第三幕


 家族旅行。

 一体いつぶりになるのかわからない。きっと長い事していないのは事実だ。だから最高のホテルを予約した。妻が、娘が喜んでくれる顔を向けてくれると、忙しい仕事を無理矢理にでも休んで良かったと思える瞬間だった。

 ファミリーカーで一時間をかけてやって来たホテルの名前は水月。日本屈指のホテルだ。同じ県内でありながら一度も行った事がなかったので良い機会だった。

「でっか」

 娘の美雨がホテルを見上げて思わずといった感じで声を漏らした。

「でっかいな」

「でっかいね」

 それに同意する父親の総一郎と母親の砂羽。感想はどうやらみんな一緒のようだった。テレビなどでよく見て大きいと感じていたが、実際に見るともっと大きく感じた。これは良い休暇になりそうだとほほ笑まずにはいられない。

 車はホテルのスタッフが移動してくれる。キーを預けてホテルの中に這入った。ロビーで受け付けを済ませて予約した部屋へと向かう。荷物は全てスタッフが運んでくれる。二十代前半だろう若いスタッフだった。

「いらっしゃいませ。お荷物をお預かり致します」

「ああ、頼むよ」

 さすがに一人では持てないのでカートに載せてそれを押して運ぶ。エレベーターの中もとても広い。ざっと二十人以上は乗れそうだった。エレベーターはどんどんと上へと上がって行く。みな無言で数字が上がっていくのを無意識で見つめるなかで、美雨だけがそのスタッフの顔をジロジロと観察していた。

 二十五階建ての二十三階が予約していた部屋だ。部屋につくなり窓際へと美雨は走って行った。

「ねぇ、見て見て」

 そう言われて美雨の後を追うと、たしかに走って行く価値があるほどの絶景がそこには広がっていた。

「これはこれは」

「絶景ね」

 この水月がある市は斜面になっている。山のふもとにつくられた町が発展したのだろう。そして水月はその高い位置にある。標高としては三百メートルはあるだろう。そこから街を見下ろして、さらにその先は海が広がっている。夜になれば街灯りの夜景も楽しむ事が出来そうだ。

 三人が絶景を眺めているあいだにスタッフの青年はせっせと荷物をおろしている。

「お、すまないね」

「いえいえ」

「しかし、これは本当に絶景だな」

「まぁ、皆様そう仰られますね。何か御用の場合はなんなりとお申し付けください。担当させていただく――KANOEと申します。それではごゆっくりと。失礼致します」

 そう言ってスタッフは静かにさっていった。

「かのえ……?」

 総一郎はその言葉に引っかかった。それがただの単語なのか名前なのか一瞬わからなったが一抹の不安を覚えた。

「いや、でもしかし……ありえないな」

 こんなところにあの庚がいるはずがない。あの悪名高い庚がいるはずがないのだ。そんな者を雇えば接客業として成り立たないだろう。それにそもそも――事象としてありえない。

「まぁ字が違うのだろうな」

 無関係だ。総一郎はそう判断した。

「おとーさん、今の人、か……なんだっけ?」

「ん? 名前か? かのえ、と言っていたな」

「へー、かのえ君か。下の名前は?」

「下? 下はわからんよ」

「もー、なんで聞いてくれないのー。もー、今度会ったときに自分で聞くからいいや」

 なんとも好奇心旺盛というか色々と元気がいいなと総一郎は思う。きっと娘はあの青年が気に入ったのだろう。まだ十四歳なのに困ったものだと溜息が出る。最近の子はませていると聞くが、父親としてはあまり良い気分ではないのはたしかだ。だからせめてもの抵抗をしなくていけない。

「まだ早い」

「え? なんか言った?」

「ん? いや?」

 いつか手放す時が来るのはわかっているが、せめてそれまでは精いっぱい嫉妬してやろうと決めた瞬間だった。





「ふぅ……」

 休憩室に這入って溜息を一つ。決して嫌な溜息ではない。仕事をして充実しているという溜息だ。一人でお茶を飲んでいると隣に一人の男性が座った。

「よっ、かのえ、お疲れさん」

「お疲れ様です三重野さん」

 彼はクロに仕事を教えた人物だ。教育係とでもいう感じの人だった。そしてクロの事を呼ぶのに少し発音が違ったが、クロはそれを指摘しなかった。むしろ好都合だと考えたのだ。

「調子はどーよ?」

「まぁ、順調といえば順調ですかね。自分が犯したミスに気が付いてないだけかもしれませんけど」

「おまえが気づかないんだったら他の誰も気が付かねーよ。安心しろ」

 この人はとても気さくな人だとクロは思う。そしてとても面倒見が良い。世話をやきたがる人なのかもしれない。

「さすが社長が引っ張って来ただけあんな。御見それしやした」

 そう言って頭を下げる三重野。

「やめてくださいよ。三重野さんの教え方が上手いんですよ」

「おやおや、社交辞令をありがとう」

「どういたしまして」

 そう言って二人は笑った。普段ならこんな冗談を言い合う関係ではないのだろうが、三重野はそういった関係を求めているらしい。冗談が言い合える関係が最良の関係だ。それがクロの心に強く根付いた。もし、冗談を言い合えなければ、それは心を開いてないという事。そんな関係はお断りだそうだ。もちろん、しっかり仕事をするときはする。しかしその中で自分は楽しみを見つけるのだという。もっと簡単に言えば、どうやって楽に仕事をするか。はたまたどうやって上手くサボるかを考えろと最初に言われた。それが楽しく仕事をするコツだそうだ。これまで出会ってきた人の中でそんな事を言う人間はいなかった。上司が上手くサボる事を考えろと言ってくるなど誰も思わないだろう。あの変わった社長の元で働く人間はやっぱり変わった人が多いのかとクロは思わずにはいられない。

「今日のお前の客、どんなだ?」

 水月は担当するお客が決まっている。だいたいフロアの三部屋ぐらいを一人で持つ。もしお客の申し出がかぶったりした場合はとなりの担当がフォローする仕組みになっている。なるべく同じ人間がつく事によって親しみを向上させようと会社は考えているらしい。

「家族連れが二組とペアが一組ですね」

「ま、平常通りだな。家族連れが三組だったら死んでたぜ」

「殉職ですね」

「二階級特進だな。家族連れは何人いるんだ?」

「どっちとも三人家族ですね」

「まぁ一人対応でなんとかなるな」

 あんなにふざけ合っていてもしっかりと仕事の事は考えているようだ。しっかりするところはしっかりする。手をぬくところはしっかり手をぬいてサボる。それが出来て一人前だ。

「よし、んじゃサボってねーで仕事してこいよ」

 どの口が言っているのだろうと思うが、三重野に言われると不思議と悪い気はしない。これが人柄というやつなのだろう。

 クロは席を立って自分の担当エリアに向かった。

 正直する事はなにもないに等しい。既に自分のお客はチェックインしているし、夕食の時間までは出てこないだろう。出てきたらレストランに案内をする。それで今日の仕事は終わりそうだ。そう思っていると部屋の前に一人の少女が立っていた。

「あれは――」

 見間違えるはずがない。自分の担当のお客の一人だ。まさか部屋の前で迷子という事はないだろう。鍵を持たずに部屋の外に出てしまったか、それともどこかに行きたいのか。

「どうされました?」

 そう声をかけると少女はこちらを向いた。その表情は特に困ったような顔をしていなかった。

「……?」

 どうしたのだろうかと思っていると少女は笑ってこちらを指さして言う。

「あなたを待ってたの」

「……?」

 ますます訳がわからない。何か用事でもあるのだろうか。

「何かお困りですか?」

「まぁね。ちょっと知りたい事があって」

「なんでしょう?」

「あなたのお名前」

「……は?」

「名前、教えて」

 特に断る理由もないが少し躊躇ってしまう。おそらく中学生ぐらいだと予想するが、十干機関の事をどこまで知っているかわからない。微妙な年頃だ。

「かのえ、と言います」

「それ苗字?」

「……えぇ、まぁ」

 漢字を教えて、と言われたらどうしようかと内心は荒れた海の様だ。

「苗字じゃなくて名前だよ名前。下の名前を教えてほしいの」

「下の?」

 これはまた予想外だった。そう聞かれて何も考えずに口は動いた。

「クロです」

 教えたあとでやはりまずかったのではないかと思ったがもう後の祭りだ。

「くろ? くろ、だけ?」

「……だけですね」

「漢字?」

「カタカナでクロです」

「へー、なんか変わってるね」

 犬みたい、と最後に余計な言葉を足された。しかしクロ自身もそう思うので何も反論は出来なかった。

「美雨」

「はい?」

「美しい雨と書いて美雨。朝日美雨。これがあたしの名前」

「はぁ」

 何をお互いに自己紹介をしているのだろうかとふと疑問に思ってしまった。

「綺麗な、名前ですね」

 純粋にそう思う。お世辞ではなく素直に綺麗だと感じた。

「よく言われる。お父さん曰く、相手の心を美しい雨で潤せるように。って感じでつけたとか。まぁ定かじゃないけど」

 そう言われてクロは自分の両親が一体どういった意味を込めて自分の名前をつけたのだろうかと思った。きっと特に考える訳でもなく、それこそ本当に犬につける感じでつけたのかもしれない。今となっては理由を知りたくでも知れないが。

「クロって呼んでいい?」

「はぁまぁいいですけど」

「じゃあたしの事は美雨って呼んで」

「いや、それは――」

 仕事的にまずい気がした。お客の事を呼び捨てにするなど出来るはずがない。

「ここで無理なのはわかってるから。違うとこならいいでしょ?」

 違うところとは一体どこの事なのだろうか。彼女らが宿泊を終えればもう会うことはないだろうに。

「ねぇ、あと連絡先、教えてよ」

「……はい?」

 それはどういった意味の連絡先なのだろうか。

「えっと、すいません。スタッフ同士はインカム、無線で連絡を取り合ってまして、携帯などは持っていないのです。何か御用がありましたら自分たちは廊下で待機していますので直接声をかけていただくしか――」

「違う違う」

 そこまで言って美雨は違うと言う。

「仕事として用事があるとかそういうのじゃなくて、プライベートな連絡先を教えてって言ったの」

「ぷ、ぷらいべーと?」

 最近の子供は本当にませている。自分が中学生ぐらいの時はそんな言葉を言った事などなかった。

「そ。携帯ぐらい持ってるでしょ? 大人なんだから」

 なんだか口説かれている気がすると思うのはさすがに思い過ぎか。しかしこれはどう断ったらいいものか。クロは答えに詰まってあたふたしか出来ないでいると助け舟が出た。

「こら美雨。ホテルマン君を困らせるじゃない」

「おとーさん」

 いつのまにか美雨の父親である総一郎がいた。その姿を見てクロは助かったと思ったのと同時に気まずいなとも思った。娘に口説かれていましたなどとは口が裂けても言えない。

「ほら部屋の中に這入ってお母さんと準備をするんだ。ご飯前に大浴場に行ってみよう」

「大浴場!?」

 そう言って美雨は部屋の中に這入っていった。

「娘がすまんね」

「……いえいえ。元気が有り余っている様で」

「運が悪かった、事故だとでも思ってくれ」

「はっ?」

「あれは諦めが相当悪い」

「いやいや、でもさすがに――」

「まぁ適当に相手をしてやってくれ」

 何を言っているんだこのおっさんはと心の中で強く罵倒した。中学生を相手になど出来るはずがない。それこそ本当に犯罪になってしまう。

「いろんな事に興味がある年頃なんだ。あの子はモノを知らなすぎる。知識がなければ人生は困難だ。私が言っても聞かんから君が教えてやってくれ」

 くっ、と芝居がかった演技で、腕で目をこすりながら総一郎は部屋の中へ戻っていった。

「……」

 意味がわからない。というかお茶目すぎるだろうと笑いが込み上げてくる。世の中には色々な人間がいるものだなぁとしみじみ感じた瞬間だった。

 その後クロは朝日家族が大浴場に行くというので荷物持ちと案内役をした。その時にまた美雨に変な事を言われるのではないかと心配したが何も起こらなかった。

 休憩所に戻るとクロは机に屈服した。

「なんだか……とても疲れた気がする」

 その原因は分かっている。朝日美雨のことだ。

「まぁ、可愛いっちゃ可愛いけど……さすがにロリすぎんだろ……」

 それに、とクロは自分のネームを見た。まだ苗字の漢字を聞かれていない。聞かれたら答えなければならないという事はないのだが、もうなるべく嘘はつくたくなかった。水月で働いて少しはまともな人間になれた気がしているので、なるべく罪悪感にかられたくないのだ。

抗い続ける人生、なのは分かっている。でも抗うのは名前だけにしたい。他の事ではなるべく抗いたくないと最近思うようになっていった。それが良い事なのか悪い事なのかはまだ判断がつかない。

それにたった二日間だけだ。それ以降は会う事もないだろう。

「二日、二日間だけ自分を見失わなければいいだけだ」

 どんな事を言われても川の水の様にサラサラと流してしまえばいい。所詮子供の戯言だと聞き流せばいいのだ。

「けっ、余裕だな」

 その後。

「ねぇ、お土産選ぶの付き合ってよ」

「……かしこまりました」

 なぜか二人でお土産を選ぶ事になってしまった。これはあくまでも仕事あくまでも仕事だと自分に言い聞かせる。自分の担当のお客がそれを望んでいるのだから、クロにはそれに応える義務がある。こういう事はよくある事なので周りの仲間も何も言わない。

「おすすめとかある?」

「おススメと言われましても……」

 どんな相手に何を送るのか、具体的な言葉がほしいところだ。

「何かここに来たっていう思い出みたいなのがほしい」

「思い出……」

 そうなってくると水月関連のものがいいのではないかとクロは考える。オーソドックスなものはキーホルダーだろうが、今の若い世代でキーホルダーをつけているというのがどうにも違和感がある。しかし、そこは古き良き時代の物として一つぐらいは持っていて損はない。

「キーホルダーとかどうでしょうか?」

 そう言ったら美雨は露骨に嫌な顔をした。

「……ダサくない?」

「……まぁ否定はしませんが。定番なもので」

 他に良い物は何かないものかとクロは辺りを探す。しかしどれもこれもありきたりな物しか見当たらない。こんなところなど、ザ・定番! みたいなものしか置いてない。この中から若者が気に入りそうな物を探すのは至難の業だ。

「これなんかどうです?」

「却下」

「これは?」

「ありえない」

「こちらは?」

「だっさ」

 などというやり取りが数回続く。終いには二人とも声を出さずにクロが商品を持ち上げて美雨が首を横に振るだけという感じだった。この土産探しに終わりは本当にあるのだろうかと一抹の不安がよぎる。

「楽しくない?」

「え?」

 美雨は突然そんな事を聞いてきた。

「私と買い物しても楽しくない?」

「……」

 そうかと思い直す。これは彼女にとって最初のデートなのだ。こんな些細な事だが美雨にとっては最初の記念すべき初デート。

 クロはそれにどう答えればいいのか悩む。これはあくまで仕事だ。そんな風には到底思えるはずがない。しかも相手は子供だ。傷つけずに言葉を探していると美雨の方が先に口を開いた。

「ごめん。なんでもない」

 察したのだろう。または答えを聞くのが怖かったのかもしれない。相手にされてない事は分かりきっているがそれでもと期待をしてしまう。

「帰ろっか」

 結局なにも買わずに土産屋を出た。部屋に戻る際、美雨はクロの数歩前を歩いた。クロはその距離を保ったし、美雨は歩く速度を遅くしようとはしなかった。会話ももちろんない。部屋の前に着いてようやく美雨は振り返って一言。

「じゃ、ありがと」

 怒っているのだろうか。接客として、仕事として間違った選択をしたのだろうか。そんな思考ばかりが頭をよぎる。

 それから朝日家が帰るまで二人が会う事はなかった。あっという間に旅行は終わりを告げる。

「じゃ世話になったね」

 総一郎はクロの右肩をポンと叩いた。

「お世話になりました」

 妻の砂羽は深々と頭を下げた。次に美雨。

「じゃ、またね」

 クロは腰をおって頭をさげたのだった。





「ふぅ……」

 朝田美雨は放課後自分の机について外を眺めていた。頬杖をついて空を見る。もうすぐ夏も終わり秋がやってくる。だんだんと日が沈むのが早くなっていく。そんな夕日を見て思いだすのは家族旅行で行った水月の事。

「あ~あ~……」

 なんとも言えない焦燥感にかられている。言葉が出てこないし自分が何を言いたくて何をしたいのかが全くわからない。出てくるのは溜息ばかりだ。

「ふぅ~……」

「なに黄昏てんの?」

 そう声をかけられて美雨は声のする方に顔を向けた。そこに立っていたの一人の男子生徒。

「あ~二年三組出席番号一番の赤羽翔くんじゃない」

「……丁寧な自己紹介ありがとう」

「どういたしまして」

 彼は美雨の幼馴染だ。母親同士が同級生で小さい頃から兄妹のように仲良く育った。なんでも言い合える親友だ。

「で? どったの? えらく黄昏てたけど」

「そんなに?」

「めっちゃ声をかけてほしい、みたいな雰囲気が出てた」

「……そんなに?」

 翔は無言で頷いた。

「私、恋、しちゃったみたい」

「……はっ?」

 突然のカミングアウトに思わず変な声で聞き返してしまった。

「誰に?」

 黙っていても仕方がないと思った美雨は家族旅行に行った時の事を全て話した。

「あ~、そういえば夏休み終わったのに休んでたなー。旅行に行ってたのか」

「うんー。おとーさんの仕事が区切りがつかないとかでね。本当は夏休み中に行く予定だったんだけどズレちゃって」

「まぁ、おじさんの仕事は仕方がないな。休みがとれただけでも奇跡だと思うけど」

「うん」

「んで? 恋をしちゃったと?」

「うん」

 翔は溜息をついて「美雨もたいがいだな」とつぶやいた。これまでに朝日美雨という女子生徒に彼氏がいた事はない。人気はあるのに誰とも付き合わなかった。周りの友人たちは彼氏彼女を作っているのに美雨だけはそんなものには流されなかった。

「で? どーするんだ?」

「どーするもなにも」

 どうしようもない。正確な歳は知らないが十歳近くは離れているだろう。しかもこちらは中学生だ。成人した大人が相手してくれるとは到底思えなかった。

「あのさ」

「うん?」

「おれの知ってる朝日美雨ってやつは、とっても諦めが悪いんだよ」

「はっはー、褒め言葉かな?」

「すっごい馬鹿みたいな猪突猛進で一直線なやつ。周りには流されない自分の道を貫くやつ。例えるなら激流に流されずに立つ一本の木って感じ」

 よけいわかりにくいと美雨は首をかしげた。

「そんなやつが諦める? ハッ、ちゃんちゃらおかしいね」

 煽る煽る。翔は朝日美雨という人間をよく知っている。本人よりも知っているかもしれない。だからその取扱説明書通りにことを運ぶのは簡単だ。

「誰が諦めるって言った?」

 ほおらきた。

「さぁ誰だったかな?」

 前置きはこれでいい。あとは坂道を転がるボールのように転がるだけだ。あの美雨が恋をした? これほど嬉しい事はないし、こんなに面白い事はない。正直なところ後者が本音中の本音だった。こいつは面白くなる。翔の直感がそう告げている。だからこんなところで諦められたら困る。どっちに転ぶかはかわらないが、まぁ成功してくれた方が面白いのは事実だろう。

「でもさ、もう会えるかとかわかんないよ。結局連絡先も交換できなかったし」

 なんとも積極的だなぁと思う。それだけ本気なのだろう。

「道端でばったり、なんて都合よくはいかないだろな。おじさんに頼んでみるとか?」

「協力してくれるとは思えない」

「おれもそう思う。最終手段はあるにはあるけど――」

「どんなっ!?」

 翔が言い終える前に美雨は体を前のめりにして聞いた。

「水月に行けばいい」

「……まぁたしかに」

「でもこれはリスクもある」

「どんな?」

「ストーカーだと間違われる可能性大」

「……」

 黙ってしまったのはその通りだと思ってしまったからだ。普通に考えればそうなる。わざわざ職場まで押し掛けるなど非常識だ。しかしそれは大人だった場合。相手が子供だったらそこは可愛らしいと大目に見てくれる可能性も無きにしも非ず。しかし良い方向に転がる可能性は低い。それに――。

「おとーさんにバレたらやーばいよ」

「まぁそんな犯罪おじさんが許す訳ないだろうね。だからこの作戦は最終手段だ」

「じゃ、じゃあ、最初の手段は?」

「……」

「なぜ沈黙!?」

 所詮は中学生の考える事だ。どうやら他の考えは今のところ浮かんでないらしい。

「ま、まぁ、その相手が運命の相手だったらどこかでばったり会うさっ。だって運命の相手なんだもんなっ」

「……」

 今度は美雨が沈黙。眼を細めて翔を見つめるが、翔の視線は明後日の方向を向いていて残念ながら視線は合わなかった。

 しかし翔もふざけている訳ではない。なんとか協力してやりたいのはやまやまだが、なんの打つ手もないのが現状だ。どうしたらいい? どうしたらその相手と会える?

「あのさ、水月の社長とおじさん、知り合いとかじゃないのか?」

「えー、たぶん違うと思う」

「そっか」

 一言で撃破されてしまった。仮に二人が知り合いだったらコトはスムーズに進んだだろう。

「あのさ、もう一度水月に行くってのは出来ないか?」

「家族旅行?」

「別に家族旅行じゃなくてもいいけど、さすがに中学生の一人旅は許可してくれないだろうな」

「一人旅、か……」

 美雨はつぶやき夕日を眺めた。





 それは突然やってくる。それこそなんの前触れもなく理不尽にやってくる。それを予測して回避しろなどいう事は到底無理なわけで、当然のようにその身で受けるしか道はない。

 最初は特に気が付かなかった。いつからそんな状況になっていたのか思い出しても分からない。しかしそれが続けばさすがに異変に気が付く。決定的にそれを理解した瞬間は仲が良いと思っていた先輩の三重野が自分の名前を呼んだ時だった。

発音が合っている。

 たったそれだけだった。それを聞いただけでクロは理解し納得した。納得せざるおえなかった。それ以上は何も言えないし言わない方がいい。察せよ、と相手も思っている事だろう。一つの事を分かってしまえば他の事にも気が付く。周りが自分を見る目。その目つきは特有のものだ。クロがもっとも嫌う目だった。

「あ~くそっ……」

 別に誰が悪いわけでもない。誰も悪いなんて思ってない。知らなければいいだけの事を知ってしまった。それだけだ。たったそれだけなのに――それが何よりも重く、重くのしかかってくる。

「どうしろっつーんだよ……」

 どうしようもない。何か出来る、という事は皆無だ。知られてしまった。記憶を消せれば今まで通りに出来るかもしれないがそれは到底不可能だ。

 これを機に、クロに対するまわりの反応は変わっていった。

 それでもクロ自身は何事もなかったかのように今まで通りに仕事をした。同僚に挨拶をして嫌な眼で見られても無視をされても平然と今まで通りを貫いた。しかしそれは表面上だけで確実にクロの精神は削られていった。

 仕事終わりに携帯を片手に画面を覗き込む。そこに表示されている名前は一条紫織。最近まったく連絡をとっていなかった。久しぶりに声を聞きたいとも思うが、今電話をしたら確実に弱音をはいてしまう。きっとその事を知ったら紫織は「何くだらない事でうじうじと」と叱咤言葉をかけてくるだろう。それが安易に予想がつく。だからクロは携帯をポケットの中にしまった。電話して言われる事はわかっている。なら余計な心配をかける必要もない。自分が頑張ればいいだけの話だ。

 そんな事を思っていると携帯が鳴った。一瞬クロは紫織からだと思ったが、知らない番号からだった。

「誰だ……?」

 こんな自分に電話をかけてくるのは紫織しかいないと思っている。きっと間違い電話か何かだろう。

「はい、もしもし?」

 クロは電話に出た。





 学校の帰り道。

 朝日美雨はどうやってクロと会うかを考えながら歩いていた。特に帰り道を意識しているわけではない。自然と足が勝手に動いて自分を家まで運んでくれる。その足が不意にピタリと止まった。

「ん?」

 そこで視線を前に送るとそこには一人の男が立っていた。





それから数日後。

「庚……くん」

 呼ばれた方を見れば三重野がそこに立っていた。

「はい?」

 視線は常に泳いでいるし、今まで呼び捨てだったのに『くん』などつけられているが、そこはあえて触れなかった。

「あ~のさ、上が呼んでるからさ、第三会議室に行ってくれない、かな?」

「……わかりました」

 覚悟はしておこう。クロはそう決意して席を立った。

 第三会議室とは水月の重役専用の会議室だ。一般の従業員がそこに呼ばれる事は滅多にない。ようは何かやらかしたり処分を受ける場所。

「ふざ、けんなよ……」

 自分が何をしたというのだ。いつの間にか拳は血が流れるのではないかと思うぐらいに強く握られていた。第三会議室の前に到着したクロは止まる事なくドアをノックした。ここで立ち止まってはダメだ。流れに身を任せるように行かなければ逃げ出してしまいそうになる。

「どうぞ」

 ほどなくして声が聞こえた。

「……失礼します」

 クロは部屋に這入り、その場を睨みつけた。

「そんな怖い顔をするもんじゃない」

「あっ――社長……」

 そこに居たのは水月の代表取締である宗像ただ一人だった。そうだ。自分を水月に引き入れた人物。自分の名前の事などを最初から知っていた唯一の人物。それが宗像だ。

「……どうやら面倒な事になっているようだね」

「面倒ですか……。これを面倒な事で済ませるんですか」

「とりあえず座りたまえ」

「結構です」

 クロはピシャリと断った。宗像はそれ以上は何も言わずに続きを話す。

「……どこから情報が漏れたのか私にはわからん」

「わからん? 何をふざけた事を言ってるんです。社長が俺の事を話した人、全員を調べればいいだけでしょう」

「珍しいな。君がそこまで怒りを面に出すとは」

「俺の何を知っているというんですか」

「そうだな。私は何も知らない。自分の都合で君をこの会社に入れた。君の事がバレたら君がどんな気持ちになるのか考えもしなった」

「今更ですね」

「まわりとは仲良くできんか?」

「それを俺に言うのは間違ってると思いませんか? そんなセリフは俺のまわりの連中に言うべき事でしょう。俺はいつも通りに分け隔てなく接していますよ。いつもいつも俺の態度は変わりませんよ。変わるのはいつだって周りの連中だ」

「人は変わる。見た目も考えも変わる。それはどうしようもない事だ。変化しないものはない」

「だったらどうしろというんですか!? このまま仕事を続けるなんて無理でしょう!? ここに呼んだのは解雇の話でしょう!」

 声を荒げるクロに対して宗像は静かに首を横にふった。

「違う。仕事を続けなさい」

「……はっ?」

「嫌な思いをしてでも仕事を続けるんだ。どんなに嫌な事があっても仕事を続けなさい」

「何を言って――」

「まわりに迷惑をかけてでも仕事を続けなさい。君が仕事をするのは当然の権利だ」

「……それで他の人たちが辞めていってもですか?」

「そうだ」

「この水月が潰れる事になってもですか?」

「そうだ」

「馬鹿げてる。ふざけないでください。他人にそこまで迷惑をかけて続けようなんてこれっぽちも思いま――」

「――君は他人に迷惑をかけてもおつりがくるぐらいある。今までの事が全て帳消しになるとは思わん。それだけ君は苦労してきたんだろう。周りに迷惑を、周りを犠牲にしてでも君は自己を貫いてかまわんのだ」

 もう逃げるのはよしなさい。宗像は最後の言葉にそう付け加えた。

「――ッ」

 クロはそう言われて何も言わずに踵を返して部屋を出て行った。これで何かを伝えられたとは宗像は到底思えなかった。あとは本人の判断に任せるだけになってしまうが、それはそれで仕方がない事だ。どういった選択をするのか、それぐらいの自由はあっていい。

「……しかし妙だな」

 あの彼がここまで反論するとは思わなかったのだ。

「何か……あったのか」

 宗像は携帯を手にしてある番号に電話をかけた。





「くそっ、くそッ、くそクソッ――……クソッタレがッ!」

 クロは非常階段に座り込んで頭を抱えた。頭の整理が追い付かない。今はこんな事を考えている場合ではない。だから余計にイライラする。

自分の事など考えている余裕はないのだ。

 状況は最悪でもう元通りには戻らないところまで来ている。これが自分の事ならそれで諦めがつくが、今回はそうはいかなかった。

 あの時の見知らぬ電話番号はやはり一条紫織だったのだ。

『離婚した』

「はっ? いや、だれ? 離婚? え?」

 思考は完全に停止している。電話に出ていきなり言われた言葉がそれだった。理解しろというだけ無理な事だろう。まず初めに相手が誰か認識する事から始まった。聞いた事のある声。ずっと、ずっと昔から知っている馴染みのある声。そんな声の持ち主は一人しかいない。

「し、紫織……か?」

『そう、私』

 確認はとれた。では次だ。

「番号――」

『携帯壊れたから変えたの。まぁなんて言うか……正確に言ったらブン投げて壊したんだけど。それに丁度番号も変えないといけなかったし、ね……』

「あ、あぁ……」

 まるで状況が飲み込めない。言っている事が理解出来ないが、普通は理解できなくて正解だろう。紫織は知っているという定義で話をしている。

『離婚した』

 紫織は再度その言葉を口にした。聞き間違いではない。今度ははっきりと聞き取れたが、それが逆に困った。なんと返していいのか分からない。

「離婚?」

 だから聞き返すしかできなかった。

『そ、離婚した』

 詳しく聞いていいものなのか分からないが、考える前にクロは「今からちょっと会えないか?」と口にしていた。

『……いいよ。近くのファミレスで待ってる』

 少し迷った? 明らかに一瞬、間が空いた。

「……意味が、わかんねぇよ」

 どう考えたって離婚をするような雰囲気はなかった。なかったといってもそれはクロが知っている範囲内だし、その範囲はとてつもなく狭い。それは知らない事も当然だろう。考えても答えなど見つける事は出来ない。今できることは少しでも早く紫織の待つファミレスに行く事だった。クロは携帯をポケットにしまわずに、手で握りしめたまま走った。





 それから二人は合流して離婚について話をした。紫織は離婚を言い渡された方だった。クロが「理由は?」と聞くと紫織は少し言いにくそうな顔をして「浮気」だと答えた。離婚を言い渡されたのは紫織で原因が浮気だとするならば、それは紫織が浮気をしたことになる。クロは黙り込んでしまった。紫織が浮気などするはずがないと思っていたからだ。

「その顔は疑っておるな?」

「……いやぁ」

「してないよ。でも証拠を言い様に突き付けられた。いい感じの写真だったし、あれは誰がどう見ても浮気現場だろうね」

 ハハハ、と笑いながら言った。笑う場面では決してないが、少しでも冗談っぽく言わないと自分の心が折れてしまう。そしてクロには一つどうしても気になる事があった。

「子供は――」

「うん、とられた」

 相手が育てるという事だ。

「さすがにこんな母親には預けておけないって裁判でもなるでしょーね。まぁ裁判なんてやるだけお金の無駄だからしないけど」

「お、お前はそれでいいのかよッ!?」

 周りに客は少なかったがそれでもその声は視線を集めた。

「大声ださないの。私の方が大声だしたいよ、ほんと。もう失ったものは元には戻らない。これからは悠々自適に暮らしていくよ」

「……」

 きっと色々何時間も話し合った結果なのだろう。クロが悔しかったのは自分がそれに気づかなかった事だ。大事な友達が一大事の時に自分は何の力になれなかった。自分はいつも紫織の力を借りているのに、その恩を返せなかった。それが何よりも腹ただしい。他にも聞きたい事は山ほどある。でもそのすべてを聞いたとしてもとても納得はできないだろう。納得できるはずがない。なんなら今からでも元旦那のところに駈け出して行ってしまいそうだ。それをしないのは紫織が完全に諦めているから。

「もう……本当にどうしようもねぇのか……」

「どうしようもない。もう終わった事」

 その言葉を聞いて脱力した。体の力が砂漠に吸い込まれる水のように消えていった。

 無力だ。

「人は無力だよ。無力じゃない人間の方が珍しい。まぁ、さ。たまにはボロアパートに遊びに来てよ」

「あぁ……」

 今確実に紫織は落ち込んでいる。それを自分には見せないようにしている。強い女だなと心底思う。もう紫織の覚悟は決まっている。だったらそれに少しでも力添えを出来るように助けるしかない。

「俺に出来る事があったらなんでも言ってくれ」

 あ~じゃあ、と紫織はさっそくお願いをする。

「お腹空いちゃった。お財布持ってくるの忘れちゃったからなんかおごって」

 そう言われてクロは無言でメニュー表を紫織に手渡したのだった。





 偶然というのは意識の外にある。まったく意識していない時にそれが目の前に現れる時に偶然という。だからこの場合に偶然というのは間違えている。それは明らかに意識をしていたし仕組まれていた。

「あ、ぅ……久しぶり――」

 勇気を振り絞って声をかけた。まず会ったら最初にかける言葉は色々と考えたが、いざその場面になると頭の中は真っ白で違う言葉が口から出ていた。

 彼は最初誰だかわかっていないようだった。ほんの数秒の間のあとに声が出た。

「あぁ、あの時の」

 覚えていてくれた。完全に忘れられていたらどうしようかと思ったが、その心配は杞憂に終わってくれた。しかしここからがまた問題だった。次に繋げる事が出来ない。あたふたしていると彼の方から質問がきた。

「お久ぶりですね。お元気ですか?」

 願ってもない言葉だったが、それでもその言葉は嫌な気持ちにさせる言葉だった。正確には言葉使いか。敬語であるという事。相手からしたら自分はただの客としてしか認識されていないというのが悲しかった。

「う、ん。元気」

 何か言葉を繋げればよかった。このままでは会話が終わってしまう。

「……家、このあたりなんですか?」

「いや……違う。隣の隣の市、かな」

「随分と遠出を。おひとり? ご両親は?」

「一人、で来た」

 そろそろこの片言喋りを直さなければ。大丈夫、不振がられていない。見事に偶然を装う事ができている。と思っているのは本人だけかもしれない。

「あの、さ」

「はい?」

「連絡先、教えてよ」

「は?」

 さすがにストレートすぎたかと言ったあとで少し後悔するが、それはもはや後の祭りだ。それにこの言葉は言うのは二度目だ。あの時は仕事中だったので教えてはくれなかったし、仕方がないと思って身を引いたが今回ばかりは引く訳にはいかない。教えてくれなきゃずっとつけましてやると、そんな覚悟さえあった。

 彼は少し困った顔になった。露骨には出さないが美雨にはそれがわかった。でも教えてほしい。たとえ相手が困る事になっても教えてほしい。自分のワガママの所為で相手が嫌な思いになってもこればかりは譲れなかった。そんな覚悟が通じたのか彼は自分の携帯の番号を口にした。

「待って待って!」

 急いで自分の携帯を取り出す。そして耳から聞いた数字を何も考えずに懸命に携帯に打ち込んだ。何度も確認をした。これであってる? と何度も彼に聞き返した。答えは何度聞いても同じで合っているとのこと。

 嬉しかった。涙が出そうなくらいに嬉しかった。ここで泣いてしまったら人は嬉しくて本当に泣けるんだと思う事も出来たのかもしれない。しかしそんな余裕は今はない。内心では心臓が張り裂けそうなほどバクバクしているけどそれは相手には見せない。至って冷静に、クールを装う。

「この後ヒマ?」

「……はぁまぁ」

 歯切れは悪いが言質はとった。

「ご飯、食べ行こ」

 まずは二人で話をする場所が必要だ。警戒されるのはお互いの事をなにひとつとして知らないからだ。会話をして警戒心を取り除く。そこからが本当の勝負だ。

 それから二人は近くのファミレスで数時間にわたり会話をした。最初はぎこちなかったが、それも徐々に解消されていった。まず美雨が言ったことは敬語を使わないでというお願いだった。敬語は壁がある感じがするとなんとか説き伏せる事ができ、今では普通に喋っている。きっと会話が出来るようになれば君の人柄に気づいてくれる。そうアドバイスをされたがまさにその通りだったなと思う。自分よりも自分の事を知った老人だった。

 あの時――。

 一人の男が美雨の前に立っていた。それは一言で言うなら老人。しかしその雰囲気は老人のそれではない。まるで我が道を貫く一本の巨大な樹のようにそこに立っていた。赤羽翔は自分のことをそういう風に表現したが、この老人を見ればその言葉が相応しいのはこの老人の方だろう。誰にも、何ものにも流される事はないだろうと思えるぐらいにしっかりとした足でそこに立っている。その眼光は凄まじく、こちらを見つめている。まるで猛禽類の眼だ。袴に着物姿。杖を前についているが、きっとその杖はただのお洒落か飾りだろうと思った。

「どうしたのおじいちゃん? 迷子?」

 そんな堅物に恐れおののく事なく話しかけた。それが老人は嬉しかったのか思わず口元を歪ませて口を開いた。

「そんな訳ないだろが。お前さんを待っていた」

「私を?」

「そうだ」

 ふむ、と美雨は考えた。そしてある結論を導き出す。

「もしかして誘拐する気?」

「そんな訳ないだろが」

「じゃなんで待ってるの?」

 老人はその見た目に似合わずにゆっくりと喋りだした。

「まずは儂が誰か、というとこから説明しよう。儂の名は壬。ただの老人だ」

「壬……? それって――」

「十干機関が一つ、壬。世を統べる血族の長だ」

 壬は庚と同じ十干機関の一つでとても有名な名前だ。それは庚とは対なす名前だろう。つまり庚は悪、壬は正義という事になる。その相反する名前の持ち主が一体なんの用があるというのだろうか。

「で? その壬のおじいちゃんが私に一体なんの用なの?」

「ほぅ。物怖じせぬ娘だな。名前に関しての知識はあるか」

「そりゃ、まぁね」

「だったらお前さんが恋する相手がどんな相手なのかわかっとるのか?」

「……」

 心臓を鷲づかみされた気分だった。いきなり現れて恋する相手がどうだと言われれば誰だってビックリする。

「どうして知っているのか、という顔だな。おじいちゃんは何でも知っておる」

 長い髭を触りながら不敵な笑みを浮かべた。

 不審者でしかないと美雨は思った。それにこの老人が本当に壬だという証拠は何一つない。口車に乗せられて本当に誘拐されてしまうかもしれないという不安が少しずつ大きくなっていく。

「お前さんの恋する相手、庚の名を持つ者ぞ? それが意味する事を知っておるのか?」

「まぁ知ってるけど、十干機関の人じゃないでしょ? 十干機関の人が普通にホテルで働いてる訳ないじゃん」

「ま、ごもっともな意見だ。たしかにそうかもしれんが、そうでない可能性だってあると思わんか? ん?」

 そう言われたらそんな気もする。自分の身分を偽って庶民の暮らしを知りたいとどっかの暴れん坊さんがよく下町に繰り出すと聞くし、もしかしたらそうなのかもしれない。

「まぁ、別にそれはそれでもいいよ」

「いいよ、で片づけられん事だとわからんのか?」

「仕方がないじゃん。もう好きになっちゃってんだし。思春期の乙女なめないでよね」

 そう言われて壬はハトが豆鉄砲を喰らったような顔をした。こいつは面白いと素直に思える。たかが数十年しか生きてなく、なんの説得力の欠片も持たない少女が、くだらない言葉で自分の心をくすぐる。およそ自分にはなかった感情をこの娘はもっているのだろうと思うと少しばかりにやけてくる。

「くくっ。おもしろい。さすがあやつの娘。くだらん事を言うのはそっくりだ」

「おとーさんと知り合いなの?」

「まぁな。だが、安心しろ。お前さんの恋する相手が庚組とは関係がない」

「なんでわかんの?」

「それは庚に跡取りがいないからだ」

「いない?」

「正確にはいた、という過去形だ。庚の跡取り息子は十年前に死んでおる。それは盛大な葬式だった。お前さんは記憶にないだろうが、世間は大騒ぎだった。そして庚組はあと数十年で終わるだろう」

「終わる? 終わるって?」

「滅びるという事だ。当然だ。跡取りがいないのだからな。親戚などもいやしない。そのすべては断絶。養子をとるなど言語道断。あとはもう滅びるしかない運命なのだ。そう考えたら悲しい一族だとは思わんか?」

「え? 別に? 今まで悪い事ばかりしてきたんでしょ。それが還ってきただけじゃないの?」

「まぁそうだな。今更慈悲を向ける者など皆無だろうな。皆が皆せいせいすると思っているだろう。しかしそれはそれでバランスが崩れる可能性もある。それを他の一族たちは危惧しておる」

「そんな話どうでもいいんだけど。で結局なんの用なの?」

 興味がない。そんな事はどうでもいい。世の中がどうなってもなるようにしかならない。欠ければ誰かが埋める。世の中はそういう風に出来ている。

「居場所を教えてやろう」

「誰の?」

「庚クロ」

「なんで?」

「会いたいんだろ」

「そうだけどなんでおじいちゃんがそこまでするの?」

 意味がわからない。なんの利益もないのになぜ十干機関の一つが動くのか理解できない。タダでは決して動かないのが十干機関だ。しかしそう問われて壬はおもしろいからだと答えた。

「もう老い先短いのでな。これを最後の笑いにしたい」

「迷惑な話」

 ズバッと斬って捨てた。迷惑のなにものでもない。人の真面目な恋を笑いものされるなど我慢ならない。

「悪い話ではないと思うが。居場所が知れて仲良くなるチャンスだろが。それとも中学生の浅知恵で足掻くか?」

「……」

 むぅ、と頬を膨らませる。反論ができない。自分一人では何も出来ないのがわかっている。人を探し出すというのはとても大変な事だ。しかし壬ならそれを当たり前のようにやってみせるだろう。まるで体のかゆいところを掻くかのように自然に当たり前に無意識でこなすだろう。

 意地を張っている場合ではないのかもしれない。

「どこにいるの?」

 壬は口を歪ませた。





「それじゃまたね」

 太陽が落ちていく。一日が終わろうとしているが美雨の気持ちはとても晴れやかだった。たった数時間がこんなにも長く短いと感じたのは初めてだ。別れる時に不安はなかった。連絡先をしっかりと交換したし、何よりも手ごたえみたいなものがあった気がした。それはただ今現在舞い上がっているのでただの勘違いという事もあるだろうが、勘違いなら勘違いでかまわない。ただ少しでも長くこの勘違いを味わっていたい。帰りの電車の中で思わず笑みがこぼれてしまう。

「あっ、そういえばあのおじーちゃんの連絡先聞くの忘れた」

 楽しませてくれなどと言っておきながらその報告すべき連絡先がわからない。それでもなんとなく大丈夫だろうと思った。相手はあの十干機関の一つである壬。その気になれば出来ないことなどないのだから。

「なんかどえらい人と知り合っちゃったな」

 あの言葉をどこまで信用していいのか。十干機関の人間は、人間であって人間でなく人間から逸脱している。常識など、通用しない。

「帰ったらおとーさんに聞いてみよう」

 家に帰りつけば否応なしに現実へと引き戻される。それまではこの余韻に浸っていても罪にはならないだろうと思い、心を過去に送ったのだった。





「にんじんは?」

「いらない」

「なんで?」

「嫌いだから」

 大の大人がにんじんが嫌いだというのを久しぶりに聞いた気がした。

「お前、子供にどうやって食わせてたんだよ」

「そりゃ好き嫌いはダメだって言って食べさせたわよ」

 自分が嫌いで食べないくせに子供には食べさせる最低の親が隣にいた。

 クロと紫織は夕食の買い出しに来ていた。今夜のメニューはカレーだ。そこでにんじんを入れるか入れないかで反論し合っている。

「にんじんの代わりにアサリを入れよう」

「おかしくね?」

「おかしくありません。文句があるなら喰うな」

「……」

 明らかにおかしい。アサリが、ではなく、カレーの食材の料金を支払うのはクロであって作るのもクロだ。なのに自分の意見が通らないというのは明らかにおかしい気がする。

 紫織はクロのアパートの近くに部屋を借りた。決して良いアパートではないし、むしろボロボロな類に入るだろう。女一人で住むような場所ではない。それだけ資金がないのだろうとクロは理解している。だからたまには夕食をわけてやろうと思って連絡して何が食べたいか聞いた。そうしたらカレーだと言われて今現在に至る。

 こいつこんなにワガママだったかとクロは思うが口には出さないでおいた。口に出したら最後、何を言われるかわかったものではない。

「女って恐ろしいな」

 ぼそりと本音が出る。

「なに? なんか言った?」

「なんでもございませんよ」

 材料を無事に買い終えて帰宅する。家に帰りついたらクロはさっそく料理にとりかかった。まずは野菜をすべて切って準備をする。そしてアサリを手にとって固まる。

「どーやってカレーにアサリ入れんだよ……」

 料理法がわからなかった。アサリの殻ごとカレーに入れたらものすごく食べにくいだろう事は容易に予想できる。そんな事を思いながらアサリを見つめていると紫織がテレビを見ながら口を挟んだ。

「茹でて~身と殻をわけて~身だけカレーにぶち込んで」

「……はい」

 やっぱりかと落胆するしかない。予想はなんとなくできていたが、とても面倒なので考えたくなかったというのが本音だろう。それからクロは紫織の言う通りに作業にとりかかり、約一時間後。

「できたぞ……」

 こんなにも疲れる料理を作ったのは初めてだった。

「ま、ココイチにくらべたらまだまだだけど及第点」

「……そらどうも」

 比べんなよそんなもん、と激しく反論したいが、そんな気力はない。

「で?」

「あ?」

「何か相談したい事があるんでしょ?」

 まだ何も言っていない。そんなそぶりすら見せていないのに、紫織は確信めいた目でクロを見た。こういう勘は昔からいい奴だと観念してクロは重く口を開いた。

 相談事とは当然あの少女の事だ。偶然また会って色々と話して連絡先を交換した事。スプーンは口の中に入らずに皿へと戻された。

「率直に聞くけどさ」

「あぁ」

「あんた、ロリコンなの?」

 率直すぎんだろ。

「……チガウ……はず」

 しどろもどろで答えた。尋問される犯人の気持ちがとてもよく理解できた瞬間だった。コップで口を隠すがきっと紫織には見透かされているだろう。

「まぁ、そんなっ気はなかったと思うけどさ。で? どうなのよクロちゃん的には」

「どうなのよと言われても……」

 正直なにも分からないとしか答えようがない。展開が早すぎるとは言わないが、自分の身にこのような事が起こるとは思ってもみなかったので対処の仕様がわからないのだ。

「まぁ、さ、クロちゃんからしてみれば思いもよらぬ棚からぼた餅状態だけどさ」

「棚からぼた餅て……」

「いいんじゃないの? 付き合っちゃえば」

「馬鹿言うなよ。相手は中学生だぞ」

 そう言いヤケとばかりにカレーを口に運んだ。

「あと五年もすれば法律上は問題なし。この先五年以内に他に良い人が現れると思う? 思わないんだったら今のうちから確保しとくべきだと思わない?」

「……むぅ」

 一理あると思ってしまった。たしかにこの先、自分の事を想ってくれる人が現れるか、と言われれば現れるかもしれない。しかし苗字が庚だと知った場合、確実に自分の元を去るだろう。

 と、考えたところで忘れていた事を思い出す。

「いや待て待て待て。あいつは――俺の苗字の意味を知らんぞたぶん」

「んじゃ選択肢は二つ」

 紫織はカレーをもくもくと食べながら言う。

「二つ?」

「庚と知って逃げだしたらそこまで。逃げ出さなかったら付き合えばいいじゃん」

「いや……それはなんだか極端な気がするぞ」

「極端でいい。クロちゃんは物事に理由をつけたがりすぎ。そんなんじゃ結婚なんて夢のまた夢」

 ぷはーっとコップに入った水を飲みほして紫織は言った。クロはスプーンにすくわれたカレーを見つめている。

 ひとまわりは違う少女と付き合う? 馬鹿げている。相手の親になんと説明をすればいいのだ。そこで美雨の父親の顔が浮かんだ。

「なんだか適当に許してくれそうな気がするのが逆に怖い……」

 どうしたものかと頭を悩ませる。正直なところ、自分がせめて十代だったならと悔やむ。そうすれば多少は迷うかもしれないが、今よりは迷わずに付き合う道を選ぶだろう。さすがに歳が離れすぎている。こんなおっさんまじかな自分よりも同年代と恋愛をした方が絶対にいいに決まっている。十代には十代同士の恋愛をして青春をすべきだ。

 よし、とクロは残りのカレーを一気にたいらげた。今度会ったら説得をしてみよう。きっとその方がいい。おそらく自分は気持ちが揺らいでいる。あの少女の事を好きになりかけているのかもしれない。あんなにアプローチをされてその気にならない男はいない。認めたくはないが揺らいでいると認めよう。だったら自分の幸せよりも相手の幸せを願うべきだ。

「覚悟、決まったみたいね」

 紫織はことさら自分のように嬉しそうな表情で言った。





『今度の日曜日、暇ならデートしてください』

 クロはそんな文を込められた携帯のメールを見て困惑した。最近の子供はませていると聞くがここまでとは、と衝撃を受けているのだ。さてさて、返信はなんと返せば傷つかずに済むかと考えながら文字を打ち込む。

『ごめん。日曜日は仕事なんだ』

「まぁ、仕事をいいわけにするしかないわな。実際本当なんだし」

 ふぅ、と溜息をついてそのまま風呂に入った。別にデートをするのはかまわない。しかし時間が合う事は稀だろう。クロの仕事は主に土日や祝日が忙しい。そんな日に休むなど出来るはずがない。子供だからそんな事はわかっていないのだろう。

 風呂から上がって携帯を見ると、すぐに返信があったらしい。

『いつなら大丈夫?』

「いつなら……う~ん、いつならと来たか」

 こちらに日にちを合わせるつもりだろうが、クロの休みは平日ばかりだ。相手が社会人なら平日休みの仕事もあるだろうが、相手は中学生。平日休みなど皆無だろう。

『金曜、明日が休みで時間はあるけど学校でしょ?』

『休む』

 一言そうすぐに返信が返ってきた。

「……」

 いやいやそれはまずいだろう。そんなワガママを聞く訳にはいかない。

『それはダメ。学校には行きなさい』

 そう返した。するとすぐにまた返信があった。

『じゃ、学校終わったら』

「……まぁそれだったら問題はないけど」

 時間が限られてくる。夜遅くまで連れまわす気は毛頭ない。後で駄々をこねられても困るので先に言う必要がある。

『いいけど、夜六時までだからね』

 夕飯前には家に帰さなければ親御さんが心配するだろう。学校が終わるのがだいたい三時から四時ぐらいか? つまり時間は二・三時間ほどだろう。普通に考えて短いなと思う。

『分かった』

 返ってきた返事を見てクロは意外だなと思う。もっと反論をするかと思ったが意外に素直だ。

「なんだ。聞き分けがいいじゃないか」

 しかしこの時のクロは知るよしもない。美雨がとんでもない計画を立てているという事に気が付く事はその瞬間までなかったのだった。





 金曜日当日。

 三時過ぎに美雨から学校が終わったと連絡が入った。それを受けてクロは車で迎えに行く。さすがに学校の前までは行けないので近くのコンビニに車を停めた。中学生がコンビニに寄って帰るなどどうかと思ったが、自分たちの時とは時代が違うと紫織に言われて納得。なんだか寂しい気もした。自分たちが中学生の頃は寄り道などしたらとても怒られていた気がする。

 そんな事を考えていると窓をコンコンとノックされた。美雨だ。

「車の中で待っててくれ。店這入るけどなんか飲むか?」

「コーラが飲みたい」

「……気が合うな」

 クロは店内へ行ってコーラを二つ買って車に戻った。

「良い車乗ってんね」

「そうか? てか良いとか悪いとかわかんの?」

 コーラを渡すと美雨はさっそくクチをあけた。炭酸の抜けるいい音がする。

「まぁ少しだけ。おとーさんもこの手の車が好きだから」

「へ~」

 クロが乗っているのはそれなりに高いセダンだ。セダンがほしくて燃費や税金、長く乗れる車を探していたらこの車にいきついた。

「メールにも書いたけど――」

「――ラインね」

 言葉をかぶせてきて訂正させる。

「何が違うかわからん」

「全然違う。とにかくラインね」

「……ラインにも書いたけど、今日は六時までだから」

「わかってるよ。ちなみに六時から何か用事でもあるの?」

「いや、ないよ。ないけど中学生を日が暮れてからも連れまわすのはちょっとな。犯罪の匂いがする」

「まぁ昼間でも犯罪の匂いはすると思うけど」

「……否定はできんな。何か他の人に聞かれたら兄妹って事で押し通すからな」

「なに、お兄ちゃんって呼ばれたい願望があるの?」

「……別にない」

「今の間はなに?」

「なんでもない」

 一瞬だけいいかもと思ってしまったのは秘密にしておこう。それこそ紫織からロリコンの称号を与えられてしまう。俺はロリコンじゃない俺はロリコンじゃないと必死で心の中で叫ぶが、そんなものに意味はない。

「で? どこに連れて行ってくれるの?」

 その言葉にクロは自分の耳を疑った。誘ったのは絶対に美雨の方だ。これは間違いがない。だから美雨がどこかに行きたい場所があると思っていた。しかし世間一般で見たらリードするのは男の仕事。最近の女性がいくら肉食だと言っても、こういうところは男に任せる傾向にある。とても理不尽だ。

「……」

 クロは必死で頭を巡らせる。確かに誘ったのは美雨だが、最初から中学生に任せきりというのは大人としてどうなのだろうか。少しぐらいプランを考えておけば良かったと思うがもう遅い。

 黙りこくっているクロに美雨が静かに顔を寄せた。

「何も考えてないの?」

 図星です、とは言えない。しかしここは大人としてはっきりと潔く認めた方がいいのではないだろうか。いや待てしかし――。考えはまとまる事はない。

「じゃさ、ちょっと買い物付き合ってよ」

「……あぁおおう」

 それから二人は近くのショッピングモールに向かった。本当は時間があればここで映画などを見るのも良いだろうが、あいにくとそんな時間はない。適当にぶらぶらしていると不意に美雨が言う。

「人多いな~」

「そうか?」

 たしかに平日だがもう夕方だ。これくらいの人は普通だろうとクロは思った。

「いや~多いよ~。これははぐれて迷子になったら大変だね」

「小学生じゃあるまいし」

 何を言ってんだと反論する。

「いやいや迷子をなめたらダメだよ~。そうだ。迷子にならない為に手を繋ぎましょう。そうしましょう!」

 先ほどから喋り方がなにやらおかしいと思っていたらとんでもない事を考えていたらしい。

「……却下だ」

 と即断で返す。

「なんでよ?」

「妹と仲良く手を繋いで買い物する兄がいると思うか?」

「まぁ世の中にはいるんじゃない?」

 たしかにいそうな気もするが勘弁願う。

「ダメだ」

「なんでよ? 私が迷子になってもいいの?」

「迷子にならないように努力なさい。なったらなったで絶対探しだしてやる」

「……ふ~ん、そっか」

 なぜか少し満足そうな表情をした。断られたのにそんな表情をするとは思春期の子供の考える事はわからんなと内心思う。

「あっ、ちょっとこのお店入ってもいい?」

「ん? あぁ、いい……ぞ?」

 クロは固まった。その美雨が入りたいと言ったのはランジェリーショップだったのだ。

「あ、あの……美雨、さん?」

「なに? 早く来てよ」

 おいでおいでと手招きをするが、這入れるはずがない。中学生のくせにこんな店に這入るのかという思いと、これは自分はどうすればいいんだという思いが交差する。さすがに美雨が来いと言っても這入れるはずがないし、ここは外で待っているのが良いだろう。

「外で待ってる……」

「何言ってんの? 選らんでよ」

「意味がわからん! 猛烈にわからん!」

「クロはどんなのが好き? これ? それともこれ?」

 美雨は手に下着をとってクロに見せる。まわりの客はクロへと視線を向けている。一体どういった関係なのだろうか? 付き合っている? でも相手は中学生。もしかしてロリコン? 犯罪。兄妹? 兄妹で下着を選ぶ? 変態。兄妹で付き合っている? きゃー。おまわりさーん、こいつです!

 などと妄想は止まらない。

 そんな周りの妄想(クロの妄想)が一気に押し寄せた。もう顔を隠して泣くしかない。しくしく。

「ちょっと、冗談よ。軽いお茶目じゃん」

 クロはゆっくりと顔に当てた手をどける。そこには――鬼がいた。

「かーるーいー、おーちゃーめーだーとー?」

「ごめんごめん」

 はっはー、と笑いながら言う美雨。少しも悪びれた様子がなく、それが逆にクロの毒気をぬいていった。

「次やったらもう遊んでやらん……」

「おおげさだなぁ」

 こんなやり取りが楽しいと思えたのはすぐだった。紫織とはたしかに違う。認めたくはないが気が合っている、と思う。これを本人に言ったら調子にのるので言わないでおく。

 純粋に楽しかった。

 最近嫌な事がずっと起こっていたので乾いた心が潤った気分だった。

「なんたって私の名前は美しい雨、だからね。乾いた心を潤すのは得意よ」

 あぁ、なるほど。バレバレだった訳だ。そんなに暗い顔をしていたつもりはなかったが、たかが中学生の子供にそれを見透かされた。しかしそれが悪い気分ではなかったのが不思議だった。

「かなわんな……」

「じゃご褒美に」

 美雨は手を差し出す。何かをくれ、などと言っている訳ではないのはわかるが、クロは少し躊躇いながらもその手を握り返したのだった。





 もう秋が終わろうとしている。日が沈むのはどんどん早くなっていく。時間の感覚が少しずつズレていくのがクロは面白いと思う。その面白い、楽しい時間は終わる。

「時間だ」

「うん。じゃさ、悪いけど家まで送ってくれる?」

「あぁわかった。しっかり送り届けよう」

 美雨の家に行く途中にクロは何度も美雨の両親に挨拶をするべきか悩んだ。せめて一声かけて安心させた方がいいのではないかと思う。しかしそんな事をしたら仰々しいというか、認めてくれ、と言っているようなものだ。それはさすがに違う気もした。そんな事を常々考えていたら美雨の家に到着した。

「でっけー家だなぁ」

 豪邸と言って間違いはない。家の周りは壁で囲まれているし、庭も広そうだ。車庫だって車が五台は停められそうだった。

「そっちの車庫に入れて」

「はいはい」

 言われるがままに車を停めるが、ふと疑問に思った。なぜ車庫に丁寧に停める必要がある?

「さすがに路駐はダメでしょ」

 まぁたしかに。美雨は何も言わずに車を降りた。そしてグルっとまわって運転席のクロの元に。ドアを開ける。嫌な予感がする。

「……なにか?」

「いくわよ」

「やっぱりかあっ」

 今日は娘さんと遊ばせてもらいました。こんな時間まで連れまわしてすみません、と謝るしかない。

「ごはん、出来てるから食べていって」

「……はいぃぃ?」

 そこでクロはようやく気が付いた。いや、気が付きたくはなかったが気が付いた。これは最初から仕組まれていた。だから美雨は六時には帰るという事に妙に聞き分けが良かったのだ。

「お、おま……おま、まさか……」

「観念なさい」

 クロは脱力したまま美雨にひっぱられて朝日邸のしきりをまたいだ。

「ただいま」

「あらおかえり。ある程度の準備できてるわよ」

「はーい」

「……お、お邪魔します」

 もうどうにでもなれと若干投げやり感が否めない。

「あらクロくん、いらっしゃい。今日は娘がお世話になりました。そのお礼もかねてどうぞゆっくりしていってください」

「……お言葉に甘えまして」

 どうやら共犯のようだった。

 玄関も広ければ廊下も広い。グランドピアノが通りそうなぐらいの幅がありそうだった。壁には絵も飾られているし、どこからどう見てもお金持ち。これでは水月よりも自宅の方がゴージャスなのではないだろうか思った。

 リビングに通されてまた驚いた。広すぎる。軽くワルツでも踊れそうなくらいには広い。それにただの壁かと思ったらテレビだった。

「クロ、そこに座ってて」

 ソファだって素人でもわかるぐらいに良い革を使っているしふかふかだった。何から何まで自分とは住む世界が違って見えた。

 美雨はキッチンで何やらごそごそしている。きっと自分の為に料理を作っているのだろう。ここでふと。

「あ、あの……お、おとーさまは……?」

「もうすぐ帰ってくると思います」

 心の準備は出来そうだ。

「いつも帰りは遅いんですけど、今日は早く帰るって言ってましたので」

「ち、ちなみに、おとーさまは何のお仕事を……?」

 その質問に答えたのは美雨だった。キッチンの方から叫ぶ。

「けーさつかん!」

「…………けーさつ、かん?」

「結構えらい部類に入るんだよ」

「一応、警視監です」

「…………さようでございますかぁ」

 もうクロの頭の中は真っ白だった。ただ警告が鳴り響いている。

「あっ、用事忘れてた! 申し訳ないですが、おいとまさせていただきます」

 とクロが言ったのと同時に玄関から「ただいまー」という男の声が聞こえてきた。さらにそれと同時にガタッとクロは無意識で立ち上がった。

「おーおークロくんいらっしゃい。ゆっくりしていってくれたまえ」

 総一郎は屈託のない笑顔で言った。

「お、お邪魔しております! こ、この度はお招きありがとうございます!」

「はっはー、堅苦しい挨拶はぬきにしようではないか。今日は娘が世話になったね。お礼申し上げる」

 頭を下げる総一郎にクロはブンブンと首を横に振る。

「まぁ迷惑をかけたと思うし、これはお詫びという事で受け取ってほしい」

「何がお詫びよー」

 キッチンから美雨が反論するがクロの耳には届いていない。

「お、お詫びなど――。楽しかった、のは撲も同じですし……」

「ほぅ」

 と総一郎は顎を触る。

「まぁまぁそれじゃあ食べるとしよう。娘もどうやら張り切っているようだし、親としては嬉しい限りだ」

 そう言って総一郎はクロの背中をバンバンと叩いた。この朝日家は絆がたしかにある。そんな中に自分の様な者が入り込んでいいのだろうか。いいわけがない。自覚はしている。そしてそれを忘れてはならない。クロは心を冷やして自分を思い出した。

 その後、料理が机の上に所狭しと並べられた。

「おいおい、作りすぎじゃあないかい?」

 総一郎もここまで作るとは予想外だったらしい。

 炊き込みご飯にエビチリ、から揚げ、ハンバーグに野菜炒め、アサリのバター蒸しに手作り餃子、ひじきに魚の煮つけと味噌汁に肉じゃが、茶わん蒸しまである。

「これは……凄まじいな」

 机の上の料理に男二人は冷や汗を浮かべている。

「残したら――ぶっ殺す」

 そんなありがたいお言葉を頂戴したら全て平らげるしかないだろう。クロはまず餃子に箸をつけた。餃子が口に入るまでの間、美雨は興味なさげな雰囲気でクロの事をガン見している。そして――。

 口の中に広がる野菜と肉のうま味。そしてしっかりとニンニクの味もするし調味料もしっかり効いてる。

「……美味いな」

「そうでしょうとも」

 鼻高々といった感じで美雨は上機嫌だ。その他の料理もすべて美味かった。全て美雨が作ったとは言い難いが、それでも料理をしたのは美雨だ。最初はこんな量、絶対に食べれないと思っていたが、案外すんなりと胃の中に入っていった。

「お茶がいい? コーヒー?」

「あー、お茶ちょうだい」

「あいよ」

 食後のお茶もまた格別だった。ゆったりとした時間だ。まるで自分が朝日家の一員になったかのような錯覚。今日が初めてではなく、ずっと前からこの場所にいるように思えてくる。それほど居心地がいい。

「どうよ? 私の手料理は?」

 腕組みをして褒めろと言わんばかりの表情だ。なので素直にその思惑にのってやる。

「最高だったよ。店が出せるくらいに美味かった。ごちそうさま」

「それはそれはお粗末さまでした。私、良いお嫁さんになると思わない? 思わない?」

 含みのある言い方だ。そんな二人を見て朝日夫妻はニコニコしている。

「あぁ、そうだな。きっと良いお嫁さんになるだろな」

 それは本心でそう思った。中学生でここまで料理が出来るなら上出来もいいところだろう。これから将来が楽しみだと思う。だからこそ自分のような歳の離れたおっさんではなく、同年代と恋愛をしてほしいとも思う。それを言い出せばキリがなくなるので口にはしなかった。

「じゃ、食後にひとっ風呂浴びてきなよ」

「あぁそうだな。どっこいせーっと……おい待て」

 あまりにも自然の流れだったので思わず勢いにのってしまった。

「ちっ。あとちょっとだったのに」

 けっ、と美雨はとても悪い顔をして舌打ちをした。

「おいこら。なんだかとんでもない事を考えておるまいな?」

「はぁ? とんでもないことお? なんですかそれ~?」

 惚け方が異常に下手くそだった。ワザとやっているのではないかと思うぐらいに酷い。いや、きっとワザとやっているのだろう。このやり取りが楽しくて仕方ないのだ。

「貴様、まさか俺が入ってるときに逃げられない事をいいことに自分も入ってくるつもりではあるまいな?」

「はあーあ、何をおっしゃいますやらこの殿方は。私がそんなお下劣な事をする訳がないでしょうに。さすがに乙女ですのでそんな大胆な事はいたしません」

 ジェスチャーもわざとらしく大仰だ。はぁ、やだやだと芝居がかったやり取りをする。

「むぅ? そうか? 信じるぞ? 信じちゃうぞ?」

「どうぞどうぞご勝手に? ここは私の家なのだから何があっても私に責任はございやせん。ここに居ると決意したのは貴方様でしょうに。それをワタクシの所為にされても困りますわよオホホホ」

「ぬう、なんと卑怯な……」

 そんな二人にそろそろいいかと飽きてきた砂羽が入り込む。

「じゃクロくんこれ」

 バスタオルと着替えを渡された。用意周到だなとクロは親子の顔を見比べた。一体どこからどこまでが計画通りなのだろうか。考えただけで少し恐ろしくもなってくる。

「絶対覗くなよ!? とゆーか絶対来るなよ!」

「なにそれ? フリですかあ?」

「うっせー」

 砂羽に案内されてクロは風呂場へと向かう。

「ごめんなさいねぇ。あの子ワガママでしょ」

「いえ、実際あんなやり取りも楽しいと思えてますから大丈夫です」

「あの子が聞いたら喜びそうね」

「調子のるんで言わないでください……」

 砂羽はふふふと微笑んだ。

 家が家なら風呂場も風呂場だ。

「……なんだここは? 銭湯か?」

 一般家庭の風呂場ではない。クロの部屋よりも広い。

「何畳あんだよこれ……」

 軽く十畳近くあるだろう浴室。見渡せばなにやら木で囲まれた小さな部屋がる。

「こ、これはまさか――」

 そう、サウナがそこにはあった。銭湯でしか見た事がないサウナが一般家庭にあるなど衝撃的だ。しばらく呆然と立ち尽くした。これはどこから何をどうすればいいのやら。風呂に入るときって何からすればいいんだっけ? と初歩的な事から整理をする。自分の家だと適当に体を流してから湯につかる。しかしそれは一人の場合だ。他人の家の風呂を使うとなれば、それはもはや銭湯なみの使用方法を行使するしかない。まず体と髪を洗う。その後、最後に湯につかる。

「これでいこう!」

 椅子にこしかけてシャワーを捻る。熱いお湯が全身を潤す。ここでクロはふと脱衣所の方に視線をやった。

「まさか本当に乱入してくる気はないと思うが……」

 なんたって両親がいる。さすがに止めるだろう。手際よく髪と体を洗い終わって湯船につかる。

「あ~……」

 最高だなと天井を仰いだ。

 脱衣所の方で黒い影がごそごそしている事にクロは気が付かない――。

 今日の出来事を思い返してみる。まさか人様の家で食事をしたらその後に風呂に入るとは全然予想もしていなかった。人生何が起こるのかわかったものではない。予想外の展開ではあったものの、悪い方に転ばなくてよかったと思う。これまでの人生の中では考えられないほどだった。思い返してみれば、それなりに楽しい事もあったはずだ。でもそれらは風化してしまった。だったらいつか今日の思い出も忘れてしまうのではないだろうか。

「……それは勘弁してほしいな」

 忘れたく、ない。純粋にそう思う。そんな事を考えている時だった。勢いよく風呂場の扉が開かれた。

「なっ――なっ――」

 驚いて反射的にそちらを見る。その目に映るものは――。

 ぱおーん。

 美雨、の父である総一郎が素っ裸で仁王立ちをしていた。

「失礼するよ」

「…………」

 開いた口が塞がらないというのは今この瞬間の為にある言葉だろう。硬直して動けなかった。いや、たしかに一瞬、美雨が這入って来たのではないかと期待したのは事実だ。あの娘なら平気でそれをやりそうだったが、その予想を遥かに上回る出来事が起きた。なぜ総一郎が這入ってくる?

 総一郎はテキパキと髪と体を洗って湯船に這入ってきた。クロの真正面に。

「あ、あの……」

 湯船の大きさはかなり広い。にもかかわらずになぜ真正面に座るのだろうか。お互いに体育座りをして見つめ合う絵はとてもシュールだ。

「まぁ男同士、腹を割って話そうと思ってね」

 なるほど、これも最初から仕組まれていた事かと理解した。この親子は実に計画的で油断ならないと心にメモメモ。

「率直に聞こう、クロくん」

「は、はいっ」

 娘の事をどう思っているのかね? そんな言葉を期待したがそれは打ち砕かれる。

「君は庚だろう?」

「――ッ!」

 理解した。その一言で理解した。朝日家の三人があまりにも自然に接してくれていたので自分が庚だという事を完全に忘れていた。この表情、この眼差し。よく知っている。それに総一郎は警察官だ。そちらの事情にも詳しいだろう。

「もう知っているとは思うが、私は警察の人間だ。それなりに事情は把握している。というよりも調べさせてもらった。悪く思わないでくれ」

「……別に悪くだなんて思いませんよ」

 警察の人間が人を一人調べるのは容易い事だろう。いくつもの伝手があるにきまっている。一体……どこまで知られている?

「君は庚だ。しかしあの十干機関の庚組とは無関係のようだね。さぞかしその名前で苦労しただろう」

「まぁそれなりに……。でも、僕が言うのもなんですが、なんで無関係だと思うのですか?」

「それは庚組に跡取りがいないからだ。一人息子は十年も前に死んでいる。それは盛大な葬式で警察だって多く動いたからね。確実に死んでいる。兄弟がいたとは聞いていないし、まして養子をとったとも聞いていない。この情報はたしかだ」

「なぜ、確かだと?」

「警察のトップが庚と同じ十干機関の壬だからだ」

 十干機関同士は繋がっている。とくに仲が良いなどと、そういう事はないが情報は流れてくる。それに持ちつ持たれつの関係にある。庚が悪事を働いて証拠を隠滅しようとなったときなど、それを助けるのは壬の仕事になることが多い。正義と悪が繋がっている、というのはとても響きが悪いがそれは仕方がない事だ。バランスが保てなくなれば崩壊するしか道は残っていない。それは暗黙の了解だし、もちろんタダで動く訳ではない。陰と陽。警察が入り込めない情報を庚が提供して事件を解決する事もある。しかしお互いに意見を言わせれば、きっと損をしているのは自分たちの方だと主張するだろう。

「その確かな筋、というのが間違っている場合はありませんか?」

 そう言われて総一郎が少し感心と驚きの顔をした。

「ほっ。それは考えもしなかったな。今度暇なときにでも考えてみよう」

 そう言って笑った。

「じゃ、今度は僕が聞く番ですね」

 クロは総一郎のどうぞという言葉も待たずに続けた。

「たしかに僕は庚組とは関係はありません。でも周りの人間はそうは思わない。いや、思えないんでしょうね。関係がなくても同じ名前だから災いがあるに決まっていると思っている。そしてそれはその通りです。撲の周りにはいつだって――」

 クロはそこまで言って黙ってしまった。わかっていてもそれを口に出すというのは難しい。言ってしまえば認めた事になってしまう。いや、最初から認めてはいるが、それを再確認して思い返すと目の奥が熱くなってくる。

「……そんな撲と、大事な娘を会わせていいんですか? このまま一緒にいては美雨さんはきっと嫌な思いをすると断言できます。それは親として黙って見過ごす訳にはいかないでしょう。それに――」

「いや、しかしねクロくん」

 総一郎はクロの言葉を遮った。自然とクロの言葉は止まる。

「クロくんも知っていると思うが、美雨はワガママでね。そうそう信念を変えるような子じゃないよ」

「それは知っています。だからそれを変えさせないといけないと思います」

「まぁそうなんだろうが、君はそれを望んでいるのかい?」

「心から望んでいます」

「なぜ?」

「美雨の事が好きだからですよ。好きな人の幸せを願えないつまらない男になるのはごめんです」

「それは君のエゴだろう?」

「そうですね。その言葉、甘んじて受け入れます。ですが、これとそれとは話は別ですよ」

「まぁ確かに別だ。確かに別だか、そう簡単に割り切れる話でもないと思わないかい?」

「思いますよ。だから色々と困っているんですよ」

「同感だ」

 はぁ~、と男二人は風呂場で盛大な溜息をついた。

「まったく誰に似たのやら。親の顔が見てみたいと思わんかね?」

 そう言われてクロは無言で鏡を指さした。それを見て総一郎はまた笑う。

 なるほど、良い若者だ、と思う。

 なるほど、良い父親だ、と思う。

 理解している。物事を第三者の立場からしっかりと客観的に見れている。自分の感情に流されることなく冷静に判断できている。

「僕は、どうすればいいんでしょうね。どの選択肢を選べばいいのかまったくわかりません」

「迷うのが人の常だ。存分に迷いなさい若者よ」

「はぁ」

「まぁ、人生の先輩としてアドバイスを一つあげるのならば――」

「あげるのならば?」

 総一郎は人差し指をピンと立てて自慢気に言う。

「流されてみよ」

「……はぁ」

 なんとも納得できかねる答えだった。

「もっと簡単に物事を考えてもいいのかもしれない。頭のいい人間は無駄に考えてしまう。たまには流れに身をまかせて答えを出すのも悪くないと思うがね」

「そんなもんですかねぇ」

「世の中そんなもんだ」

 ふむ、と少し納得した。流れに逆らわずに身を任せてみる。行き着くところまで勝手に運んでくれるかもしれない。苦しいと思うのは流れに逆らっているからだ。だったら答えは簡単。流れに身をまかせるしかない。その流れが良い方向にいくか、悪い方向にいくかはわからないが、それもまた一興だと思うしかない。

 もし自分が流れに身をまかせたら、その流れを作っているのはきっと朝日美雨という一人の人間だろう。意図的に、流れを作っているはずだ。それは総一郎もわかっている。つまり――決定権を美雨に委ねるという事になる。

「……尻に敷かれろ、ってか」

 まぁ可愛いい尻だったら敷かれてもいいかもしれないなと思い、おもわず笑ってしまう。

「答えは、出たようだね」

「……責任はとれませんよ」

「とれないが、違う意味でとってもらわなくては困る。まぁ、とりあえずだ」

 ふぅ、と総一郎は天井を一度見上げた。

「答えが出たように、私たちもそろそろ風呂から出よう」





 風呂から上がってリビングにいくとテーブルの上にはビールが用意されていた。

「どうぞ」

 砂羽がにこやかに言ってくるのが心苦しい。

「あっ……撲、お酒呑めない人でして……」

「あら、めずらしい」

 特に気にもしない感じでそう言われた。この人はとても温厚なのだろう。きっと今まで怒った事はないんじゃないかと思えるほどだった。

「じゃ、私が呑むー」

 そう言って美雨がグラスに手を伸ばしたところで総一郎から手を叩かれた。当たり前だ。警察官の娘が飲酒など洒落にならない。

 というかそもそも――。

「あの、ここで酒を呑んだら車乗れないんで」

 クロは車で来ている。ここで酒を呑む訳にはいかない。警察官の自宅から飲酒運転などもっと洒落にならない。もしかしてこれは自分を試そうとしているのではないだろうかと余計な勘繰りをしてしまう。

「泊まっていってください」

「……はっ?」

「クロ~明日夜勤なんでしょ? 仕事。泊まっていけばいいじゃない」

 などと美雨は能天気なことを言うがさすがに何を言っているのかわからなかった。いきなり人様の家にあがって夕飯を食べて風呂まで入って、おまけに泊まっていく? どこぞのビップの客なんだよと思わずにはいられない。

「いやいやいや、さすがにおかしいだろ」

「おかしいという基準はどこを座標におくかでかわってくるもんだよ」

「くっ――」

 中学生の言葉とは思えない台詞だった。反論が難しい。総一郎に助けを求めて視線を送るが、すでに総一郎はビールに口をつけていた。そして目があるなりグラスをこちらに向ける。

 どうやら味方はいないようだった。

 総一郎からグラスを受け取ってその中身を一気に胃に流し込んだ。正直マズイ。こんなものがおいしいと思える日が来るのか疑わしい。それはまだ自分が子供の証みたいな感じがした。

「お泊り決定だね」

 美雨はクロの腕にしがみついた。

「じゃ、私の部屋にいこうか」

「意味がわかりません!」

「え? 一緒に寝ないの?」

「何さも当たり前みたいな感じで言ってんだよ! おかしいだろ!」

「えー、でも客間とかないよ?」

「……え?」

 こんなに広い家なのだから一つぐらいはあってもいい気がするが、クロはすでに酔いがまわってきているのでその事に気が付かない。

「ふとんもないし。これは神様のお導き。一緒に寝るしかない!」

「断固拒否する!」

「だーいじょうぶだって。何もしないから……たぶん」

「何だ最後の言葉は!」

 普通はその台詞は逆だろうと声を大にして叫びたかった。しかしながらもう酒を呑んでしまったし、帰ることは叶わない。これは最初にどこで寝るかを確認しておけば良かったと今頃になって思うが、もはや後の祭り状態。クロが頭を悩ませていると常識人から助け舟が出る。

「もう、いじわる言うもんじゃありません。クロくん、ちゃんと客間用意してますから、そちらでお休みになってください」

「神様……」

 砂羽の後ろに後光が差して見えた。

「ちっ、余計なことを」

 美雨の後ろに悪魔が見えた気がした。というか美雨自体が悪魔に見えた。

「ほら、さすがに酔ってるし理性崩壊しちゃまずいでしょ? 美雨の色気で理性なんてふっとんじゃうよ」

「なるほど」

「…………」

 何を言っているんだこの親子は。もう前言撤回。子が子なら親も親だ。どうやら砂羽も常識人とは言いがたいらしい。

「まぁ寝るまで部屋でお話ししよ」

 まぁ、そのくらいなら別にいいかとクロは美雨に手をひかれて立ち上がる。

「あっ、今日はお招きいただきありがとうございました。料理も風呂も最高でした」

 ぺこりと頭をさげる。それに対して朝日夫婦はにこやかな笑顔をむけてきた。本当に絵にかいたようなアットホームな家だなと思う。こんな家族は物語の中でしか知らない。それが現実に、実在しているとわかると何やら嬉しい気もした。まだまだ世の中捨てたもんじゃない。この自分の手をひいて先を歩いている娘もそうだ。中学生とはとても思えないほどしっかりとしている。たぶん、そう思うのは今の自分が酒に酔っているからだろうという事は理解できている。まぁたまにはいいか。

 それから先はほとんど覚えていない。部屋に這入ってしばらくおしゃべりをしていた気もする。いつのまにか意識は途切れて夢の中へ。結局美雨の部屋で朝を迎える事になる。今まで苦労してきた記憶はたしかにあるし、思い出すだけでつらい日々だったが、それを思い出しても今日の楽しさの方が勝っている。今日の出来事を糧にして明日からも、これからも庚という名前から抗いながらでも楽しい日々を送れそうな気がしたのだった。



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