進ませた。

 ほどなくして立派なビルが見えた。

「こ、これ? でっかあ……」

 さすが壬所有のビルだけあってでかいし綺麗だ。最近建てられたものだとすぐわかる。一階はテナント募集の張り紙。端っこの階段にビルのフロアの説明が書かれていた。

「ん~……」

 結局よくわからないらしい。こういう時は考えるよりも実行派だ。

「とりあえず行ってみよう」

 階段を上がって二階へ。すると一つの扉が鎮座していた。

「ここかな」

 このまま上へあがるのもどうかと思うし、ここが管理室のようなものかもしれないと思った美雨はたいして考えもせずに扉をあけた。

「こんにちは~。壬のおじーちゃんに言われて……き、た?」

 いきなり開かれた扉に中の住人は一斉に刃物のような視線を送った。

「なんじゃい」

 ドスのきいた声はもちろん美雨に向けられたものだ。予想もしていなかった展開に美雨は固まってしまった。警察官の娘である本能が囁いている。これはマズイ。

「……あ~、あ、の~……間違えました」

 ぺこりと頭を下げて部屋から出て行こうとする美雨。

「待たんかい」

「ですよねぇ~」

 そう言われる予感はあった。机の上には無造作に置かれた透明な袋に入った白い粉のようなものが見て取れる。部屋に這入って美雨はそれに視線を送ってしまった。そしてそれを見てしまった美雨を部屋の中の者たちは見ている。

「お嬢ちゃん」

「はひ?」

「壬、と言ったか。関係者か」

「いえいえまさか。水野のおじーちゃんと言ったんですよ」

 はっはー、と全力で惚けてみせるがそれはもはや焼け石に水だった。壬と繋がりがあると知られれば、それを悪用する輩も必ずいる。相手が十干機関の一つだからといって逃げるような事はしない。つまり乗っ取りを考えている。自分たちが空いた椅子に座るのだと。

「水野のおじーちゃんでも壬のおじーちゃんでも、これを見られちまったら別にそれはどーでもいいわな~」

 そこはさして重要ではない。

「で、ですよねぇ~」

 いつの間にか這入ってきた扉は閉められていたし、中学生の小娘が一人猛獣の檻に間違って這入ってしまった。潔く諦めた瞬間だった。





 壬は大慌てだった。美雨の所在がつかめないでいたのだ。父親の総一郎に聞いてもわからないとのこと。部屋に行ってみれば、携帯電話は電源を切られて机の上におかれていたという。ただの迷子にしてはおかしい。日はもう暮れている。匿うビルの管理人からも美雨が来たという報告は受けていない。つまり、行方不明だ。

「どこに行きおった……」

 これはさすがに洒落にならないと思った。どこをどう間違えたらこういう事になるのかが理解できない。しかし世の中は理不尽な間違いが起きる。それも唐突に偶然に奇跡的に起こる。今まで息をひそめて待ちかまえていたかのように、最悪のタイミングで最悪な事が起こったりもする。壬はそれをよく理解しているし、対処の方法も知っている。

「しかし、人探しはあまり得意じゃないんだがな」

 物事には得意不得意がある。壬は人探しは決して得意ではない。一般的に見たら優秀な部類に入るのだろうが、本人たちは不得意だと思っている。なぜなら自分たちよりも遥かに人探しが得意な血筋がいるからだ。

「しかたがねぇ。あいつに連絡をとってみるか」

 壬は思い溜息を吐いて携帯を手に取った。その相手とは庚だ。庚にしたら世界中のどの人間がどこにいようともすぐに探し出せるほどの腕を持っている。カラクリはさっぱりわからないが、絶対に見つけ出す。

『お世話になっております壬様。今回は当主にどうのようなご用件でしょうか?』

 さすがに直で繋がる訳はない。電話に出たのはいつもの電話番だった。何度も会話をしているので、早くその当主を出せとは言わない。だから端的に告げる。

「庚のじじいに伝えろ。人を探してほしい」

『人、でございますか。お名前を伺っても?』

「朝日美雨という」

「……」

「どうした?」

 一瞬の沈黙。

『いえ、なんでもございません。電波状況が少し悪かったのでしょう。その方、どうされたのです?』

「事情を聞くとはお前らしくもない」

『大変失礼しました。庚の名にかけて即刻見つけ出しますので、今しばらくお待ちくださいませ』

 そう言われて電話は切れた。正直、庚を頼りたくはなかった。その後にどんな要求をされるかわかったものではないからだ。それこそ過去にあったのは国家機密を教えろだとか十億用意しとだとか、はたまた今の財産の金額を教えろだとかさまざまった。

「めんどうな貸しをつくったものだ」

 貸しは貸しで返すのが一番いいと思うが、今のところそんな貸しは存在しない。他の十干機関からの貸しがあるのでその貸しを庚に売るのもアリだなと思った。他の十干機関の家柄は嫌がるだろうが、文句を言わせるつもりはない。

 とにかく今の優先事項は朝日美雨を早急に見つけ出す事だ。事件か事故か。事故ならば最高の医療を用意できるし問題はない。事件だった場合は秘密裡に処理をさせてもらうしかない。

「なんぎなこったなぁ」

 壬は空を見上げてこの世の中に溜息をついた。





 翌日。

 未だ庚組からは連絡はない。壬はこの事を翔に伝えるかどうか悩んだ。心配させるだけだろうし、知ったところで何も出来ないのは変わりがないので言うのをやめた。今頃は普通に登校しているだろう。おそらくは今日中には何かしらの答えがでるはずだ。あとは連絡を待てばいいだの話だ。ゆっくり待とう。





 そのころ翔は普通に学校へ行っていた。もちろん美雨の姿はない。当たり前だが、あの元気いっぱいの姿が見えないとどこか寂しくも思う。本人は本人で奮闘中なのだからこちらが何を言うまでもない。先生や友人に美雨はどうしたと聞かれても、翔は知らないとシラをきり通した。少し罪悪感を覚えるがそれは最初だけだ。お昼をすぎて午後の授業が始まったときには、もう誰も気にしなくなっていた。これが慣れというものだろうかと翔は冷静に考えた。人が一人いないだけで、それでも何も変わらない。何も変わるはずがない。世界に影響は、しない。

「お、おい外見てみろよ」

 そんな声に翔はハッと意識を戻した。クラスメイトたちが窓から外を眺めている。注意しないといけないはずの先生でさえ。翔は何事かと思って席を立ち、窓から見えるソレを目視した。

 その目に映るはおびただしい程の黒塗りの車だった。学校中を囲んでいるようにも見えるし、そのそばには何人もの男たちが立ってこちらを睨みつけていた。

「なんだあれ……」

 そう自然と意識せずに言葉が出た瞬間だった。教室のドアが勢いよく開かれた。まるで雷が落ちたかのような激しい音に全員がそちらを見る。

「よう、見つけたぜ」

 翔は一瞬で理解し硬直した。他の全員は相手が誰なのかわかっていないが、翔だけはその顔に見覚えがあった。

「なん、で……」

「まさか犯人様が美雨のクラスメイトだったとは。いやはや大胆だな」

 喋りながらゆっくりと近づいてくる。それはまるで恐怖が実態化して近づいてきているように感じた。しかしその表現は間違ってなどいないだろう。むしろ恐怖のほうが何倍もマシかもしれない。

「ちょっ、ちょっとあなたたち何なんですか!」

 教師が言うがその声は震えている。

「こんな事をしてただで済むとでも――」

「済むんだよ」

 涼しい顔なのに凄みのある顔で言い放った。

「すべて揉み消せばいいだけの話だろ。おい、ちょっと黙らせておけ」

 一人の男が教師を束縛する。

「大丈夫だ、あんたらには危害は加えない。俺が用があるのは一人だけだ」

 そう言って向けられる視線の先にはもちろん翔がいる。

「なぁ、そう思うだろ赤羽翔」

「あ、あんた一体……」

「俺か? 俺は――」

 罪を口にする。今まで懸命に抗って来たのに、この言葉はその全てを捨てる言葉だ。

「俺は――、十干機関が一つ、庚組若頭、庚クロ」





 クロは庚の家に産まれた事を心底後悔していた。小さな頃から周りの全てが嫌いだった。友達はいなかったに等しい。何かをするにも自分が優位にされた。間違って友達が勝ったりすると、その友達の親が友達を怒った。何度も頭を下げて謝られた。何をするにも自分が一番にさせられた。子供には理解できないだろうから、自然と友達はいなくなっていったし、クロも友達にそんな嫌な思いをさせるぐらいだったらいらないと思った。

 全てが、嫌だった。

 だから高校を卒業して父に頼み込んだ。縁をきりたいと。父は鼻で笑って承諾した。どうせいつかは戻ってくるというのが口癖になっているらしい。結果その通りになった。

 世間からも逃げるように自分を消さなければならない。家族がいて借金まみれのトラックの運転手を見つけ、身代わりを撥ねてもった。身代わりになったのは借金で首がまわらなくなったどこかの若者だった。多少クロと似せる為に整形までさせて、最終的に殺した。自分を殺す為に誰かを殺す。

 そしてクロは抗う人生を選らんだ。正直名前もその時に捨てさりたかったが、違法な事をしてまで捨てる気にはなれなかった。正当な理由で捨てたい。けじめをつけたいと思った。それまではきっと嫌な目で見られるだろうがそれは覚悟の上。今まで自分がしてきた事を思い出せばそれぐらいの事は我慢しようと思った。

 しかしそれももう限界。今では大切なものが出来てしまったし、それを護る為ならなんだってするという覚悟ができた。

抗っていた人生を受けいれる。

名前を受けいれる決意をした。もう後には戻れない。庚の力に頼ってしまったので後には引けない。これで抗う人生はここでおしまいだ。これからは存分に流れに身を任せて生きていくしかない。そんな事を思えば溜息などいくらでもでるが、美雨が助けられるなら、まぁ代償としては悪くない。





 抗って抗って抗っていたのに結局は元に戻ってしまった。今までの十年が全て台無しにされたが、それほど怒りはない。むしろ怒りは違う方向へと向いている。今目の前で腰を抜かしかけている少年だ。

「……お前が悪いんだからな」

 言ってクロは翔を殴り飛ばした。盛大に机や椅子が転がる。

「この前のお返しだ。あぁ、それともう一つか」

 床に転がる翔をそのまま踏みつけた。そして顔を近づける。

「お前が、お前がくだらねぇ事しなきゃ……俺らは今頃……」

 あんなに楽しかった日常はもう戻ってこないと理解している。だからこそ思い出してしまう。あの頃に戻りたいと思ってもそれは絶対に叶わない。それこそ名前を捨てる事より困難で不可能だ。

「支倉、連れて行け」

「御意に」

 翔を無理矢理立ち上がらせて連れて行こうとする。

「ちょ、っと待ってください。その子が何をしたというのですか。それにこんな事――」

「こいつは罪を犯した。それにさっきも言ったがこんな事をしてもタダで済むのが庚だ。お前たちは十干機関を軽く見すぎだ。口封じにここにいる全員を行方不明に出来る。大人しくしとけよ。あぁ、当たり前だけど他言無用で頼むわ」

 それで理解した。悪名高い庚。すべてがまかり通るこの世にいてはいけない存在たち。それを目の前に、相手にして一般市民が太刀打ちできるはずがない。これは天災に近い。運が悪かったと諦めるしかない。そう全員が思っていると口を開いた者がいた。翔だ。

「う、嘘、なんです」

「ああ?」

 震える声で告げた。

「こ、これは嘘なんです。誘拐なんて嘘なんです。全部作戦なんです!」

「作戦、だ?」

 話が通じたと翔は首を上下に激しく振った。これが最後のチャンスだ。話しを聞いてくれる最後のチャンスだ。これを逃したらもうダメだ。本当の事を言っても信じてもらえないかもしれない。間違いで殺されるのなんて、まっぴらごめんだ。

「み、壬さんと美雨が立てた作戦なんです」

「壬だぁ? なんで壬が絡んでくるんだよ」

 その言葉の真偽を探る。意味がわからない。それが本当だったとしてもわからない事が二つ。壬が絡んでいるという事。どうして十干機関の一つと美雨が知り合いなのか。

「あぁ、そこは理解できなくもないな」

 美雨の父である総一郎は警察の人間だ。そして壬は警察のトップだ。何かしらの接点があっても不思議ではない。

 もう一つはその二人が立てた作戦。一体なんの為に?

「おい、聞いてやる。なんの作戦だ」

「そ、それは……」

 ここで言葉に詰まってしまったらダメだと分かっているが、友人を売るような感じがして少し躊躇ってしまった。作戦が本人にバレた時。どうするのかまったく打ち合わせをしていなかった。どうする? このまま黙秘を続けるか。それは絶対にやめた方がいいだろう。きっと美雨なら、そん時はバラしていいわよ、私が嫌われるだけだから。と軽く言ってくれそうな気もした。きっとそう思いたいだけなのだろうが、やっぱり可愛いのは自分だ。

「その……クロ、さんともっと仲良くなりたい、とかで……」

「はぁ? 意味わかんねぇ」

「と、とにかく美雨は無事なんです。壬さんが所有しているビルにいるはずです」

 クロは支倉に視線を送る。すると言葉は何も交わしていないが、それを読み取って支倉は動いた。周りの人間に指示を出している。

「お前の話が本当だとして、えらい面倒事にまきこまれたな」

「美雨の考える事ですから」

 その言葉に妙に納得してしまった。あの破天荒な性格らしいといえばらしい。見つけたら説教だなと密かに思った。

 ほどなくしては支倉が戻ってきた。

「若頭、どうにもキナ臭い事になっております」

「なんだよ」

「こいつの言っている事は本当のようです。が、美雨さんは行方がわからなくなっているみたいです」

「はぁ?」

「壬の所有するビルに現れなかったとか。それで昨日、壬の当主からウチに人探しの依頼があったらしく、それが朝日美雨だったらしいのです」

「……どういう事だよ」

「わかりませんが、事故や事件に巻き込まれた可能性が高い、かと」

「ふざけんなよッ!」

 机を思い切り蹴り飛ばした。怒れる獅子をなだめるように支倉は続けた。

「昨日、と私は言いました」

「はぁ?」

「一晩明けて庚が人を見つけられない訳ないでしょう」

 人探しは専売特許だ。世界中のどこにいても見つけてみせる。時間は十分にあった。

「行きますよ。どこにいるのかはもう分かっております。きっと、待っている事でしょう」

 クロは何も答えずに走り出した。





罪を口にして認めたはずなのになぜか清々しい。

 吹っ切れた、という感じなのだろう。今まで抗って生きていた。それは枷であって常に悩みの種だったのは間違いはないし、それがなくなってしまったらこんなにも清々しい。

 これから向かう場所はヤクザの事務所だが、そんなものは庚の前には意味を成さない。どれだけの人数がいようが、どんな武器を持っていようがイナゴのように大群で押し寄せて轢き殺すだけだ。

絶対的な力は数だ。

止まらずに相手に考える暇を与える前に全てを終わらせるのが理想だが、予想外の出来事は常に起こるものだし、それも頭の片隅に置いておいて損はない。

「ここか」

 ビルを見上げる。ここに美雨がいる。

「今助けてやるからな」

 ビルの周りを誰も逃げれないように取り囲んだ。半径百メートル以内にいったい何人の庚組の人間がいるのか分かったものではない。それほど、この一ヵ所に集まっている。

 クロは二階にあがってノックもなしにドアを開いた。そこには四名ほどいて美雨の姿は見えなかった。

「んだお前ら。ここをどこだか知ってんのか」

 ドスのきいた声で言うが、それに動じる者はここには存在しない。

「ここに中学生ぐらいの女の子がいるはずだ。素直に出すなら……いや、素直に出さなくてもどっちでもいい」

 明らかに不利。人数的に自分たちの倍以上の数が押し寄せている。だからといっておめおめと引き下がるなど極道の道に反するだろう。

「おい、連れて来い」

 一人の男が隣の部屋へと這入って行った。もっと抵抗されるかと思っていたが、すんなりといきそうだ。

「よう、元気か? 助けにきた」

 男に連れられてきたのは間違いなく朝日美雨だ。

「クロ……」

 パッと見、ケガなどはしてないように見える。

「素直に返すとでも?」

「別にどっちでもいいって言ってんだろ。人質を利用してこの場から逃げられると思うなよ。このビルは完全に囲まれている」

「じゃあ、最後の悪あがきにその娘の顔に傷をつけるってーのはどうだい?」

 美雨を羽交い絞めにしている男の手にはいつの間にかナイフが握られていた。そのナイフは美雨の頬をぺちぺちと叩いている。美雨の顔は真っ青だ。普通ならここで安心させる言葉でもかけるものだが、クロはそうはしなかった。

「お前は舐めすぎだ。お前らみたいな小規模のヤクザが俺らに敵う訳ないだろ」

「……だからお前らはなんなんだ。どこの組のモンだ」

「ん? あぁ、まだ言ってなかったか」

 くだらねぇ。何を迷う必要がある。どうせもう後には引き返せないし、あとでゆっくり伝えるとなると心の準備をしなくちゃいけない。だったら今ここでさらっと言った方が楽だ。

「庚だ。十干機関が一つ庚組若頭、庚クロ。お前らはもう終わりだ」

「……」

 その言葉を簡単に信じる訳にはいかなかった。嘘、ハッタリの可能性があるし、それにそもそも――。

「馬鹿言ってんじゃねぇ。庚組にてめぇみたいな跡取りはいなかったはずだ。死んだはずだ」

「だから死んでなかったんだよ。ありゃ俺が外で生きる為の身代わりだ」

 自分たちを前にしても、こんなにも堂々としている。同じ極道を生きる者として同じ匂いを感じてしまった。これは嘘ではない。本物だと。

 つまり、本当にゲームオーバーだ。十干機関にこちらから準備をして仕掛けるならまだなんとかなったかもしれないが、相手から来られると成す術がない。絶対的な力と数の前には通り過ぎられたら骨も残らないだろう。かくなるうえは――。

「おい、娘を殺れ!」

 言葉だけが静かに響いた。しかしクロは表情一つ動かさなかった。冷静にそれを見つめる。美雨を捕えている男が何も動かなかったのだ。まるで人形になったかのように前だけを見ている。

「おい! どうした、さっさと殺せ!」

 それでも動かない。動いたのはクロの口だった。

「お前は十干機関をなめすぎだ。どうして庚が人探しが得意だと思う?」

「あぁ?」

 ここにきてこんな質問をするなど意味がわからない。それでもクロは続ける。

「答えは簡単だ。スパイがいっぱいいるからだ」

「はぁ? スパイだぁ?」

「それはどこにでもいる。その辺のコンビニの店員から一流企業までだ。庚に属する人間は大勢いて息をひそめて水面下で呼吸をしている。何が言いたいか、わかるか?」

 そう言われて男は美雨を捕えている男を見た。するといつのまにかその男は美雨の前に出てナイフをこちらに向けていた。

 裏切り。

 違う。最初から仲間ではなかった。庚組の人間だったのだ。

「さぁ願いましては……どうする?」

 この状況下で逆転の一発を見つけて実行できるだろうか。もっと時間があって準備が出来ていたなら出来たかもしれないが、今現在のこの状況で頭が正常に働くとは思えない。気が付けば膝が地面についていた。意思とは無関係に体は降伏をしていたのだった。

 今まで美雨を捕えていた男はクロの前にゆっくりと膝をついた。

「申し訳ありません。お嬢様にナイフを向けました。どんな罰でも受けます」

 そんな相手に返す言葉は決まっている。

「よく守ってくれた。ありがとう」

 言って手を差し伸べる。男は笑みを浮かべてその手を握り返した。

 問題は次だ。どうにも言い訳が見つからない。言い訳をするつもりはないが、どこから話せばいいのかが見つからないでいた。美雨はじっとこちらを見ている。それこそ真っ白な無垢な眼差しで。そんなものを向けられたら眩しくて目を逸らしてしまいそうになるが、ここで目を逸らせばそれは拒否を意味する。そんな事はしたくない。

 さて、どうしたものかと黙考していると先に美雨が口を開いた。

「本当なの?」

 何が? とは聞き返さなかった。

「本当だ。嘘をついていてすまない。どうにも他に方法が見つからなくてな。最悪の方法を選んでしまった」

「これからどうするの?」

「あぁ、まぁ縁をきったのに頼ってしまったからな。それの代償を払わないといけないだろな。指をつめるとかそういうんじゃない。単純に家に戻るだけだ」

 逃げ続けていた家を継ぐ。それが代償だろう。

「ふ~ん」

「そういえばこちらからも一つ聞きたい事があったんだ」

「うん? なに?」

「アホみたいな作戦を立てたもんだな。なんの為にこんな事したんだよ」

 翔にも一応聞いたがやはり本人の口から聞くのが一番いいだろう。その問いに美雨は恥ずかしがる訳でもなく真顔でこう答える。

「いちゃつきたかったから」

「……」

 返答に困る。本当に何を考えているのか分かったものではない。さもそれが当然のような振る舞いだ。

「中学生に手を出すほど落ちぶれてねーよ」

「そっか、残念」

 くだらない作戦だ。なぜこんな事をしていちゃつけると思ったのだろうか。所詮は中学生の浅知恵か。

「……十八歳になったら考えてやらんでもない」

「そんなに待てないんだけど」

「それぐらい待ちなさい」

「無理でしょ。半分の二年ぐらいだったら気合いでなんとかなるかもしれないけど、四年は無理。それに青春時代に何もなく終わるのとか人生的に最悪。ん? 二年?」

 ここで美雨は画期的な方法を思いついた。美雨からしたら画期的な考えかもしれないが、クロからしたら最悪の方法かもしれない。

「ねぇ、良い提案があるんだけど」

 顔をぐいっと近づけて満面の笑みで言う。クロは嫌な予感しかしない。

「い、良い提案?」

 美雨の提案はたしかに全てを解決できる提案だったが、それがまたクロの良心がそれを阻んだのだった。


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