第二幕


 クロが華恋で働きだして三か月が経った。

 あれから新しいボーイが直ぐに見つかり、クロはまた皿洗いの仕事に戻ったが、それでも時々ホールへと出た。最初はあんなに嫌だったが、慣れればなんのその。今では抵抗はまったくない。こんな場所に知り合いが来る事もないし、顔がバレる事もなかった。

 そしていまだにクロの名前はバレていない。このまま平穏な日が一日でも長く続けばいいと刹那に願う。この仕事はしていて本当に自分にあっていると思った。給料は決していいとは言えないし、休みだって多くはない。保険なんてものはないし、きっと探せば他にいい仕事が見つかるかもしれない。でもそれ以上に人間関係を優先させる。仕事がどんなに楽で給料がよくても、人間関係が最悪ならそれは最悪でしかない。だからこの場所は満足のいく仕事場だと思う。

「クロくんさー、なんでうちで働こうと思ったの?」

 皿洗いをする横で氷室が唐突に聞いてきた。

 いや、そもそもそれをなぜ今聞くのかがわからない。そういったものはせめて面接のときに聞くべきものではないのだろうか。

「あんまり人と関わりがない仕事がしたくて」

「それは答えになってないよ。うちを選んだ理由を聞いてるんだよ」

「……求人に載っていたからです」

「他にも載ってたと思うけど? その中で一番給料が良かった?」

「どうでしょう。もうあんまり覚えていないというのが正直なところですけど、きっと、ママの言う通り他にも求人はあったと思いますよ。ただ、なんていうか、目についた、というあんまり理由がない選択だったのかもしれません。それに働けると思ってもみなかったので」

「ふむ」

 氷室は腕を組み何かを考えているようだ。クロは何か自分がミスをしたのだろうかと気が気ではない。

「お金ほしい?」

「そりゃほしいですね」

「素直で宜しい。クロくん、特命を言い渡す」

「……はっ?」

「一番奥のテーブルにこれ持って行って」

「……はぁ」

 何を考えているのかさっぱりわからなかった。何か意図があるのだろうが、それを教えてくれる気はなさそうだ。とりあえず言われるがままに酒を言われたテーブルに持って行く。

「お待たせ致しました」

 そこに行くと一人の初老と思われる男性客が一人座っていた。そしてその隣に座り直す氷室。

「……?」

 なぜ氷室がそこにいて酒を自分に持たせたのだろうか。自分がこの場所に戻ってくるなら別にクロに酒を渡す必要はないように思える。

「あの……」

 二人は無言でクロの事を見つめている。何が何やらわからない。このまま離れていいのだろうかと思っていると氷室が静かに口を開いた。

「どう? 中々でしょ?」

 その質問に男が答える。

「あぁ、たしかに悪くないな」

「……?」

 なんの会話をしているのかさっぱりだ。

「しかし本当にいいのかね?」

「まぁ本人次第だけど構わないかな。そっちの方が良いのは確実だし、彼の事を想えば貴方に預けた方が幸せになれる。こんなところに居ていい人間じゃないわよ」

「さもありなん」

 なんの話なのか説明をしてくれと叫びたい衝動にかられたが、それを察してか氷室が説明を始めた。

「こちら水月の社長さんの宗像さん」

「こんばんは」

「こ、んばんわ」

 水月というのは県下で一番大きなホテルの名前だ。その規模はとても大きく、野菜の栽培から自家発電までなんでも揃っている化け物じみた大きな会社で、その創業は百年を超える。

「叶クロくん、と言ったかね」

「あ、はい」

「ウチで働いてみないかね?」

「は?」

「ウチのホテルで働かないかね?」

「働きません」

 クロは即答した。

「……理由を聞いても?」

 宗像は怒る事もせずに聞く。

「今、働いているからです」

「まぁそりゃそうだ」

「それに他に良い条件があったからと言ってお世話になっているとこを辞めてまで行く気になれません」

「それは違うよクロくん」

「え?」

「よくさ、会社側がお世話になってるのに恩知らずが、とか言うけどさ、それは間違いだよ。お世話になってるのはお互い様。会社側は働いてもらってるんだし、その関係は持ちつ持たれつの半々ってとこだよ。もし従業員が他の雇用条件がその会社よりもいいとこに行って辞める事になっても、その会社は今まで手伝ってくれてありがとう、と言うべきだーね。むしろ、やったじゃん! おめでとう! ぐらいは言って笑顔で送り出すぐらいはしなきゃダメだよ」

「しかし――」

「まぁ今言ったことは全部この宗像さんが言ってた言葉なんだけどね」

 そう言って氷室は宗像を見る。

「その通りだ。全部言われてしまったな。せっかくの見せ場だったのに……」

 氷室は笑いながら「ごめんねー」と言った。

 しかしそんな事を言われてもすぐには受け入れられなかった。もっとあとで冷静に考えればその氷室が言う事が理解出来ても、現状では難しい。

「でも、やっぱり、ここを辞める理由がありません」

「理由ならあるわよ」

 そう口を挟んだのは氷室だった。

「理由なんてものはいくらでもある。とゆーか別になくてもいいと思うんだけどね。理由は、明らかに雇用の条件が良い事。それ以外の理由なんてない」

「……あの、ママ。撲なにかしでかしましたか?」

「いーや? よくやってくれてるよ」

「だったら――」

「だからだよ」

「……」

「クロくんはもっとしっかり良いところで働いた方が良いと思うわけよ。まぁ差し出がましいとは思うけど、ちょうど宗像さんが人を探してたみたいだし、そこで私の眼に適う人材がいるかと聞かれてクロくんを推薦したのよ」

「ママの人を見る目はたしかだからね。情報屋と言ってもいいぐらいの情報を彼女は持っている。そこで私はママに誰か良い人材がいないか依頼をした訳だ」

「それに撲がお目通りが適ったと?」

「その通り」

「……」

 正直に言って、願ってもないチャンスだろう。水月と言えば有名すぎるぐらいに有名だ。そこで働けるならば将来安定が約束されたようなもので、公務員よりも水月の方が良いという噂さえあるぐらいだし、それは間違いではないだろう。だから普通に考えれば迷う必要など何もない。しかしクロには迷う必要があった。悩まなければいけない理由があった。

「……少し、考えさせてください」

 二人は顔を見合わせる。二つ返事で承諾すると思っていたのだろう。

 このまま話していてもラチが明かないのはわかっている。ここでどう良い話をされても絶対に承諾は出来ない。

「まぁいいだろう。好きなだけ考えるといい。これは君の人生がかかっているのだからね」

「迷う必要なんてないと思うけどなー」

「彼には彼の考えや事情があるのだよ」

 まさしくその通りだとクロは口に出して言いたいがそうもいかない。

 しかしこれは困った事になった。自分の事を認めてくれたのは素直に嬉しい。だから思ってしまう。自分の苗字が庚ではなかったらどんなに素晴らしいものかと。またそれを思ったら気が滅入る。

 それからクロは皿洗いをしている時もずっとその事を考えていたが、答えは一向に見つかりそうもない。どう考えても庚が邪魔をしている。

 嘘などつくべきではなかった。しかし嘘をつかなければここで働く事は出来ていなかったかもしれない。

「……どうしたもんかな」

 選択肢は二つ。

 一つは自分の名前が庚だと正直に言う。これはどう転ぶかはわからない。関係がないのなら構わないと言ってくれるかもしれないが、そうではなかった場合、全部を失うかもしれないのだ。水月の話はもちろん、この華恋でさえ働けなくなってしまうかもしれない。それだけは勘弁願いたいがそうもいかないだろう。きっと全員があの目をしてくる。あの目で見つめてくる。それが何よりも人を嫌いにさせる。

 もう一つは水月を断ってこのまま華恋で働く。きっとその選択肢が一番いいだろうが、それでは氷室の顔に泥を塗ってしまう。こちらを立てればあちらが立たず。あの氷室が自分の為を想って紹介してくれたのだ。その期待には応えたい。でも――。

「……キリがないな」

 気が付けばクロは帰り道で携帯電話を耳にあてていた。コール音が続く。時間は深夜を回っているので当然多くの人が夢の中だろう。それでもクロは電話をきる事はしなかった。そして願いが通じ相手が電話に出る。

『はあい?』

「俺だ。クロだ」

『いまなんじい?』

「深夜三時だな」

『……ばかなの?』

 当然の言い分だ。

「すまん。でも紫織にどうしても相談したい事があるんだ」

『あしたじゃだめなのー?』

 それも当然の言い分だ。紫織は結婚していて子供もいる身で、主婦の朝は早い。こんな時間に起きて寝れなくなってしまったらとてもきついものがある。

「すまん、どうしても今聞いてほしい」

 それでもクロは引き下がらない。今でなくてはダメなのだ。

『なあによ?』

 クロは今日あった出来事を全部包み隠さずに正直に話した。自分がどう思っているのかも、どういう選択をするのかも。それを聞いた紫織は真面目に答える。

『明日にして』

「……」

 ただ一言そう告げた。決して自分が眠たいだとか今寝ないと明日がきつくなるとかそういった意味で言ったのではない。

『この寝起きの頭じゃ答えを出せない。こんな状況で答えを出すレベルの質問じゃない。だから明日、明日連絡するから待って』

「……わかった」

 そう言われたら引き下がるしかない。ここで通話は終わった。

 真剣に考えてくれている。たしかに眠気眼で適当なアドバイスを受けてもどうかと思うし、紫織の言う通りだ。はやる気持ちを堪えきれずに頼ってしまった自分が情けない。明日、連絡が来るまでにもう一度考えてみよう。空を見上げて気持ちを落ち着かせる。

綺麗な星空は、見えなかった。





 翌日の朝、電話の鳴る音か雨音かどちらかで目が覚めたのか分からなかった。それでもクロの手は無意識に携帯に向かっていく。

「……は、い」

『おっはよークロちゃん、最高のプール日和だね』

「……あぁ、そうだな」

 時刻はまだ朝の八時だ。旦那を仕事に送り出して一息ついているのだろう。

『それで昨日言ってた事だけどさ、私がアドバイス出来る事は何もないと思うよ』

「え?」

『だってさ、もう自分でどうするか決めてんでしょ?』

「あぁ、まぁそうだけど」

『人ってね、誰かに意見された事よりも自分で導き出した答えを優先するもんなんだよ』

「いや、それは――」

『そうなの。たぶんクロちゃんは今、私の答えが自分の答えと一緒だと良いと思ってるはず。そうすれば何も否定されないからね。それはつまり否定されたくない、その自分で導き出した答えを優先させたいと思ってる。つまりこれは私の意見を聞きたいんじゃなくてさ、背中を押してほしいんだよ』

「背中を……」

『そっ。大丈夫、きっと大丈夫だから、ってね』

 そう言われてクロはその通りだと理解した。たしかに紫織の答えと自分の答えが一緒だと良いと思っていた。それはつまり紫織の言う通りなのだろう。仮に答えが違っていたらどうする? きっと自分は反論して説得をする。自分の導き出した答えに誘導するだろう。そんなもの意味がない。何が相談だ。笑わせる。同意を求めたいだけではないか。否定されたら反論して相手を取り込もうとする。そんな事を無意識で考えていたと思うと吐き気がする。

『別にそれはクロちゃん特有の思考パターンとかじゃないから。みんながみんなそんなもんなんだよ。だから大丈夫。自分が正しいと、したい事をすればいいんだよ』

「したい事……」

『そっ。クロちゃんはどーしたい?』

「俺は――……」

 その日の仕事に行くときにクロは覚悟を決めた。

 自然と溜息が出る。空を見上げて思い切り空気をいっぱいに吸い込んだ。生暖かい六月の空気だ。そして肺がぱんぱんになったところで息を止める。当然苦しいが、それがいい。もう限界だと思った瞬間に肺の空気を一気に口から吐き出した。

「ぐはぁぁぁふぅぅぅぅぅぅうううう……」

 このまま自分の嫌いな部分も吐き出してしまえたらどんなに良いだろうか。脳裏に浮かぶのは今まで見て来たあの顔。腫れ物を見るようなあの顔。いや、腫れ物の方がまだマシかもしれない。それぐらい嫌な顔だ。

 つまりクロは正直すべてを話そうとしている。名前を偽っていた事、本当は自分の名前が庚であるという事。どう転ぶかは想像できている。でも何度も何度も頭の中でシュミレーションを繰り返す。いつくものパターンを想定して、それに適切な言葉をあらかじめ用意しておく。言われる事はだいたい想定できるが、それでも、と思ってしまう。気の良い人たちだからもしかしたら――。

 しかしそんな事はあり得ないだろう。紫織にも散々言われている。変な夢を見るな。自分の立場を思い出せ。きつい言葉だがそれを忘れてはいけない。

「何度経験しても慣れねぇよな……」

 この気持ちにどう整理をつければいいのだろうか。

 こういう時にクロは決まってある一文を思い出す。その言葉を自分に言い聞かせて心をいつも落ち着かせる。

「……唱えよ。心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを超えたものなり。悟りはその時かなうだろう。すべてはこの真言に成就する――」

 この文は般若心経の一文を訳したものだ。クロはこれを読んだとき、心が少し軽くなったのを覚えている。さすがにすべては覚えられないが、この一文だけは覚える事が出来た。般若心経すべてを訳した文はとても心に響くものがあった。それはまるで自分の為だけにつくられた文の様に感じだし、何度読み返したかわかったものではない。

 きっと今置かれている状況は自分だけの状況ではないはずだ。この世界のどこかにも同じような境遇の人がいるかもしれない。たとえ仮にもし自分だけだとしても、それはそれで構わない。選択するのは自分で、この先の道を歩くのも自分だ。他の誰でもない。人は誰でも一つや二つの悩みや苦しみがあって当然だ。それが大なり小なり思うのは人それぞれだし、それが当然の事。人によって感覚は違うしそれが当たり前。

「よし、いくか」

 そんな事を考えながらクロは店のドアを開けたのだった。





 なにから話すべきか。あれほど考えた台詞は一瞬で忘れてしまった。どんなに頭で考えていても実際はまったく役に立たないなとクロは心の中でごちる。

「あの、ママ」

「ん?」

 次の言葉を言い出せないでいるクロを見て氷室は何かを察したのか「あぁ」と言った。

「こっちおいで」

 そう続けて部屋の中に歩き出す。それを少し離れてみていた美神がやって来て言う。

「え? なになにどーしたんですか?」

「なんでもないよ」

「え? クロくん辞めちゃうんですか?」

 今の雰囲気だけでそれを読み取ったらしい。さすが接客業のプロだ。そしてなぜか美神も部屋に這入ってくる。しかし氷室もクロも何も言わなかった。言ったところで引き下がるとは到底思えなかったからだ。こうなったらヤケだとクロは覚悟を決めた。

「あの話ですけど」

「うん」

 美神は口を出さずに二人を交互に見ている。

「その前に謝らないといけない事があって……」

「謝ること?」

 きた。さぁ、ここからが本番だ。クロの緊張はピークに達している。自分の心臓がまるで顔にあるようにドクンドクンと脈うっているのがわかった。

「実は撲、叶じゃないんです」

「かのう? あぁ苗字の事ね。……叶じゃない? とは」

「……苗字だけ、その……偽名、なんです」

「……」

 それを聞いた氷室は少し黙り込んだ。その沈黙がとても長く感じられる。おそらく氷室はこの次の展開を考えているのだろう。

「すみません」

 謝るしかできない。そして氷室が静かに口を開く。

「そんな事か。うん、まぁそれは女の子がよく使うけど、男の子が使っちゃダメだって事はないよ。だから別に良くはないけど悪くもない。だから水月で働けないなんて事はないから安心していいよ」

 想定通りの返答だ。

 ここからだ。ここからが本当の勝負だ。

「で? 本名はなんてゆーの?」

「……本名は」

 クロは、自分の罪を口にする。

「庚、と言います」

「……え?」

 時が止まった。止まった様に感じたのではなく、確実に止まっている。二人は瞬き一つもしない。この止まった時間を動かす事の出来るのは他でもないクロしかいない。

「……十干機関の……庚と一緒の苗字ですけど、関係はないんです。ただ同じ苗字というだけで――」

 信じてもらえるはずがない。仮に本当にクロの言う事が真実でもそれは二人にとってどうでもいい事なのかもしれない。

「本当に関係はないんです。僕が名前を伏せていたのは、きっと、こうなる事がわかっていて、これまでも、何度もあって。それで……」

 言葉に詰まる。次の言葉が何も見つからなかった。故に沈黙が支配する。そしてその沈黙こそが答えになっているのかもしれない。氷室と美神も言葉を失っているのだ。そんなの関係ない。たったその一言だけが聞きたかったが、それは叶わぬ願いだった。おそらく外している視線を二人に向ければあの顔が見えてくるだろう。これまで何度も見て来たあの顔。人間の、本質の様なあの嫌な顔。この沈黙がいつまで続くのかわからないし、もう耐えられそうにもない。

 心の奥底で二つの想いが交差する。大丈夫だ、きっと大丈夫だ。視線を合わせればきっと優しい言葉が返ってくるはずだ。

 諦めろ。所詮この程度の関係だ。紫織の言葉が今頃になって蘇ってくる。期待を、夢を見るのはやめなさい。あぁそうだな。でもそれはそんなにいけない事なのか。それは誰にでも持っている権利みたいなものじゃないのか。なぜ俺だけ見てはいけないんだ――。

 クロはゆっくりと美神を見た。その瞬間に美神の身体がビクリとすくんだのがわかった。きっと頭では表情を、心を表に出さないように気をつけていたのだろうが、身体は正直だった。言い様のない恐怖が全身を貫いたのだろう。

「…………」

 クロは何も言わずにすぐに視線を外した。

 やっぱりか。やっぱりなのか――。

 重たい。こんなに狭い部屋の中なのになんと空気の重たいことか。もう相手が、ただの動く息をする石像に見えてくる。きっとそれはクロの意識が無理矢理そういった感覚をみせているのだろう。一種の防衛本能に近い。

 このまま何も言わずに、何も見ずに部屋を、店を出て行こう。

それが良い。

それが一番良い。

逃げよう。

もう逃げよう。

 クロが動きかけた瞬間、それはクロにとって暖かいオレンジ色の夕焼けのような声に聞こえただろう。

「……うん、驚いた」

 声のする方を見れば氷室が無表情でそう言った。

「驚いた。驚いた。これは素直に驚いた。ここ数年で一番驚いたかもしんない」

 そんな事を淡々と言う氷室の表情からは何も読み取れない。

「うん、とりあえず美神ちゃん」

 氷室に呼ばれてまた身体をすくませた。

「君はとりあえずここから出て行きなさい。顔色がよくないから今日はもう帰ってもいい」

 たしかに美神の顔色は顔面蒼白に近かった。まだ蒼白にこれからなるだろう段階だ。それに気を使って美神をこの場から脱出させる。しかし一歩が動かない。

 足が、踏み出せない。

 これが恐怖だと理解すら出来ないだろう。それを察して氷室が優しく美神を連れだした。クロはてっきりそのまま氷室もいなくなるのではないかと思ったが、氷室はしっかりと帰ってきた。

「……大丈夫だよ。他言無用って言っておいたから」

 そんな心配はしていない。きっとこれは少しでも場を和ませようとする、氷室の冗談なのかもしれない。

「それに彼女は庚組の被害者なんだよ。過去にちょっと付きまとわれてね……。それ以来その名前はタブーだ」

 たしかに以前美神はそのような事を言っていた。冗談だと思っていたが事実だったらしい。

「よく、諦めましたね。庚組が」

「うん? うん、まぁ色々とあってね。壬、はわかるよね? 警察を牛耳っている警察のトップだ。壬が間に偶然入ってくれて和解した」

「そうですか」

 特にそれ以上聞く事はしなかった。美神の問題よりも今はこちらの問題だ。

「とりあえず座っていいかな? 私も実は足が震えているんだよ」

「……どうぞ」

 氷室は椅子に腰かけてタバコに火をつけた。いつもならクロがライターで火をつけてやるが、今回はやめておいた。

 再び沈黙。

 しかし今回の沈黙は前回の沈黙とは違う。会話をする為の準備の様なものだ。

「……本当?」

「本当ですよ」

 どっちの意味の本当なのかわからなかったが、クロは即答した。本当に庚という苗字なのか。本当に十干機関の庚と関係がないのか。おそらく氷室の問いは両方だったのだろう。聞き間違いであってほしいと思っているのだろうか。

「……う~ん、驚いた。そして正直な感想を言ってもいい?」

「……どうぞ」

「正直言って、怖いよ」

 怖い。

「たぶん、いや、きっとクロくんの言っている事は本当なんだと思う。それでも怖いよ。関係がないと言ってもそれでも怖い。きっと知らなかった頃みたいな、今まで通りに接するのは難しいぐらいに怖いよ」

 氷室は今現在思っている事を包み隠さずに告げた。これが当然の反応だろう。無関係とわかっていても、心の奥底では違うのかもしれない。それほど庚という名前は最悪だった。

「……ま、でしょうね。でも、今までそんな事を言われた事はなかったので、やっぱりママは只者じゃないですね。心配しないでください。仕事は辞めますので安心してください」

「……」

 きっと氷室は今、良心の狭間で揺れ動いている。人としてこのままでいいのかという気持ちと、恐怖にかられて早くクロにどこかに行ってほしいという気持ち。またそう考えてしまう自分が汚く思ってしまっている事だろう。

「別にそれは当然の気持ちだと思います。僕の為にそんな事は考えなくていいと思います。まぁその、ですので水月の社長さんにも伝えといてください。じゃ……お世話になりました」

 きっと水月で働かないかと言われなければこんな事にはならなかっただろう。もっとこの場所でみんな仲良く働けただろう。でも誘われた時は素直に嬉しかった。こんな自分でも必要とされていると思ったら嬉しかった。自分がこんな名前じゃなかったら良い人生がおくれたと分かって嬉しかった。それだけで心が救われる。

 クロは店を出る。氷室には引き留められなかった。もちろん美神にも。ドアを後ろにクロはあの言葉で自分を落ち着かせる。

「唱えよ。心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを超えたものなり。悟りはその時かなうだろう。すべてはこの真言に成就する――」

 ああ、うん、もう、大丈夫。





 ぼんやりと天井を見つめる。いつも見ている天井だ。何一つ変わらない天井。いったいあと何回この天井を見つめるのだろうか。自分の選択した道に後悔はない、と言えば嘘になる。おおいに大嘘だ。とてつもなく後悔していると言っていいだろう。しかしこれで良かったのだと思っている。

「はぁ……」

 なのに溜息しか出ない。このやるせない気持ちはどう整理すればいいのだろう。きっと整理なんてできないだろうなとクロはぼやく。まるで失恋した乙女の様に身体を丸めてボーっとする。

「これから、どーすっかなぁ」

 どうするかとは新しい仕事の事だ。もうあの店には戻れない。そしてその近辺で、同じようなラウンジで働く事はもう出来ないだろう。きっと噂が広まっているはずだ。

「はぁーあっ」

 溜息しかでない。何もする気が起きない。もうこのままずっと何もしない時間が続くのではないかと錯覚するぐらいに時間がゆらゆらと進んでいる。いや、止まっているのかもしれないと思ってクロは時計を見るが、当然秒針は動いていた。考えるのをやめたい。だた何も考えずにぼーっとしていたいと、ゆっくりと眼を閉じた時だった。

 静かな部屋にけたたましく携帯の音が鳴り響く。

 携帯を手に取って着信相手を確認すると紫織だった。

「……はい?」

 抑揚のない声で電話に出る。

『その声のトーンから察するに、いつも通りの予想通りになったって事かな?』

「……御名答」

『で? どう? 自分で選んだ道に進んだ結果は』

「最悪なんてもんじゃないくらい最悪の結果で禿げあがりそう」

『ははっ。冗談を言えるだけ随分と成長したじゃん。前だったらそんな事いえなかったのにねぇ』

「……まぁ、な」

『で? これからどーすんの?』

 これからというのは仕事のことだ。当然あの店で働く事は出来ないし、もちろん水月の話もないだろう。

「どーするもこーも……最初からまた仕事見つけるよ」

 全て振り出しに戻った。最初からになってしまった。今まで築き上げたものは一瞬で音も立てずに静かに崩れ去って行った。最初からそんなものは存在しなかったかのように、まるで夢だったのではないかと思うほどに。

 なぜ自分はあの時、逃げなかったのだろうか。いつもみたいに逃げ出せば良かったのだ。抗って抗って生きている癖に、ときおり抗う事をやめて向き合ってしまっている。そういう時こそ、本当は逃げる選択肢が正解だったのではないかと今になって思ってしまうが、おそらく名前から逃げている以上、他の事では逃げたくないと無意識で思っているのかもしれない。

 なんとも都合の良い考えだと呆れる。

『ま、何かあったら力貸すから』

「あぁ、よろしく頼む」

 通話はここで終わった。

 とんでもない選択をしたもんだと今頃になって後悔の波が押し寄せてきた。でもこれは予想できていた後悔だ。それも全部受け止めると決めてこの選択をしたのだから文句など言えるはずもない。

 さぁ今度こそ何も考えずに済む夢の中へと眼を閉じると再び携帯が鳴った。また紫織かと一瞬思ったが知らない番号からだった。

「……誰だ?」

 出るのをどうするか躊躇う。もう既に十秒ほどは経っているが電話は切れる様子がない。クロは出てみる事にした。

「はい?」

『もしもし? 私だ』

「……?」

 私だと言われても誰かピンとこなかった。初老の男性の声だった。

『これは庚クロ君の携帯で間違いはないかね?』

 庚、と、たしかに今いった。

「……はぁ、間違いないですけど」

 誰だ? 自分の名前を庚だと知って電話をかけてくるような物好きは紫織しかいないはずなのに――。

『私だ。宗像だ』

「むなかた?」

 そんな知り合いはいない。しかしどこかで聞いた事のある名前だ。どこで聞いたのだったか。

『水月の宗像だ』

「すいげつ? あっ――」

 そこでようやく理解した。あのとき店にやって来てウチで働かないかと言ってきた水月の社長だ。

『ママから全部聞いた』

「……そうですか」

 律儀に電話をよこすなど何の用なのだろうか。

『それでクロ君、いつからウチで働く? 店はもう辞めて今は無職なのだろ?』

「はい?」

 何やら聞き間違いをしたようだ。

『いつからウチで働くのかと聞いたんだ』

「あの? わかってるんですか? 撲の苗字は――」

『庚、だろう? そんなものはわかっている。わかっている上で聞いているんだ』

「む、無理ですよ。撲なんかが水月で働いたら水月の看板が汚れますよ」

『心配はない。君が気にする事じゃない』

「気にするとこでしょう。もしこれで水月が潰れたりでもしたら俺はどうやって責任をとればいいんですかっ!」

『……君を受け入れた私の責任だ。君の責任ではない』

「しかし――、ネーム。ネームはどうするんです? 庚という名前のネームをぶら下げて働いたら確実に全員が分かってしまいますよ!?」

『そこも心配はない。ネームはあるにはあるが、ローマ字表記だ。誰もあの庚だとは思わん』

「でも――」

『君の心配はごもっともだが、私はあのママの眼に狂いはないと信じている。あれほど優秀な眼を持った人間はそうそういない。そのママが数ある知っている顔の中で君を選らんだんだ。きっとママは君が庚だと知り、今は混乱をしているだろうがそれもその内落ち着く。前みたいに話せるようになるだろう』

「なぜ、そんな事が言えるんですか?」

『……あれが私の娘だからだ』

「はっ……?」

『実の娘だ。だから信じている。さすがに考える事が手に取るようにわかるという訳ではないが、それぐらいは分かっているつもりだ』

 父親として、と宗像は最後にそう続けた。

 この二人が親子? 頭の中は何を考えればいいのか分からずにパニック状態だ。

『君は私の娘が見る目がないくだらない人間だと思うか?』

「いえ……」

『これまで君は幾度となく我慢をしてきただろう。それはこれからも続く。だが、世の中そんなに厳しいもんじゃない。まぁ、甘くもないが。苦しみなんてものは人それぞれで他人に理解できるもんじゃない。私はね、こう思うのだよクロ君。人生を楽しく生きる必要はない。それよりも重要なのは人生からどれほど苦や悲しみを取り除いて生きていけるかが人生を楽しむコツだと思うのだよ』

「苦や悲しみを――」

『そうだ。少し哲学的な感じもするが、私はそう思う。苦や悲しみがなくなれば己ずと楽は見えてくる。だから無理をして楽を探す必要はない。ゆっくり生きていれば向こうからひょっこり現れるもんさ。心に少し余裕を持ちなさい』

 その言葉が心に突き刺さった気がした。あの般若心経の言葉にどこか少し似ている気がしたのだ。そんな言葉を自分で吐く人間。あの般若心経の意味を知っているのか分からないが、それを口に出せる人間はそういないと思う。尊敬に値する。

「……いいんでしょうか」

『いいんだ』

「撲なんかが、お世話になっても」

『いいんだ』

「……本当に」

『あぁ』

 狭間で揺れ動くのが自分でも良く分かる。宗像が言う通りに楽ばかりな事じゃないだろう。それなりにキツイ事も待ち構えているはずだ。それでも――。

「……明日から、働けます!」

『あぁ、宜しく頼むよ』

 相手は目の前にはいないはずなのに、ガッチリと握手を交わした気がした。





 翌日から仕事が始まった、と言っても初日は制服合わせや会社説明などだった。心配していた名前は宗像の計らいによってクリアした。何人かにはバレたが宗像が説き伏せたのだ。あとはローマ字表示のネームを使うので周りにはそうそうバレないだろう。昨今では同僚であってもフルネームを知らないというのはザラにある話だし、ましてや漢字をどう書くのかなどわかったもんじゃない。

 昼ごろには説明も終わって初出勤は三日後からと決まった。それまでゆっくりとするといいと宗像に言われたが、その言葉の意味をクロはしっかりと理解した。

「きっと、こういう事なんだろうな」

 クロは華花のドアの前に立っていた。店が開くにはまだ時間は早すぎる。普通なら鍵がかかっているだろう。しかしクロはドアに手をかけて手前に引くと、予想通りドアは開かれた。予想が当たって嬉しい様なそうでもない様な複雑な気持ちだった。

 何も言わずに中へ這入っていく。見慣れた店内のはずなのに、数年ぶりに訪れたかの様な錯覚に囚われる。

 カウンターに一人、座っていた。

「やぁ、少年」

「……どうも」

 店に出る感じとはまるで雰囲気が違う。普段着に化粧も薄い。必要最低限という感じで氷室はそこに座っていた。

 氷室は自分の隣りの椅子を無言でポンポンと叩く。ここに座れ、という事なのだろうと理解したクロは無言でそれに従った。しばしの沈黙。約一分ほど経った時、氷室が口をひらいた。

「万事、うまくいったようだね」

「……おかげさまで」

 皮肉ではない。

「まぁ結果的に嫌な思いをさせた事には謝るよ」

「それ以上の事をしてもらいました。謝る必要はどこにもありませんし、こちらが礼を言う立場ですよ。ありがとうございました」

「うん、君は本当に人間が出来ているね。出来上がっていると言ってもいい」

「たぶん、それは……人間の嫌な部分を知りすぎたからですかね」

「嫌な部分、ね……」

 これまでに幾度となく見てきた。だから自分はそうはなりたくないと思う。しかし逆の立場から考えたら、やっぱりまわりと一緒の態度を自分もとってしまうだろう。あんな悪名高い名前とは絶対にかかわりたくない。関係がないと言ってもトラブルに巻き込まれる可能性は一般の人よりも多いだろう。だから憎むに憎めない。きっとそれは仕方がない事なのだと分かっている。しいて言うならば庚組がいなければ良かったのだと思う。あの連中さえいなければ自分はこんな名前でも疎まれることはなかった。そうだ、庚組がいなければよかったのだ。

「もう、随分と嫌な思いをして、抗ってきましたけど……これからも抗っていくんだと思います」

「……そうだろうね」

「抗って抗って抗って、別に何かが変わる訳ではないんでしょうけど、僕は庚組を絶対に肯定は出来ません。受け入れる事は絶対にありえないでしょうね……」

「まぁ、逃げる事はいけない事じゃないよ。時には撤退も必要だ」

「……そう言ってもらえると助かりますね」

 しばしの沈黙が続く。これ以上は会話をする必要がないと悟ったクロは席を立った。これ以上ここにいる意味はないし、これ以上は世話になった氷室に迷惑をかけるかもしれない。ここは撤退する場面だ。

「本当にお世話になりました。この店で働けて、良かったです」

 氷室は何も言わずに鬱陶しそうに手を振ったのだった。





 これで清算は済んだ。しがらみ、という訳ではなかったが、このままの状態で水月で働くのは気持ちが悪いと思っていたのは事実で、それはきっと宗像にも容易に予想がついたのだろう。そして実の娘だと明かして、場をつくった。きっと二人が親子だと知る者は他にはいないはずだ。それを自分なんかが知ってしまっても良いのだろうかと思うが、もう知ってしまった訳だし、それで構わないと二人が思っているならそれでいいのだろう。

 気持ちを切り替えなくてはいけない。

 クロの仕事は来た客を部屋まで連れて行くこと。たったそれだけなのに最初はとても緊張した。初めてやる事はなんでも不安になるものだ。荷物を運び案内をする。ただそれの繰り返しだ。それだけでも体は疲れる。今までこんなに客と接した事がなかったので自分にうまくできるか不安だった。当然ながら客から話しかけてくる事も多い。それに答えられるようにしなくてはならない。クロが最初に覚えた事はトイレの場所だった。とても広いホテルでトイレは無数にある。その全部を暗記した。それにロビーの場所。最初は自分が何度か迷子になるほどだったが、それもなんとか覚えられた。とりあえずその二つを押えておけと宗像に言われたのだ。

 そして一番心配だったのはやっぱりネームだった。ローマ字表記だが、それでも客の視線がネームにいくとヒヤヒヤして心臓の鼓動がひらひらと自分の周りを舞った。今のところは名前の漢字を聞かれる事はなかった。それにいざ聞かれても嘘をつけばいいだけの話だ。律儀に本当に教える必要はないし、それが本当かどうかなど調べる客もいないだろう。

 一日の仕事が終わって靴を脱げば、足はパンパンにむくんでいた。座る事などほとんどないので足への負担は大きい。

 一週間が経って体が仕事に慣れだした頃、ある家族連れが水月にやってきた。その出会いがクロの人生を変える事になるが、当時のクロは当然そんな事は知らなかった――。


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