第四幕
どんな時もそれを忘れてならない。忘れた瞬間に足元をすくわれるのはよくある事だ。しかし気を抜くなと言われてもそれは土台無理な話であって、なら一生気にかけて生きていけというのだろうかと問われれば、おそらくはそうなのだろう。その名前を持つ限り罪は消える事はない。そして仮に名前を捨てたところで過去が未来をも飛び越える勢いで迫ってくるに違いはない。抗う事など最初から出来ないのだ。その先には何もないのに期待してしまっている。何を馬鹿げた事を考えているんだと罵られても何も文句は言えないだろう。それだけの事をしてきたし、されてきた。罪は償ったところで消えるのでない。そもそもが罪を犯したら償うという発想が少しずれている。罪を犯したら罪を犯し返されても文句は言えない。だたそれだけのこと。連鎖によって連鎖が生まれてカルマの輪が出来上がる。廻り廻って巡り合う。抜け出す事は――出来ない。
羨ましい、と思っている自分が嫌い。今まで自分よりも不幸のどん底だったのにその立場が逆転しているとわかった時、発狂しそうになった。そしてそんな自分に気が付いて愕然とした。今まで幸せを願っていたのにあれはなんだったのだろうか。それは自分が上から相手を見下していたのだ。それが事実。しかしそれを認めたくないし、そんな事を考えている自分も嫌い。嫌い、嫌い、嫌いだ。自分がこんなにも最低の人間だとは思わなかった。自分は他の周りの人とは違う。差別なんかしない。どれも笑わせてくれる。いい気になっていたのはまぎれもなく自分だった。そんな事実に気が付きたくなかったが、もう既に――遅い。どうすればいいのだろうか。これ以上嫌いになりたくない。これ以上嫉妬を向けたくない。幸せを願っていたかったのにどうしてこんな――。
きっと今鏡をみたらそれはさぞかし驚くだろう。どんな顔をしているのか気にはなるけど見る訳にはいかない。おそろしく醜悪だろう。いつの間にか限界をとうに超えてしまったのだと気が付いた。どうすればいい? これはどうすれば治る? 治るものなのか? わからないわからないわからない――わからない。
少しずつ、しかし着実に、一条紫織の心は音を立てずに崩れていく。
秋が終わりに近づき、そろそろ冬の気配がしてくるある日の夜。
クロと紫織は一緒に夕食をとっていた。
「お前、大丈夫か?」
そう言ったのはクロで言われたのは紫織。
「なにが?」
別に気が付いていないわけではない。他の誰から見てもわかるはずだ。だったらクロも当然気が付く。
「クマとか、ひどいぞ」
離婚してから体重はどんどん減っていった。これがダイエット中ならば嬉しかったが今はそんな事はどうでもいい。眼の下にはハッキリとしたクマまでできているし、誰がどう見ても不健康だった。もう着飾ることすら興味がわかない。
「別に大丈夫。クロちゃんが心配する事じゃない」
喋り方も前とは違って聞こえた。覇気がなくボソボソと喋っている。
クロはその言葉を信用していない。しかしこれ以上かける言葉が見つからなかったので何も言わなかった。一緒にいるときは普通に食べているし何も問題ないように見える。しかし一人の時はろくに食べていないのだろう。だからクロはよく夕食に誘った。極力美雨との話もしないでおいた。今の紫織には聞かせられない。
「で? 最近どうなのよ美雨ちゃんとは」
クロの心中などおかまないなしに聞いてきた。変に気をつかっていると悟られない為にも、聞かれたら答えようとは思っていたので心の準備は出来ている。
「ん? まぁ順調だと思う。あまりでかい声では言えんが」
「そらね」
そこで一旦会話が途切れた。最近会話が続かない。いったいどうしたら紫織は元気を取り戻すのだろうかと考えるが何も解決策は見当たらなかった。おそらく一番堪えているのは子供に会えない事だろう。母親としてはそれが何よりも辛いはずだ。だからといってクロがどうにかできる問題でもない。最終的には紫織が選択して答えを選ぶしかない。自分はそばにいて話を聞いて少し口を出すぐらいしかできないだろうが、紫織はそんなに弱くない事を知っている。他人に助けを求めたりした事を今まで一度も見た事がない。だから心の奥底で紫織なら大丈夫、勝手に何とかするはずだと思っていまっている。
「ごちそうさま」
「おう、お粗末さまでした」
いったいこの生活がいつまで続くのだろうか。いつか元に戻る日が来るのだろうかと頭を悩ませる。
「私、もうここには来ないから安心して」
「え?」
「ほら、若いカップルの邪魔したくないし」
「いや、俺は若くねぇし、そもそもカップルでは――」
「もう決めたの。クロちゃんは十分苦労してきたでしょ? 今が幸せの絶頂なのかもしれない。いや、まだ発展中かな。だからお邪魔虫にならないようにしないと、さ」
本当はこの場所が眩しすぎただけだ。クロと一緒にいるのは眩しい。眼が暗んでしまうほどに眩しい。そんな光を見せつけられたら自分は光の中に消えてしまいそうだった。だからその場所にはいられない。逃げよう――。
「じゃあ、俺がお前の家に行ってメシ作ってやろうか?」
そう言われて紫織は首を横に振る。
「そういう問題じゃない。少なからず美雨ちゃんは私とクロちゃんが会うのに良い気分はしないと思う」
「そんなこと――」
「――そんな事ある」
言葉をかぶせて紫織は言い切った。
「思春期の女の子なんだよ。理解してあげな」
そう言われたらクロは何も言い返せなかった。美雨と紫織とどちらをとるんだ、と問われているようなものだ。そんな選択、選べるはずがない。つまりどうすればいいかというと考えない事だ。そうすればどちらをとるかなどのくだらない選択はなくなる。
「うん、それでいい。やっとクロちゃんに良い人が見つかったんだから大事にすべき。これから先探してもたぶん見つからないよ」
そんな事は分かっている。反論がしたい。でも出来ないでいる。
「お前に、口では勝てないな」
そう言われて紫織は鼻をふんと鳴らした。紫織はゆっくりと立ち上がって部屋を出て行った。後ろ姿が寂しそうで声をかけてほしそうで追いかけてほしそうだったのは、きっとクロの見間違いではない。
本当にこれでいいのか?
いいんだと自分に言い聞かせるしかない。ここで追えばきっと紫織は本気で怒るかもしれない。ケンカになるのかもしれない。そんな事を考えているうちに時間はどんどんと過ぎて行った。もう何も出来ない状態の時間が過ぎた。なら次は?
普通通りの日常を送るしかない。洗い物をして風呂に入って寝て仕事に行く。だたそれだけだった。
あれから四日が経ったが紫織からは連絡はない。
「どうしたもんか」
行くか行くまいか考えていると携帯が鳴った。紫織かと思ったが美雨だった。
「もしもし?」
『ひま?』
「今ちょうど連絡をしようと思っていた。聞きたい事がある」
答えになっていない。本来なら美雨は怒る場面なのだろうが、何も言わずに『なに?』と聞き返した。そしてクロは紫織の事をもろもろ話した。そして今から家に訪ねてみようと思うと告げた。嫌な気分にさせるだろうかと思ったが、美雨はクロや紫織が思っている以上に大人だった。
『さっさと行った方がいいと思うけど? 別に私が少し我慢すればいいんでしょ? その埋め合わせが手に入るんならどうぞ行ってらっしゃいな』
かなわないなと素直に思った。自分の半分ぐらいしか生きていない中学生に相談をして諭されてしまった。まぁこんな相手だからこそ自分は惹かれたのかもしれない。
「すまない」
そう言って電話を切った。
さてどうしたものか。どうせロクに食事もとっていない事を見越して何かを買って行った方が良さげだとクロは判断した。行きがけにスーパーに寄って材料を買う。手早くできてうまいもの。
「カレーしか思いつかん」
そういう訳でカレーの材料を買ってスーパーを出た。材料もいうほど高くないし、余ればまた食べられる。季節も冬に近いので腐るということはないはずだ。
程なくして紫織が住むアパートに着いた。
「……ぼろいなぁ」
いつ見てもそう思う。テレビや漫画でしか見た事がないような廃れっぷりだった。よくもまぁ紫織はこんなところを選んだものだと感心する。たしかに家賃としては破格の安さだろうが、それでもとクロは思う。何か理由があるはずだ。
紫織の部屋は二階に一番手前二〇一号室だ。インターホンを押す。
「……」
反応はない。試にもう一度押してみた。それでも反応はない。ドアに耳を当ててもう一度押した。すると中で微かにインターホンの音が聞こえてきた。切れているという訳ではない。なら単純にいないのかと思うが、なぜかそうは思えなかった。次は紫織の携帯を鳴らしてみた。するとやはり部屋の中から聞こえてきた。
「風呂でも入ってんのか?」
そう思ったがそれはないと思い出した。このアパートは風呂なしだ。とりあえずクロは玄関の前で五分ほど待った。トイレに行っている可能性がある。だったら何度もインターホンを押すのは失礼だろう。もう一度携帯を鳴らしてみた。やはり中から音が微かに聞こえる。
クロは無意識でドアノブに手をかけて回していた。
鍵は――かかっていなかった。
「不用心なやつだな」
これはカレーを食べながら説教をするしかないと思った。年頃、とまではいかないが、それでも紫織は女だ。防犯面には気をつかってほしかった。
ゆっくりとドアが開かれる。
「紫織ー? 入るぞー?」
ドアを開けた瞬間に異臭が鼻を突き抜けた。何の匂いだこれは、と頭で考える前にその匂いの正体を突き止めた。部屋は玄関を入ればすぐに部屋が見て取れる。そこにゴミの山。そして紫織が立っていた。
床に足をつけていない状態で立っていた。
「…………」
意味がわからなかった。思考は完全に停止していて気が付けば荷物は手から離れて膝が地面についていた。見たくない。にもかかわらずに目が離せなかった。
「なん、で……?」
自然と口は開かれた。肺に出入りする空気がどんどん早くなっていく。
「……嘘、だ。嘘だ嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だァァァァァァァアアアアッッッッ!」
人生においてこれほどまでに大声を出したことはないといえるぐらい大声で叫んだ。自分の声が自分の耳に入り、その声の大きさからうるさいと感じだ。それがまたイラつく。地面に拳を叩きつけて頭も叩きつけた。こんなものは嘘だ間違っていると自分の見たものを頭の中から消去したかった。何度も何度も叫んでは地面に強打した。そんな事をしていると当然人目につく。誰かがやってきてクロの後ろに立ち、悲鳴をあげてどこかに消えた――。
警察と救急車が来るまでの間、クロは泣き叫んだ。
その後、クロが最初にした事は宗像に電話をかけることだった。内容はしばらく休ませてほしいというもの。そういうのは直属の上司にでも言うのが普通だったが、クロはあえて宗像に電話をした。当然なぜだと聞き返される。それにクロは友人が死んだからと一言で答えた。それを聞いた宗像はわかったとだけ言って電話を切った。これで仕事の事は心配しなくて済む。こんな時まで何仕事の心配などをしているんだと自分に腹が立った。そんなものはどうでもいい。今は目の前の状況をなんとかしないといけない。しかしそんな事を言っても何が出来る訳ではない。むしろ全てにおいて終わっている。これ以上にないくらい終結している。出来る事はなにもない。もう――終わったのだ。
病院にいると紫織の両親が来た。特に言葉は交わさなかった。むこうはそれどころではなく、クロの姿など目に入っていないだろう。元夫は現れなかった。
「なんで……」
自らの命を捨てたのかが理解出来なかった。原因はなんだ? そればかりを考える。しかし答えは見つかりそうもなかった。
それから数日が経った時、手紙が届いた。差出人をみたらそこには一条紫織と書かれてあって、クロは急いで封をきった。
『拝啓。お元気ですか? きっと元気じゃないでしょうね。そしてごめんなさい。きっとこの手紙をクロちゃんが読んでいるとき私はきっとこの世にいないでしょう(一度は言ってみたかったこの台詞)。まぁ冗談はさておき。
本当にごめんなさい。それしか言葉は見つかりません。きっとクロちゃんは原因を探しているんだろうけど、そんなものは見つからないよ。私が全部持って行くから。きっといっぺんに押し寄せてきたのがいけなかったんだと思う。クロちゃんには申し訳ないけど、今の私には心の支えがいない。なんで生きているのかが分からないし、それになりよりこれ以上嫌いになりたくない。何を言っているのか理解出来てないと思うけど、理解はしなくていい。むしろされると困る。だからそれ以上考えないで。もう終わった事。たまに思い出してくれればそれでいいから。これから私はクロちゃんの相談にはのれない。そしてその相手はもういるから大丈夫。私以上にその人の事を信用して好きになってあげて。それが私への餞になるから。きつい事を言うけど、クロちゃんが出来ることは何もない。もう終わった事。今の悲しさも時間が経てば和らぐし大丈夫。今まで通りの生活が出来るようになる。
クロちゃんは凄いね。今まで人生を投げ出さなかった。私はたったこれっぽちのくだらない理由で投げ出しちゃった。きっと死ぬ瞬間後悔するんだろうと思う。首がしまるにつれて生への執着心が出てくると思う。それでももう限界。私には何もない。離婚した瞬間にすべてが変わったんだと思う。クロちゃんも結婚したら離婚は絶対にしないように。
それじゃ長々ごめんね。クロちゃんの事、嫌いだからとうぶんこっちには来ないでください(これも言ってみたかった台詞)幸せを祈っている。
紫織』
「…………」
読み終えた時、不思議と涙は出なかった。むしろ怒りが込み上げてきた。なんだこれは。ふざけるな。大切な手紙を思わず握りしめた。
「ふ、ざけんなよ……」
なのにこの怒りの矛先を向ける相手はもういない。
「どうすりゃ、いいんだよ……」
何が正しい選択なのか、もうわからない。きっとこれからする事は正解でも不正解でもない。これからする事は――単なる八つ当たりだ。
クロは車に乗ってアクセルを踏み込んだ。紫織の手紙の最後には追伸があった。それは言葉ではない。住所だった。きっと紫織はクロがどういう行動を起こすのかわかっていたのだ。そしてそれを止めるすべはもうない事も知っていたし、もしかしたら自分の代わりに一発殴ってほしかったのかもしれない。
そこに書かれていたのは紫織も元夫の住所だった。
離婚をしなければこんな事にはならなかった。なら原因は元夫しか考えられない。離婚原因は紫織の浮気。だが、それは絶対に違うとクロは言い切れる。きっと元夫がうまいことやったのだろう。
「問いただしてやる」
携帯が鳴っていたが無視をした。その電話は知らないでいい事を知らせまいとする、後戻りができる最後の電話だったのかもしれない。この時、電話に出ていればクロはきっと真実を知らずに済んだし、あそこまで酷くなる事はなかったのかもしれない。
世の中には知らないで良い事が山ほどある。この場に紫織がいたらきっと行くのを止めていただろう。しかしその紫織はもういないし、住所を書いたのは間違いなく紫織だ。それをなんの為に書いたのか、クロは勘違いをしている。仇をとってくれだとか、そういった事ではない。単純に、もめればいいと思って書いた。自分が死んだあとの事などどうでもいいし、まして――。
クロがその住所に到着すると子供と手を繋いで歩いている元夫がいた。それを見てクロはさらに激怒した。その隣に一人の女がいたのだ。込み上げてくるのは吐き気か怒りか、おそらくはどっちもだろう。頭の回線はもうパンク寸前だし、何が良くて悪いのかも判断できそうにない。クロは迷う事なく元夫のもとへ走って行って胸ぐらを掴んだ。
「なぜ葬儀に来なかった」
その一言で元夫は理解をしたらしい。
「先に戻ってな」
女と子供を先に家に帰して、それを見送るとその視線は真っ直ぐとクロを見た。あまりにも真っ直ぐで、逆にクロが視線を背けるぐらいだ。
「行く必要はないと判断した。もはや他人だ」
「この――」
拳を握りしめて後ろに引いた。
「庚は野蛮だな」
その一言が心に突き刺さった。ピタリとクロの動きが止まる。
「その様子だと、離婚した原因も聞かされてないんだろ」
「原因……」
「あいつがどこの誰と浮気をしたのか」
元夫は指をさした。それはクロの顔をさしていた。
「……はっ?」
「君だよ君。紫織の浮気相手は。わざわざ夜中に電話はする。二人で出かけて秘密裡に会う。それが浮気と言わなくてなんだというんだ? 男と女が外で密会してやる事など決まっているだろ。証拠の写真だってあるんだぞ」
この男は何を言っているのか理解できなかった。クロが掴んでいる胸ぐらは完全に力が緩められた。そこに耳元で悪魔が囁いた。
「実際、浮気をしてようがしていまいが関係ない。離婚するのに証拠がほしかっただけだ。まさか離婚の原因が自分にあるとは思わなかっただろ? そらあいつも言えないわな。君はもうちょっと既婚者について考えた方がいい。何が出来て何が出来なくて御法度なのか。それともなにか? 本当にやったのか?」
もう言葉は耳に入らなかった。思い出すのは紫織の対応。思い返せば含みのある言い方をしていた。悟られないように注意をしていたんだろう。クロ的にはそんな気はまったくなかったが、夫婦間で見ればそれは違う。些細な事がケンカの原因になるのは間違いがない。
自分は相手の事など考えずに頼りすぎた。
そう理解したときには目の前から誰も居なくなっていた。いつの間にか地べたに座り込んで、胸ぐらをつかんでいた右手を見た。今その手は何も掴んでいない。あれは夢だったのだろうかと思う。殴る相手は元夫ではなかった。
殴る相手は自分だった。
「……帰ろう」
自分はどこまでも大馬鹿野郎だった。何も気が付かずに相手に頼りっぱなしで、相手が助けを求めている時ですら何も気が付かない糞野郎だった。くだらないくだらないくだらねぇ。
どうにもこうにも立ち直れそうになかった。
どれだけの時間が過ぎたのかわからない。かなり長い年月が過ぎた気もするし、たいして経っていない気もする。今が何月何日なのかまったくわからなかった。自分は今までどんな生活をしていたのかも分からない。
携帯が何度も鳴っていたが出る気にはなれなかった。会社からかもしくは――。それもその内鳴らなくなった。おそらく充電がきれたのだろう。それはそれで好都合だった。今はダメだ。誰とも話したくはないし顔を合わせたくない。きっと酷い顔をしているに違いなかった。紫織にはとうぶん来るなと手紙で言われたが、会って文句を言われるのもそれはそれでいいのかもしれないと思う。今までは自分の所為だったから我慢すればなんとかなったが、今回は自分の所為で大事な親友が死んでしまった。心は――折れた。
そうと決まればさっさと終わらせた方がいいなとクロが思った時だった。家のインターホンが鳴った。出る意味はない。きっと勧誘か何かだろう。そのままにしておけばきっとすぐ帰る。
しかしインターホンはドアを叩く音に変化した。ドアが壊れるのではないかと思うぐらいに叩いている。いや、それはもう殴っていると表現した方がいい。
うるさい。
こんな気が散ってイライラしながら死ねるか。
クロは玄関をあけた。
「よっ、生きてる?」
そこにいたのは朝日美雨だった。
驚きはしなかった。なんとなく予感めいたものはあったからだ。この少女はきっと何でもするに違いない。
「……生きてねーよ」
「ま、とりあえず入れてよ」
許可もなしにズカズカと這入りこんで来る。それは物理的にも精神的にもだ。
「……どうやってこの場所がわかった?」
「うん? うん、おじーちゃんに教えてもらった」
あの家に祖父はいなかったはずだ。少し離れたところに住んでいるのかもしれない。しかしなぜその人物が自分の家の住所を知っている? 答えになってないが、それはもはやどうでもいい。
「まぁギリギリ間に合ったってとこかな」
「……」
見透かされている。
「出かけるから、したくして。とりあえずお風呂入っちゃってよ」
そう言うとクロの返事も待たずに美雨は風呂場へと行ってお湯をためだした。自分の家の風呂と比べたらさぞかし笑えるだろう。出来る事なら家なんかに来てほしくはなかった。生活している空間を見られるのが嫌だという思いが少しはあったが、今はどうでもいい。
湯がたまるまでの間、美雨はクロの部屋をジロジロと見てまわった。特に何か特別なものがあるという訳ではないが、単に男の一人暮らしの部屋が珍しいだけなのだろう。
美雨は飾れたら写真に目がとまった。
「これって?」
指さしながらクロに問う。
「……兄弟だ」
「へぇ、そっくりだね。てゆーか兄弟いたんだ」
まじまじと写真を見つめる美雨。それ以上は何も聞かなかった。そうこうしている内に湯がたまった。
「ほら、たまったよ。入ってきて」
「……」
クロは動こうとしなかった。何を勝手に決めているんだ。誰も一緒に出掛けるなんてこれっぽちも言ってないし、風呂に入るとも言っていない。こちらの都合もおかまいなしで自分の用件をつきつけるなどふざけるなと言いたい。でも言い返すだけ無駄なので言わなかった。動こうとしないクロに対して美雨はクロの前に膝を折って視線を合わせた。
「脱ぐの手伝ってほしいの?」
笑顔でそんな事を言ってくるがクロは相手にしなかった。
「よしよし、じゃ、脱がしてあげようではないか」
クロはされるがままだった。別に乙女でもあるまいし、見られても困ることはない。着ている上着を全部脱がされて少し寒気がした。季節はもう冬だといってもいいぐらいの季節だ。
「どーん」
上半身裸でボケーッと座っていると美雨がクロの肩を押して倒した。そしてそのまま馬乗りになった。そしてベルトに手をかける。
「このままおそっちゃってもいいんだけど、どうする?」
クロは何も答えない。
「まぁ、私といたしましては? 初めてはやっぱり相手から色々してほしかったり? だからこの状況はヨダレが出るほど嬉しい状況ではあるけど? なんか人形のようなクロを押し倒してもどうかと思うし? 反応がないのはつまんない」
美雨はそっと顔をクロの胸に押し当てた。
「クロは人形じゃないよ。だってほら、心臓は確かに動いている。死んでない。まだ生きてる」
美雨の手や顔の暖かさが直に伝わってくる。温かい。こんなにも自分は冷え切っているのに美雨は温かい。それこそ朝日のような温かさだ。
「このまま抱き合っててもいいんだけどさ、さすがにクロが風邪ひいちゃうと困るし、そろそろお風呂入ろっか」
そう言って美雨はクロに馬乗りしたままの状態で自分の上着を脱いだ。
「……おい、なぜお前が脱ぐ?」
「え? だって服着たままお風呂入れないじゃん」
「そういう問題か」
「なに? 一緒に入るのが恥ずかしいの?」
「羞恥心というものを知らんのか。そもそもあの風呂に二人は無理だ」
「別に誰かれ構わずに一緒に入るわけじゃないんだし。クロだけだよ。まぁギュウギュウにつめればいけると思うんだよね。それに今のクロを一人にはしておけないし?」
「ガキじゃねーんだ」
「男はいつまでたってもガキでしょ」
反論はするだけ無駄だし、何より反論をするのが難しい。どこの誰に悪知恵を教えてもらったのやら。
「ほら、いくよ」
美雨は立ち上がりクロの手をひく。抵抗しようと思えば簡単に出来る。その手を振り払うのは簡単だ。しかし今のクロにはそれが出来なかった。一度繋がったものを振り払ったら二度と手に入らないような気がしたのだ。美雨ならばきっとめげないで何度も来るだろうが、今回は素直に手をひかれた。
風呂に入っている間もされるがままだった。子供のように髪をガシガシと洗われて湯からすぐに出ようと思っても百数えてから上がれと言われた。久しぶりにそんな事を言われて、昔を思い出して少しおもしろかった。クロが呆れて笑うと美雨は喜んだ。どんな笑いでも笑いは笑いだ。それだけで十分。
風呂から上がって髪をドライヤーで乾かしてもらった。自分の髪が乾いたら美雨の髪も乾かしてやった。それがどうやら嬉しかったようで終始ご満悦だ。
「で? どこに行く気なんだよ」
まだ行き場所は決まっていない。
「予定は未定よ」
「はぁ?」
つまり行き場所は決まっていないという事。
「目的は特にない。気晴らしに歩いたりなんとなく店に這入ったり。とにかくクロを今の状態から抜け出させること。それが今の私の目的」
そんな目的を本人に告げるなど愚の骨頂だ。そういうのは本人に気づかれないようにして行うのが普通だろう。しかし美雨はそれをあえて口にする。宣言する。今から貴方を楽しませて闇の底から引き揚げてあげる。
それは自分にしかできないし、誰にも譲る事はしない。
「宣戦布告。さぁ勝負」
そんな事を笑顔で告げる。その表情は本当に楽しそうだ。
「……いや、勝負と言われても」
非常に困る。
「ほら、行くよっ」
そんなクロの考えなどお構いなしに美雨はクロの手をとって引いた。その繋がれた手を見てクロは思う。導かれてばかりだな。この少しの時間の中で一体どれほど手をひかれたか分からない。分かっている事はそれが嫌ではないという事だ。こんな子供に先導されている自分がおかしいとは思わなかった。素直に美雨が凄いのだろうと思う。たかが十数年生きてまだ社会の事を何も知らないのに、はるかに自分よりも大人に感じた。
「……あぁ、そうか」
こういうとこに惹かれたんだな、と理解した。実年齢ではなく考え方や行動が自分よりも上回っている。そこに妬ましいとか悔しいとかじゃなくて素直にそこに惹かれた。
「うん? なんか言った?」
「うん? いいや、なにも」
総一郎の言葉が蘇る。しばらく身を流れに任せてみよう。自分ではどうにもこうにも出来ないから、ここは素直に美雨に任せて癒してもらおう。それが大人としてどうだとか、みっともないとか言われてもいい。もう少し時間はかかるかもしれないが、美雨に心をあずけてみようと思った瞬間だった。
空気は冷たく無慈悲に体の中に入ってきて、それを温かくして吐き出す。それもすぐに冷たくなる。冬の日差しは温かい。空を見上げれば雲一つない快晴だった。
「いつか、晴れる日がくるのか……」
そう思わずにはいられなかった。
冬にはイベント事が多い。今まではそんなイベントは無縁だったが、今回の冬はそうもいかずにとても忙しくなりそうだった。クリスマスに大晦日に正月。金を使わずにはいられない日々たちだ。当然美雨にプレゼントをあげなければならない。色々と世話をしてもらった恩もあるし、何よりお返しをしたかった。だからクロは言った。
「なんでもほしい物を言ってくれ」
「なんでも?」
言った手前、もう後戻りは出来ないし、するつもりもないが、やはり多少はドキドキする。無駄に頭の回転がいいのでどんな無理難題を言われるかわかったものではない。案の定――。
「子供がほし――」
パーン、と頭をスリッパで叩いた。
「いったいなぁ! 殴る事ないじゃん! そもそもどこからスリッパが出て来たのよ」
「うっせー馬鹿! なんつー事を真顔で言ってんだてめぇは!」
「なんでもいいって言ったじゃん」
「金で買えるものにしてくれ……」
「じゃぁ、ベタだけど、リボンをクロにまいて、『オ・レ』とかでもいいんだけど」
「……」
どっと疲れたのを覚えている。
大晦日は朝日家に泊まり、そしてそこで正月を迎えた。朝日夫婦は温かく家族のようにふるまってくれる。これが家族かと痛感させられたのを覚えている。
紫織の死は今でも心に深い傷をつけている。毎日頭をよぎるし思い出すだけで泣けてくる。きっと一生忘れられないし忘れるつもりもないが、忘れたらとても怖いと思った。思い出せば泣けてくるけど、悲しいけど、絶対に忘れたくはない。忘れてしまえば存在そのものが消えてなくなりそうなのだ。あいつは確かに存在した。存在したんだ。いつか顔も声も忘れるかもしれない。それでも存在自体は絶対に忘れないだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます