126 咲き乱れる君の香り
帝都が落ちた。
コンツェがその報せを受けたのは、うす紫色の安寧が空をゆっくりと染める頃だった。
「エトワルト王陛下、何よりも
帝都を占拠し皇帝の首を掲げれば、早々に終わるはずだった戦争。想定外の動きを見せた皇帝の亡骸は、未だ見つかっていないという。
「これでは帝都アデプを占拠しようにも、常に補給が必要となりましょう」
老齢の丞相シバスラフが、小さな溜息を鼻から洩らす。
「そうか」
王の政務室に居ながら、慣れぬ役割を粛々とこなす毎日。
父王の最期を看取ってからというもの、国葬と王位継承の手続きに加え、日々の政務が山積みだった。コンツェは文字通り、
「覚えていただくことがたくさんありますなあ」
「……言わないでくれ、わかってるつもりだ」
即位に関しては、戴冠も式典も行わないことに決めていた。書面だけの略式の行程。それを望んだのは、開戦から間もないことに加え、各方面での引き継ぎが多すぎたせいだ。
全てをこなせるだけの、知識の蓄えが無い。それはコンツェに、悔しさばかりを募らせる事実だった。
「ところで、デーテン兄上は?」
椅子を引いて立ち上がり、コンツェは卓に広がる書面を見つめた。その中に含まれる帝都周辺の報告には、指揮官であるはずのデーテンの署名がどこにも無い。
「それが、帝都攻略においては相当の混乱が生じたようでして。行方知れずとの報告を受けております」
「行方知れず……? じゃあ戦場の指揮は、兄上の部下の誰かが代行してるってことか」
掴み上げた書面の署名は、どれも見聞きしたことのない名前ばかりだ。
「まあ、そうなりましょうな」
シバスラフは、書面に向けていた薄い茶の瞳を眼鏡ごしに上げて言った。
どうにも見通しの利かぬそのぶ厚い硝子を眺めながら、コンツェは渋い顔で肩を竦める。
「エトワルト王、今は内政に身を傾けていただきとうございます。わたくしも老齢が板について参りました。いつまでもお支えすることは
戦場のことはその者たちに任せるように。言外に諭す丞相の瞳から心情を汲もうとして、コンツェは早くも降参した。
鉄壁の守りを瞳にたたえ、シバスラフは若き王に向けて朗らかに笑う。
「おや、今宵は満月ですなぁ」
バッソス公国あたりに布陣を始めるだろう皇帝勢力。そして補給地点をひとつ失ったこちら側は、バッソスまでの推進力が足りない。
深追いすれば、補給切れは必至。向こうもそれを狙っての移動だったはずだ。時間稼ぎを許してしまった現状で、味方の勢力は作戦の組み直しを
シバスラフが眺めやる視線を追いかけて、コンツェは息を吐き出した。
大きく丸い月の光は、奇しくも
「……しばらく休憩してもいいか」
「ええ、勿論ですとも。ここ数日、お逢いしていないと伺っております」
淡く輝く月を見ながら、コンツェは苦笑した。この老人の前では、何をするにも見通されてしまうらしい。
シバスラフの言葉通り、立太子の礼から今日まで、コンツェはフェイリットの顔を見ていなかった。
帝都陥落の報せは、おそらく彼女の耳にも入っているはず。かの地で小姓に身を扮し、楽しげに暮らしていたフェイリット。その姿を間近で知っているだけに、気にかけずにはいられない。
コンツェは卓の上に散らばる書類を手短に
「半刻ほどで戻る。……と思う」
「ごゆっくり。わたくしめは夜食でもいただきましょうかな」
シバスラフの気遣いに笑みを返して、コンツェは政務室をあとにした。
*
居室前に控えていた護衛兵が、わずかながらに動揺を見せる。二人の男は同じように息を飲み、思い出したように
「下がっていい」
コンツェは苦々しい顔で頷くと、護衛に向け低い声で返す。
思えば軟禁のままのフェイリットを、王となった自分は解放できたはずだ。忙しさに振り回されて、そんなことにも気が回らないとは。
後悔ながらに開け放した扉の向こうから、ふわりと風が身を包む。明かりの灯らぬ薄暗い部屋。そこに広がる光景を眺めて、コンツェは眉をひそめる。
不用心にも部屋の主は、窓を開けたまま寝てしまったらしい。しかし視線を移して目に入った寝台に、目隠しの布は引かれていない。
コンツェははっと顔を曇らせて、寝台の側に歩み寄った。
「居ない……フェイリット」
皺のひとつも付いていない、まっさらな敷布にコンツェは顔を青くする。
帝都の壊滅は、彼女の耳にも届いているはず。もし想像していた以上に、その衝撃が大きいものだとしたら……。
コンツェは慌てるままに、開け放たれた大窓へと走る。そこからつながる露台に身を躍らせて、
「……ああ、なんて場所で寝てるんだ」
崩れるように窓枠に身を預け、ようやく苦い顔で笑った。
あろうことかフェイリットは、露台の中心に椅子を据え眠っていた。
木製の椅子はさぞ硬いだろうに、よくこんな場所で。
コンツェは呆れて息をつきながら、そっとフェイリットの横に立つ。
「フェイリット?」
声をかけても、まるで起きる様子はない。ささやかな寝息だけが、返事の代わりに聞こえくる。
ちょうど彼女の目の前の位置に、黄色い月が浮かんでいた。向かい合うように椅子を置いて、月見でもしていたのだろうか。
遥か彼方に広がる砂の大地は、海を隔てたこちら側から臨むことはできない。
彼女が眺めていたのが、月ならばいい。その先の……崩れてなくなった赤砂の城でなければ。
「まさか、な」
やわらかな風が吹き込んで、フェイリットの緩やかに巻いた髪をもてあそぶ。
海からの風は、春を迎え随分と暖かくなった。それでも寝ながら夜風に当たるのは、褒められることではない。
コンツェはそっとフェイリットを椅子から持ち上げ、寝台の上に移すことに決めた。
腕の中に彼女を収めて、アルマ山での出会いを思い起こす。あの地で抱き上げたフェイリットは、傷にまみれ、子供のように痩せて頼りないものだった。
それが今や、若葉色の寝巻きに包まれた肌は瑞々しく、月明かりに輝いてさえ見える。
離すのが惜しい気持ちにさえなりながら、コンツェは彼女の背と寝台の間から、静かに両手を抜きとった。
「んん」
身じろいで、露わになる彼女の白い太腿。隠してやろうと上掛けを掴んだところで、コンツェはその動作を止めた。
伸ばされたフェイリットの手が、なにかを探して漂っている。手を握ってやるべきか、上掛けの中にしまってやるべきか。
暫く考えた後で、コンツェは自らの頰を差し出す。無防備に寝ぼける彼女への、ささやかな復讐心……いや悪戯心だった。
「まって、」
そうしてコンツェの頰に宛てられたフェイリットの手。そっともう片方の手も添えられて、ゆるやかな速度で引き寄せられる。
抱きしめられ、頰が重なった。合わせられる温もりは、コンツェが長く焦がれ続けていたもの。
堪えきれず、彼女の耳元に唇をつける。やわらかな感触と、鼻すじをくすぐる羽毛のような巻き毛。撫でるたび、甘やかな香りまで流れくる。
花……?
それは以前、庭園で嗅いだ記憶のある匂いだった。
前にも増して強く感じられる花の匂い。花園から流れる香りだと思ったものが今、確かに彼女自身から漂っている。
いったいどうして、フェイリットから花の匂いがするのか。
原生に近い花の香りをもつ〝香〟など、存在しないはずなのに。
「……まって、いかないで」
そっと白い手が伸びてきて、コンツェの後頭部に添えられる。
「フェイリット」
コンツェは導かれるように唇を合わせて、掠れた声で彼女を呼んだ。
「――ディアス」
しっかりとした強さで抱きしめられる、細い腕のぬくもり。
「お前、」
彼女の口から出た名前に、ようやく我に返る。自らの体重を腕で支えて、コンツェはフェイリットを見おろした。
彼女の瞳がそっと開かれると、動揺の色に染められていく。
「あ、……コン……ツェ?」
「俺は
はっと目を開くフェイリット。その先につながる言葉を、コンツェは聞こうとはしなかった。
彼女の唇にくらいついて、むさぼる。悲鳴に似た声が漏れ聞こえて、コンツェはそれすらくちづけの中に封じこめた。
柔らかな寝台の上に、押し付けた身体が沈み込む。
「いつからだ?」
唇を解放されて、フェイリットは呼吸を乱したまま首を振った。
「まさか、知らないわけじゃないだろう。ディルージャ・アス・ルファイドゥル……」
湖水色の瞳から、じわりと透明なしずくが溢れだす。どこか遠くで
「バスクス二世。奴はイクパル帝国の皇帝――俺たちの敵だ」
自分でも驚くほどの、冷たい声色。コンツェの言葉に、フェイリットはゆっくりと首を動かした。
「……知ってる」
「帝都は壊滅した」
「……聞いたわ」
「わかってるのか? 帝都が落ちたってことはつまり、皇帝も討たれたってことだぞ!」
「…………っ!」
ほんの一瞬、フェイリットが大きく目を見開く。その縁から涙が幾すじも流れ落ちて、彼女は小さな両手で顔を覆った。
「わかってるよ……でも、」
「誰だってよかった。お前が想いを寄せるのが、
フェイリットの手は、年頃の女の子に相応しい大きさをしていた。
女だてらに剣を操り、
「諦めろ」
顔を覆うフェイリットの手をそっと掴んで、コンツェは言い放った。
「
手の甲にくちづけを落とす仕草は、愛する者に向ける行為。しかし口から出た台詞は、何と冷たく彼女を切りつけたことだろう。
ふと覚えた後悔すら、コンツェは気づかないふりをした。
抵抗にかざされた白い手に、強く指を絡めて。
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