抗い人

夜行

第一幕


 世界は一面でしかない。

 表と裏などいうものは、存在しない。

 昼と夜はたしかにまったくの別物になるが、それは同じ一面を交互に変わっているだけだ。

 表社会も裏社会もない。

 世界はただの一面しか存在しないし、出来事というのは全てその一面の上で起こっている。

 だから隠れる事など、逃げる事など、抗う事など出来はしないのにもかかわらずに人間は必死でもがく。

 抗って抗って抗って、否定する。その先にあるのはまた同じ事だとわかっているはずなのにそれを繰り返している。

 しかし、それでいいんだと、それは間違ってなどいないと言い切れる気がした。







 またか、と彼は毒づいた。またこの苗字が自分を弾く。自分の名前を聞いただけで、見ただけでそれは露骨に面接官の顔にでた。そんな表情を自分はいったい何度見てきただろうか。そしてこれから何度見ていくのだろうか。そう思うと途端にやる気がなくなっていった。

 今は面接中だというのにもはや全くやる気がなくなってしまった。その面接官の顔を見れば、この後どんなに良い事をアピールしようが、何を言っても無駄だと分かっているからだ。これまでも何度も、幾度となく見てきたその顔。

 クロは面接中にもかかわらずに大きな溜め息をついた。そしておもむろに椅子から立ち上がった。いきなり立つクロを見て面接官はビクリと体を揺らした。

「それ、返してもらいます」

 クロは面接官が持っていた履歴書を強奪するかのようにその手から奪い取った。そんなものをそれ以上持っていてもなんの意味もない。悪用でもされたらたまったもんじゃない。どうせ不採用なのはわかっているし、これは自分で回収した方が手っ取り早いと考えた。

「貴重なお時間をとらせてしまい申し訳ありませんでした」

 そんな謝罪の言葉を口にするが彼は頭などさげなかった。ただ冷めきった目と言葉を向けるだけだ。そしてクロはそのまま部屋を出て行ってしまった。もはやここに居ることに意味はないと分かっている。ここに居るだけ時間の無駄だ。そんな時間があるのなら、求人誌に目を通して他の仕事を見つける作業をする。

 それに今回の事は今まで何回も経験しているのでさほど驚かなかった。ただ、やっぱりか、という感情が押し寄せてくるだけだ。

 彼の名前は庚クロ。現在職がなく仕事を探している真っ最中だ。彼はもうすぐ二十八歳になる。まだまだ若いし働き盛りの年頃だ。にもかかわらずにクロは中々職に就けないでいた。その理由は一言で説明がつく。それは誰もが持っているものがクロの首を絞めていた。

「糞が。やっぱりこの苗字かよ」

 原因はクロの庚という苗字あった。

 十干じっかん機関というものがこの世の中には存在する。その中には悪名で名高い血筋がある。十干機関とは、きのえきのとひのえひのとつちのえつちのとかのえかのとみずのえみずのとの十の家柄からなり、この十の家はそれぞれがどこかで莫大な影響を及ぼしていると言われている。そしてクロの苗字である庚。この家柄はとても悪名であることが有名だった。簡潔にわかりやすく言うならば暴力団、極道の血筋だ。有名も有名でそのしてきた事は冷酷非道で一般人でも知っている者は少なくない。

 そんな庚組と同じ苗字のクロ。もちろん庚組とはまったく関係はないが、知らない人はそうは思わない。関係者だと思ってしまう。係わりたくない。そう思うのは自然なことだろう。だから彼はこの世の中が生きにくかった。

「いつか絶対この忌まわしき名前を捨ててやる」

 スーツのネクタイを無造作に緩めて毒を吐く。クロには苗字を捨てるという夢がある。そんなものは夢には入らないのかもしれないが、彼自身はそうは思わずにそれを夢として認識していた。いつか結婚して婿養子になる。そうすればこの大嫌いな苗字を捨てる事が出来る。しかしいくつもの難関が待っているのは言うまでもない。

「俺、結婚できんのか」

 こんな苗字の自分と結婚をしてくれる者などいるのだろうかと真面目に悩む。たかだか苗字、と思うかもしれないがこれはとても深刻な問題だ。一般人には到底理解出来ない悩みだろう。でもいつか――と淡い期待を寄せるのは誰にも迷惑はかからない。思う分には勝手だ。

「これで三件目か……。覚悟はしてたけど、けっこう堪えるなぁ」

 就職活動は芳しくなかった。

「一応まだ余裕はあるけどいつまでもこのままでいいわけがない」

 クロは現在二十七歳で普通に考えたら仕事などいくらでもある。選んでいる場合ではない、とは思うが、それでも自分の向き不向きぐらいは分かっているつもりだ。これまでに何枚履歴書を書いてきたかわからない。その金も馬鹿にならないし、そろそろここら辺で決まってほしいものだと切実に願うが、世の中はそんな都合の良い様には出来ていない。それはクロ自身が一番良く分かっていた。

「ま、気をとりなおして次いくか」

 前向きに考えないとやっていけない。嫌な事は忘れるに限るが、嫌なことほど忘れられないのも事実だ。

 クロの仕事の希望はそんなに細かくない。一つだけどうしてもこれだけは外せないというのが、ネームプレートがない仕事だ。自分は庚だとアピールして歩くと考えただけで虫唾が走る。それだけはなんとしてでも回避したい。

 そうなってくると接客業は厳しいだろう。たった一つの事で大きく仕事の幅は削られていく。

 帰りがけにコンビニに寄って新しい求人を買う。そしてクロは真っ直ぐアパートへと帰る。決して新しいとは言えないアパートだった。築三十年。何年か前にリフォームをしているが、その痕跡はどこへやら。それでも家賃は四万と安いし、何より雰囲気が気に入っていた。六畳とキッチンにトイレ風呂付。文句は何もなかった。

 クロは部屋着に着かえて小さなベッドに寝転がって、買って来た求人誌に目を通していく。

 めぼしいものは見つからない。ほとんど先週の求人と内容が変わっていなかった。

「買う意味なかったな」

 ぼそりと独り言を言いつつページをめくっていく。飲食店、工場に接客業。どれもピンとこない。選り好みしている場合ではないが、それでもと考えてしまうのは仕方がないことだ。どれかれ構わず決める訳にもいかないだろう。そして一通り目を通し終わって溜め息をつく。

「どうしたもんか」

 そろそろ焦って探した方がいいのかもしれないと思った。だからもう一度見てみることにする。そこでふと。いつもは見ないであろうページの最後の方が不思議と気になった。それはナイトページと呼ばれる類のものだ。

「夜……の仕事か」

 今まで夜の仕事に興味はなかった。夜の仕事は接客業ばかりだった。しかし昼とは違ってネームプレートをつける必要はどこにもない。そして偽名を使ってもバレないのではないかと彼は思ってしまった。

 ざっと目を通していくと、一つの求人で眼が止まった。

「ラウンジのボーイ、か」

 クロは酒には興味がない。あまりおいしいとは思わないし、酔っている人を見るとどうしてもそれが滑稽に思えてくるのだ。そんな姿を他人に見られるなど言語道断。酔うのは嫌い。酔っている人を見るのも嫌い。だからこんな仕事は自分には向いていないだろうと思った。

 しかしそれでも雑用で表に出なければ、裏でずっと皿洗いでもしていればいいかと考える。気が付けば連絡先に目がいっていた。これは今自分を説得してもいずれ連絡をしてしまうだろうと諦めるしかなかった。

「まずは履歴書だな」

 今まで何度履歴書を書いてきたのかはわからない。同じことを何度も書くというのは気が滅入る。今度こそは、と何度も思って書くが、それが報われることはあるのだろうか。これが最後の履歴書にしたいと幾度となく願っている。

 机の引き出しに保管してある履歴書を探すと一枚だけ残っていた。

「一枚、か」

 クロは迷うことなく部屋を出てコンビニに履歴書を買いに行った。間違えるかもしれないし、これが履歴書を書くのが最後だとは到底思えなかったからだ。

 コンビニから帰ってきてクロは頭を悩ませた。視線は名前の欄を見つめている。罪悪感がないわけではない。これは違法になってしまうだろう。

 どうする? 庚の名前でいくか偽名を使うか。夜の世界なのでそっち系の人間も多いだろう。そこでからまれたりしたら、それこそ面倒なことになってしまう。そんな事で数十分悩んでいると携帯電話が鳴った。

 携帯電話に登録される人数は少ない。せいぜい両手で足りるぐらいだし、そのほとんどが通販ネットのメールアドレスだったりする。だからクロは画面を見る前から相手が誰だかわかった。こんな自分に電話をかけてくる相手など世界で一人しかいない。

「はい」

『へっろー? 元気かい?』

「……お前は相変わらず元気そうだな、紫織」

 その元気な声を聞いただけでテンションの高さが窺える。彼女の名前は一条紫織。クロの幼馴染だ。小さいころからずっとクロの事を知っている唯一の人間かもしれない。

『お前は、ってことはクロちゃんは元気じゃないのかー? そうかそうか予想が当たったよ。まぁだから電話をかけて元気づけてあげようと思ってわざわざ電話をしたのだけれど、どうかな? 私の予想は当たっておるかな?』

「いや、外れているよ。俺はずっとこんな感じだ」

『そうかそうか、そうだったね。じゃ言い方を変えよう。何か悩んでいるんじゃないの?』

「……」

 別に話す理由はないし聞いてもらいたいとも思わない。それに話したところで問題が解決するとは思えなかった。しかしそんな感情とは裏腹に口は自然と動いた。

「……履歴書、をな、書いてるんだ」

『ふ~ん』

 詩織は相槌をうつだけだった。それ以上の言葉は何も言わなかった。クロにはそれが続きを言え、という意味だと理解しているので続きを言う。

「それでな、その、苗字を偽名にするかどうかで悩んでいる」

『偽名?』

 納得できない、といったいつもより少し低い声で紫織は聞き返した。

「あぁ。庚、という名前を使いたくないんだ」

『……』

 電話の向こうからは何も反応がない。呆れているのだろう、きっと叱咤言葉が返ってくるのだろうとクロは覚悟した。

「……どう、思う?」

『どうもこうも……まぁ、気持ちはわかるよ。ずっとその名前のせいで苦労してきたのは私もずっと見てるし、この先もずっとその名前のせいで苦労していくんだって事は私もわかっているつもり。だからその事に関して私は口出しが出来ない。今後のクロちゃんの人生がかかっているんだし、私にはそれは解決できない問題。でも横から傍若無人に口を出させてもらえるなら言うけど、どうする?』

「……」

 そう言われてクロは少し躊躇した。しかし彼女にはいつも助けられてきたし、その答えが間違っていたという事は今までで一度もなかったとクロは断言できる。信頼している。自分よりも信頼している。だったら答えは簡単だ。

「聞かせてくれ」

 紫織は『うん』と一呼吸おいた。

『私は別に偽名でもいいと思う。でも偽名を使う事のリスクをしっかりと考えないとダメ』

「リスク?」

『そうリスク。たとえば予想以上に職場の人と仲良くなった場合、今よりも罪悪感が押し寄せると思う。クロちゃんはそれにきっと耐えられない。その場から逃げ出すと思う。仕事を辞める事になると思う。それにたとえ耐えて、実は偽名で、と言って本当の事を言っても相手がそれを受け入れられる可能性は限りなく低いよきっと。そこにまたクロちゃんは傷つく。だったら最初から偽名なんか使わなければいいだけの話だけど、使わないと働けるものも働けないのも事実だし、まぁ簡単に言うなら覚悟があるかないかの問題じゃない? そこでずっと働くの? それなら本名を名乗った方がいい。働く気がないなら偽名を名乗ればいい』

 ずっと働くか、と問われればそれはないだろう。しかしそれを言えば彼女は怒るかもしれない。そんな軽い気持ちで仕事をするなと。それでもクロは正直に答える。

「ずっとは、働かないと思う。とりあえずは、といった感じだ」

『そう』

 紫織は特に何も言わなかった。それがどういう事がしっかりと理解しているからだ。今までもこれからもずっと苦労して生きていくというのをわかっている。だから出過ぎた発言はしない。それがまたクロにとっても救われている。この世で唯一の理解者であるのは間違いがない。信用ではなく信頼できる。

『で? なんの仕事なの?』

「うん? あぁ、ラウンジだな」

『ラウンジ? あんたが?』

「なんだよ? そんなに変か?」

『変だねぇ。とても変。お酒にも興味がない人が夜のそういった場所で働くとか変と言わずになんと言う?』

「まだ働けるかはわからん。別に俺が呑む訳じゃないんだから別にいいだろ」

『クロちゃんはもっと自分の事を知るべきだな』

「はぁ? どういう意味だ?」

『それ以上の意味はない。ま、面白そうでいいんじゃない? 受かったら場所教えてね』

「ぜってー教えねぇ」

 二人は笑い合いながら電話を切った。たかが数分の会話だったがクロにはそれが何よりも貴重なものとなった。

「さすがは紫織。いいとこで気がきく奴だな」

 迷いは紫織が振り払ってくれた。いつもいつも助けられてばかりだなとクロは一人ごちる。いつか恩返しが出来るのだろうかと切実に思うが、彼女は人の助けなどあてにはしないし、おそらく自分で解決してしまうだろう。それでも、とクロは思う。いつか本当に一人ではどうしようもなくなったときに、自分を頼ってほしい。恩を返させてほしいと強く願った。

 一方紫織は電話を切ったあと深い溜息をつく。その表情はさきほどまでクロと談笑していた雰囲気とは違った。

「ほんと……大変な人生だねクロちゃん」

 ベッドに大の字に寝転がり天井を見上げて過去を振り返った。幼稚園の時も小学校の時も中学の時も高校の時も、生きている時間すべてが苦痛だっただろう。自分なら自殺をしているかもしれないと紫織は本気で思うほどの苛烈な人生をクロは送っている。だから何か助ける事ができるならしてあげたいと思う。そうは思うが、実際に出来る事などたかが知れている。だからせめて話し相手として話を聞いてあげることぐらいは、と紫織は思っているのだ。それで何かが解決するとは思えないが、それでも少しでいいから気が紛れればと思い、こまめに連絡を続けている。それは自分が結婚してからも変わらなかった。夫にはクロの事は話しているし理解してもらっている。だから安心という訳ではないが、なるべく心配をかけないようにはしているし、クロの事は極力話さない。夫からしたらあまりいい気分ではないだろう。だったら連絡をとらなければいいだけの話だがそうもいかない。だから大抵クロに連絡をするのは夫が仕事中のときか風呂に入っている時だ。

 罪悪はない。自分は正しい事をしていると言うつもりはないが、人の助けをしている。親愛なる友人を想ってなにが悪いというのだろうか。

 男女の友情は存在しない?

「知らないものは肯定出来ないよね」

 知って初めて肯定できる。それは二人の中でたしかに存在している。それだけは決して譲れない。いつまでも青春をしているかのようだ。いくつになっても変わらないだろうと昔はよく語り合ったものだ。

「ふふふ、懐かしいなぁ」

 クロには悪いが今日はいい夢が見れそうな気がした。





 それからクロは紫織に相談したことを思いだして覚悟を決めていた。たしかに自分では絶対に思いつかなかった事だろう。就職するという事柄を考えるのに精いっぱいで、その先の事を考えていなかった。忠告されて初めて考える。

「覚悟、か」

 折れない心がいる。決して激流に飲み込まれない一本の大木の様な強靭な心がいる。それが果たして自分に備わっているのだろうか。

 自信は、ない。きっとベソをかいてまた紫織に相談するかもしれない。でもそれは決して悪い事ではないだろう。紫織もきっとわかってくれるし、そんな自分を怒ってくれるはずだ。だから紫織は忠告をしてくれた。

 だったら答えはもう出ている。

「よし」

 クロは覚悟を決めて履歴書にペンを走らせた。

「叶クロ。安直だけどこれでいこう」

 少し響きが似ていた方が都合がいい。もし知り合いの第三者に偶然会って名前を呼ばれても、聞き間違えといえる。酒が入っていればなおさらだ。まぁ本当は誰にも会いたくはないが。それに相手が自分に話しかけてくるとは到底思えない。そんな相手はやっぱり世界に一人しかいない。それでも一応保険をかけておいた方がいいだろう。

 それに面接に受かるかどうかはわからない。受からなければ次の求人を探さなくてはいけないし、偽名を名乗る事もないだろう。罪悪感は生まれない。むしろ落ちてくれた方が、まっとうな人間でいられるような気がした。どうせ受かるはずはない。

 だが、そういう時に限って自分の理想とは逆の出来事が起こったりするものだ。

 人生は苛烈で迷った時には既に終わりが見えている。後戻りなんて出来ない。自分が通って来た道なのに、振り返ればそこは断崖絶壁。道は前にしかなく後ろにはない。それがどんな道でも進むしかないのが人の歩む道だ。後ろ髪を引いてくれる女神なんてこの世には存在しない。

「どうなることやら」

 どっちでもいい。受かったら受かった時、落ちたら落ちた時だ。これは毎回思う事で、毎回気を張っていたら身体がもたない。

 気楽にいこう気楽に。

「どうせこれが最後なんて事はないし、これからも何回も何回も面接を経験するんだろうなぁ」

 そのたびに嫌な目にあうのは簡単にわかる。こればかりはどうしようもない事実なんだと諦めるしかない。溜息しかでないとはこの事だ。

 一体何回同じことを繰り返せばいいのだろうか。人間は繰り返す事で成長するなどと聞くが、クロにはそれが戯言にしか聞こえなかった。

「こんなんで成長できてたまるかよ」

 考えれば考えるほど憂鬱になってくる。

「やめやめ、とりあえず電話しようそうしよう」

 面接の日取りを決めなくてはいけない。そもそも電話で、もう他の人に採用が決まったと言われてしまう可能性だってある。まぁどっちでもいいが、と思いながら電話をしたところ、そんなことはなくて面接の日取りが決まった。

「い、今からとか……」

 急だ。しかし夜の仕事なのでいつでもいいのかもしれない。言ってみれば自営業で相手は自分の好きな時間を指定できるし、それはそれで都合がいいと言えば都合がいい。こんなもやもやした気持ちをずっと抱えて生活はできない。

 よく心が荒まないなと自分を褒めたくもなる。

 クロは一度脱いだスーツに再び袖を通した。そして書きたての履歴書を握りしめて家を出たのだった。





 結果から言えばラウンジの仕事に見事に採用された。面接をしてくれたのはその店のママだった。特に履歴書を見る事もなく、ただ普通の雑談の様な会話をしていただけなのだが、それだけで採用はあっという間に決まってしまった。

「どうして採用されたのかわからんな」

 履歴書など不要とばかりな扱いをされた。せっかく書いたのだから少しぐらいは見てほしかったのだが、名前を確認されてテーブルの上へと置かれてしまった。

「きっと見た目がママのタイプだったからだと思うよ」

 そんな事を言うのはこのラウンジ、華恋で働いているホステスだ。名前を美神と名乗っている。もちろん源氏名だ。名前ではなく苗字っぽい名前を使っているので少し変わっているのかもしれない。

「はぁ、そうですか」

「うんうん。ママは見た目で決めちゃう事が多いから。でも見る目は確かだと思う」

 そう言われても反応に困る。自分の様な者を採用などとは普通に考えたらしたくないとクロ自身は考える。

「俺も偽名だからか」

「え?」

「あー、いやなんでもありませんよ」

 名前が違うだけでこんなにもスムーズにいけるのかと思うと、嬉しい反面悲しくなってくる。この庚という名前が自分の人生を大きく変えていると実感してしまうのだ。名前を捨てられたわけではないが、偽名を名乗っただけでうまくいく。それがどうしても虚しくなっていった。

 この名前さえなければ――。

「いや、違うか。庚組なんてものがなければ、だな」

 そもそもの原点を辿ればそこに行き着くだろう。庚という極道の組がなければ良かったのだ。そんなものが存在しているからこそ自分にまで影響がまわってくる。

「いっそ無くなってしまえばいいのに」

 どす黒い感情が光の隙間をぬって湧いて出そうになる。それをギリギリのところで思いとどまった。何回同じことを考えて思えばいいだろうか。そんな日は絶対に来ないとわかっているからこそ、望みたくもなる。

 正直なところ、庚組になにかをしたいと思ったことは腐るほどある。しかしそれは実行には移されなかった。普通の極道の組ならまだしも。庚組は十干機関の一つだ。その力は常識が通用しない。自らの首を絞めるようなものだ。

 あった事をなかった事にする、などとはお手のもの。いくつの事件が闇に葬られたかわかったもんじゃない。

 仮にその庚組を滅ぼす事ができる存在があるとするなら、それは同じ十干機関のうちの一つだろう。しかし十干機関同士の争いは御法度だ。それだけは全員が守っている。一つでも崩れると、そのバランスは崩壊し世界の崩壊へと繋がるとされている。

 それでも十干機関に産まれた人間の一人ぐらいは、同じ十干機関に恨みを持っているかもしれない。そうなった場合、それを手伝いたいとクロは考えている。願ってもない復讐の時だ。他に声をかければたくさんの人間が集まってくるだろう。それほど恨みを買っている。

「どうにかして十干機関の人間と接点を持ちたいところだな……」

 恐ろしい。出来ることならかかわりたくないと思うのが一般だ。巻き込まれたら生きて帰れないだろう。それでもクロはそれを願う。

 そんな事を思いながら皿洗いをしているとまだ隣に美神が立っている事に気が付いた。すっかり忘れていた。今の台詞は危うい。しまったと思うが時すでに遅い。

「叶くん、そっち系に興味あるんだ」

 ここは誤魔化したり惚けるのはやめた方がいいだろう。冗談っぽく真面目に返すのが正解だ。どこまで本気かわからないところをアピールする。

「そら嫌でも耳に入りますからね。なかには良い人がいるかもしれないじゃないですか。そんな人と知り合っておけば、のちのち良い事があるかもしれない」

「でも悪い事の方があると思うけど」

「その悪い事があっても、それを上回る良い事があればいいですよ。それに全員が全員野蛮な人たちじゃないでしょう」

「へー意外。肯定するんだ」

「肯定も否定もします。噂や迷信などただのクソだと撲は思ってますから。一人ぐらいは良い人がいると信じたいだけなのかもしれませんね」

「でも、そう思えるって良い事だと思うけどな」

「良いか悪いかは、わかりませんよ。そんなもの証明できないですしね。まぁ友達になれたら退屈はしなさそうですけど、うん、危険度は増すかもしれませんね。そうなってくるとどっちがいいのやら」

「どっちでもいいんじゃない? そんなのどっちにでも転ぶよ」

「まぁ、たしかに」

 表面上は良い顔をしていても裏切る可能性なんてものは限りなく存在する。

 裏切りなどというものは日常茶飯事に起きている。さして珍しくもない。裏切り、裏切られて、殺して、殺される。たったそれだけの事だ。それだけの事にもかかわらずに、それがどうしようもなく心を削る。

 信じていたのに? 

 馬鹿か、勝手に言ってろ。信じたのは自分。それは自分の責任だ。それを相手に押し付けるのは間違っている。生きていく中で騙すというのはとても重要だ。すべては生きるため。それは仕方がない裏切りなのかもしれない。自分が生きていく中で裏切らなければならなくなった時――どうする? 相手はそれをわかってくれると信用して裏切る? それとも死を選ぶ?

 どれも糞喰らえだ。考えるのもめんどくさい。反射神経のように何も考えずに行動ができればどんなに楽か。でも考えることが生きている証になるのなら――それも悪くないと思える日が来るのだろうか。

 そんなものは綺麗事だ。

 いいじゃないか綺麗事で。こんな間違った世界で綺麗なものに憧れてなにが悪い。

 汚い部分があるのなら綺麗な部分がないと均衡がとれないだろう。それでいい。どちらも間違ってなどいない。何も、誰も、この心を縛るものは存在しないのだから。

「実はさ」

 美神は声を少しひそめて言った。

「このお店にも来た事、あるんだよね」

「……誰がです?」

「十干機関の人」

「……」

 別に驚きはしなかった。

「たぶん、偽物だとは思うけど」

「でしょうね」

 十干機関の人間は自らを名乗らない。わざわざ言う必要はないし、言ったところで距離をとられるだけだ。だから自ら名乗るのはおこぼれを預かりたい偽物だ。そういった連中がたしかに存在する。

しかしそれは命がけだ。勝手に名前を使われるというのを好きな人間はいないだろう。それは十干機関としても同じこと。見つかれば命はない。それでも名乗る者は後をたたない。そういう事が起こっているからこそ名乗る事で本物だと匂わせるのが手口なのだ。

「ちなみにどこの家の人だったんですか?」

「えっと、たしか庚って言ってたかな」

「……」

 最悪だ。自ら話を振っておきながらその事をまったく考慮していなかった。

「なーんかチンピラっぽい人だったよ」

「……そうですか」

 庚の家柄は極道だ。それは直属の血族でなくても庚という名を言うのを許されている。庚組、という風に言われたのだろう。つまり偽物ではなく本物の可能性も出てくる。

「最悪だな……」

 出来る事なら絶対に会いたくない。会ってしまえば絶対に恨みを言いそうだからだ。もし仮に次に来たときは、奥の方で引きこもっていようと密かに決意した。

「まぁたしかに最悪だよね。あまりかかわりたくないけど、接客業だしそうもいかないってところが現状かな」

「……大変な商売ですね」

「まったくよ。どんな客が来ても笑顔を絶やさずに、がウチのモットーだからね」

「ママの教えですか?」

「そーそ。まぁそれはその通りだと思うけど、いつもいつもそれが出来る訳じゃないっていうのが私だね」

「出来る人がおかしいんですよきっと」

「そー言ってもらえると助かります」

 ぺこりと頭を下げる美神。気さくな人だとクロは思った。クロの勝手な夜の仕事のイメージの人物とはかけ離れている。こういった人もいるのかと、クロはまた新しい発見が出来て嬉しかった。

「美神さん、こんなところで油売っててもいいんですか?」

 皿洗いをする自分とずっと喋っている。接客をしなくていいのだろうかとクロは思った。

「これも仕事よ」

「あぁ、撲がしっかり仕事をしているかチェックですか」

「まぁそんな感じかな」

「で? どうですか? しっかり仕事してますかね?」

「私とぺちゃくちゃ喋ってるから、まぁダメだよね」

「話しかけてきたのは美神さんですよね?」

「その誘惑にのらないようにしないと、って事で」

「あぁ、なるほど納得。それは僕が悪いですねぇ」

「そうでしょうとも」

 威張るように胸を張る美神。たぶん美神の言っている事ややっている事は嘘なのだろうとクロはなんとなくではあるが思った。まだ出会ってそんなに時間は経っていないが、美神はそんな事をするようなタイプには思えなかったのだ。

 それは口実で実際には自分がサボりたいだけなのだろう。

「それにほら」

 そう言って美神は指をさす。その指先に視線を持っていくと時計があった。時刻はすでに深夜一時を回っていた。

「もう、閉店の時間」

「あぁ、なるほど。いつの間にかそんな時間だったんですね」

「そゆ事」

 だったらこの場にいるのはサボりでもなんでもない。

「叶くんさ、ホールには出ないの?」

「出ません。そういう約束ですから。僕は裏でずっと皿洗いをしていたいんですよ」

「なんかそういう妖怪いるよね」

「……? あずき洗い?」

「そうそうそれ」

 美神は腹を抱えて笑った。妖怪みたいだと言われたが、不思議と悪い気はしなかったし、別に笑われても良かった。

「でも、もったいないと思うんだけど」

「何がです?」

「叶くんならさ、こんなとこでボーイの雑用なんかしなくてもホストにでもなったら、けっこーいい線いくと思うなぁ」

「冗談を」

 なるべく人と接触を持ちたくないと考えているクロにはその発想は最初からなかった。

「冗談じゃないよ。鏡見たことある? けっこー稼げると思うよ?」

「見たことはありますけど、結構です。あまり人と接点を持ちたくないので」

 そこまで言ってクロは自分の失言に気が付いた。話しすぎだ。自分の思っている事を他人にぺらぺら喋ってしまった。相手があの幼馴染でもないのにこれはどういった事なのだろうか。接点を持ちたくないなど、訳ありだと言っているようなものだ。

 クロは少し警戒しながらも平常心を保った。

「まぁ今の時代は引きこもりが多いからねぇ」

 しかし美神はさして気にするような事もなかった。

「……まぁ僕は明るい引きこもりですけどね」

「なにそれ」

 言って美神は笑う。

 どうにもペースを乱される。正直言ってとても話しやすい。なぜだろうかとクロが疑問に思っていると答えは簡単だった。

「あぁ」

 相手は接客業のプロだ。会話のプロだからだ。そんな簡単な事だった。

「夜の世界は凄いな」

 今まで体験した事がない世界にクロは純粋に感心する。自分にはないスキルだ。自分もこのぐらい口が上手かったら、美神の言う通りにホストでやっていけたかもしれない。

「まぁ、ありえないけど」

 閉店になり、皿洗いも全て終わった。初日の仕事としては満足のいく感じだ。このまま裏でずっと皿洗いでもしてやっていきたいとクロは思っていたが、世の中はそう甘くはなかった。





 クロが華恋で働きだして三日後。

「クロくんごめん。ちょっとホールに出てくれないかな」

「は? いや、でもママそれはちょっと」

 話が違うではないかと言おうとしたが、ママの顔を見てその言葉は呑みこまれた。なぜならママの顔がとても険しく困っていた顔をしていたからだ。

「うん、話が違うっていうのはわかるんだよ。でもボーイが一人急に辞めちゃってね。これじゃまわらないんだよ。本当にごめん。次が見つかるまででいいんだよ。出てくれないかな」

「……」

 絶対に嫌だ、とは思うものの口に出して言えない。なぜなら本当に困っているからだ。この店で働く事は居心地がとてもいいと思うし、これからもお世話になりたいとも思う。ここで拒否をすれば気まずくなるのは目に見えている。

「やっぱダメかな?」

 クロは必死で考える。これからの事を天秤にかけて、どの選択が一番いい結果になるのかを見守る。

 周りに迷惑はかけれない。自分が少し我慢すればいいだけの話だ。

「わかりました。わかりましたよ、やります」

 そう言った瞬間にママの顔は一気に明るくなった。

「本当っ!? ありがとうごめんね」

「次が見つかるまでですからね? 見つかった暁にはさっさと皿洗いに戻してくださいよ」

「んー普通は逆と思うんだけどなぁ」

 本当にこの子は変わっているなぁと思う。実際に初めて対面して面接をしたときのそう思った。

 彼女、氷室早苗は高校を卒業してからすぐに夜の世界へと足を踏み入れた。そしてイロハを学び数年後には自分の店の華恋をオープンさせた。それまでにいったい何人もの人間を見たかは本人にもわからない。

 色々な人間がいたという事ぐらいしか覚えてないが、その会話をするなかで自分だけがわかる感覚というものを身につけた。

 相手の仕草や表情、声の高さから低さまで全てにおいて彼女は相手が普段と違うだろう事をすると違和感をおぼえる。

 その感覚がクロに何かあると告げている。それが何かは漠然としてまったくわからないが、変な違和感だけ残るのだ。

「ま、そのうちわかるか」

「え? なんですか?」

「ん? んーん、なんでもないよ。まぁとりあえず適当に頼むよ。本当に困ってるんだからさ」

「本当に困っている事を適当にしていいんですか?」

 本当に真面目だなぁと思う。自分が不利になる状況でもクロはそこは違うのではないかと言ってくる。それがまた面白い。

「いーのいーの。だって酔っ払いの相手するなんてめんどーでしょ? 別に文句言われても私が責任とるから安心して大船に適当に乗った感じでしてればいいのよ。これはこっちが無理言ってお願いしてるんだからさ、クロくんはもっと上から言っていいんだぜ?」

 バチッとウインク付きで言うがクロは「はぁ」と曖昧な返事をするだけだった。

「上からと言いましても、ねぇ」

「別に何か交換条件出してもいいよ。時給上げてくれだとか、おっぱい揉ませてくれだとか一晩俺のものになれよとかなんでもいいよ」

 言ってほれほれと自分の胸をつきだしてくる。

「……」

 美神もそうだが、どうしてこの店はこういったノリの人間ばかりなのだろうかクロは一瞬真剣に考えてしまった。

「……前向きに検討してみます」

「うっわ、出たよ大人の対応」

 そんな事を言うが氷室はケラケラと笑う。

「まぁ冗談はさておき、本当になんでもいいよ。これは貸しだから何でも一つ言う事を聞いてあげちゃうよ」

 貸しか、とクロは思わぬ鍵を手に入れた気分だった。箱の中身は自分で決められていつでも開けられる。しかしクロはそんな鍵を使うつもりは毛頭ない。ここで働ければそれで満足なのだ。

 でも、本当に何か一つ願いが叶うならクロは当然名前を捨てる事を選ぶだろう。

「婿養子にでもしてもらおうかな……」

「ん? なんか言ったかい少年よ」

「いーえ。というかママ何歳なんですか? もしかして僕より年下じゃないんですか?」

 年下に少年と言われるのはなんともむず痒いものがある。

「はっはー。それはお世辞かな? クロくんよりは年上だよ。確実に」

 そんな事を言われてもとても信じられそうにない。それほど氷室の見た目は若い。

「それだけ金かけてるって事だよ。今の時代金さえあればなんでも手に入るからね。覚えておきな少年っ」

「胸に刻んでおきます」

 うむうむと満足気に頷いた。

 なんでも金で買えるか、とクロは心中呟いた。たしかに今の時代はそうかもしれない。考えようによっては人の命さえも金で買っているようなものだ。

「じゃあ逆に金で買えないものって何があるんだろーな」

 そう思わずにはいられなかったが、その答えは見つかりそうもなかった。





「お願いしまーす」

 その声に呼ばれて奥から姿を出す。最初は緊張したが慣れてくると別にどうという事はなかった。言われた事をやればいいだけの話だと割り切ってクロは仕事をした。

 一番苦労したのはどの酒を持っていくかだった。クロは酒が呑めないし興味もない。だから酒の銘柄がわからないのだ。でも店にある酒の種類はそんなに多くはないし直ぐに覚えることが出来た。

「えーっとウイスキーは、っと」

 棚からボトルを手に取りそれを眺める。

「これの何がおいしいんだか」

 まったく理解が出来ない。しかもこれを水で割るという。それがどうにも滑稽に思えてしかたがない。わざわざ薄くして呑んでおいしいのだろうかと思う。それにその行為はこの酒を作った人への冒涜ではないのか。

 せかく作ったものに後から手を加えられていいようにされて。自分だったら我慢ならない。

「いーのよ。そんなみみっちい事は。どーでも」

 振り向けばそこには氷室が立っていた。

「ママ」

「今のクロくん、すんごい考えてる事が身体中から滲みでてた」

「……そうですか?」

「そうですとも。まぁ気持ちはわからんでもないけどさ、店側は水で割ってくれた方が減りが遅いし、まぁいいっちゃいいかな。でもキープとかされたら、もーどーでもいいけど」

「……酔ってます?」

「そりゃ酔ってるよ。お酒呑んでるんだからさ」

 普段酔っている姿を見た事がなかったのでとても新鮮に見えた。そしてその振る舞いがとても幼く見えたのだ。

「ママ、酔うと幼児化するんですね?」

「はぁーん? あにそれ?」

 そう言われてもケラケラ笑う。

「まぁ私だって酔いたい時もあるのよ。あーそれとクロくん中々様になってるよ、ボーイ。なんならこのままホールに出てもいいよん」

「お断りします。皿洗い、皿が僕を呼んでいるんですよ」

「どこがいいのかねぇ。あんな落としたら割れちゃう奴ら」

「落として割るも自分次第で相手の運命を握っているってとこに興奮しませんか?」

「まーったくせん」

 せっかく冗談を言ったのに笑われもせずに普通に返されてしまった。自分は言葉が上手くないなぁと思った瞬間だった。前に美神にホストをすればいいと言われたが、口が上手くなくては務まらないだろう。

「最初から無理なんだよなぁ」

 こればかりはどうにもならないと思った。そんな事を考えていると氷室が言う。

「あーそうそう。クロくんにお客さん」

「お客?」

 意味が分からない。こんな場所で客という意味がわからない。自分はあくまでも裏方の仕事だし、表に出ることは注文を受ける時だけだ。

「あー」

 注文をとって来い、という事かとクロは理解した。店の女の子が呼んでいるのだろう。こんなところで無駄口をたたいている暇はない。

 氷室にウイスキーを渡してクロはホールへ出た。さて、どの子が呼んでいるのかと店を見渡すと、ある一点で視線が止まる。ついでに動きも思考もすべて止まってしまった。

「へっろー、クロちゃん。来ちゃった。てへっ」

 一条紫織は屈託のない笑顔をクロに向けた。

「……」

「おや? 珍しい。クロちゃんが固まってるな」

「お? ほんとだ。珍しい」

 通りすがりの美神もその様子を隣で見つめる。

「あれかなー。愛しの私に会えて興奮してるのかなっ。まったく困ったちゃんだね~叶クロくん?」

 目をこれでもかと細めてその偽りの名前を呼ぶ。そこでようやくクロに意識が戻ってきた。

「なん、で……いんだよ」

「クロちゃんの晴れ姿を見に来たんだよ。なかなか様になってるじゃないか」

 まるで親が子を見るかのような眼差しと言葉だ。

 冗談っぽく言っているが、実際は心配をしていた。あのクロが他人と仲良くできるとは到底思えなかったのだ。しかしそれは杞憂に終わりそうだ。

「良い顔してんじゃーん? どうやらいい人たちに巡り合えたみたいだね」

「……あぁ、そうだな」

 この場所はとても居心地がいい。今までこんなに良い環境で仕事が出来たのは初めてだった。だから罪悪感が常に押し寄せてくる。クロは名前を偽っている。そしてそれがどうしようもなく心を蝕んでいく。

 最初から本当の名前を名乗っていたらどうなったのだろうかといつも思う。きっと今とは違った環境になっていたのは間違いがないだろう。誰もクロの苗字が庚だと知らないからこそ親しくできる。知ってしまえば必ず距離をとるはずだ。

 それがクロ自身わかっているからこそ、また悩んでしまう。淡い期待をよせてしまうのだ。

 きっとこの人たちなら打ち明けても大丈夫。

 しかしそう簡単なものではない。それもわかっている。わかっているからこそ考えてしまう。

「変な気ぃ起こすんじゃないよ」

 紫織は冷静に、今まで冗談を言っていたとは思えない声でクロにそう告げた。クロの考えている事はお見通し。人が良いクロだからこそ、そう考えてしまうだろうと紫織は分かっている。だからここに来て、状況を理解したうえで釘をさしに来た。

「返事は?」

「……わかってる」

「そっ」

 夢から現実に連れ戻す事。それが今回紫織がこの場所に来た理由。残酷ではあるが、それが分からなくなってしまった場合、傷つくのは他の誰でもなくクロだ。これ以上人間を嫌いになってほしくない。それが紫織の切なる願いでもある。

 きっとこれからも先、裏切られる事は無限にあるだろう。でもその小さな一つの裏切りでもいいからなくしてしまいたい。それがどんなに小さなものでもいい。どんな相手でもいい。これ以上は――。

「紫織、助かった」

 それもクロは理解している。こんな役目を押し付けてしまっている事を本当に申し訳なく思っているが、それでも頼らずにはいられない。自分とは違った視点で見てくれる信頼できる人がいるというのはとても心強いものだ。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 どうしようもならない。でもいつかきっと――。

「じゃ、お礼になんかおごってもらおっかな」

「あぁ、そうだな。ごちそうする」

 暗い話はこれでおしまい。考えても答えが出ない事を考えても仕方がないし、ここは楽しむ場所だ。

「お客さーん、うちはホストクラブじゃないんでクロくんの指名料は高いよ~?」

 片手にウイスキーを持った氷室がそんな冗談を言ってくる。冗談には冗談で返すのが基本だ。

「じゃ、指名料はクロちゃんにツケといてくださーい」

「おっけー」

「オッケーじゃねぇ!」

 当然ながら意義を唱える者が一名。当然の主張である。しかし酔っているであろう女二人はそんな事を聞く耳は持っていないようだ。クロを無視して二人で話し出す。

「お客さんはクロくんの彼女?」

「あっ、そー見えますー? でも残念ながら違うんですよー。私、結婚してますし」

「あらー、じゃ愛人かな」

「まぁそんなとこですかね~」

「……」

 クロは何も言わずに皿洗いに戻ったのだった。




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