127 夜空にかける星の結び目


 背中に他人ひとの温もりを感じて、フェイリットは目を覚ました。

 互いの脚が絡まり、抱きよせる腕が下腹の辺りに添えられる感触。筋張った褐色の腕が、確かな強さで身体を捕らえる。


 身じろぎも許されぬその腕から目を移せば、しわが寄りくたくたになった敷布が見えた。身体の下にたわんで、ぴったりと肌にまといつく。


 いったい何が起きたのか。自分は何をしたのか。

 どうしてここに寝ているのか。


 身体に落ちる気だるい重みと、肌にのこる花びらに似た斑……そして、一糸もまとわぬ素肌の二人。

 フェイリットは混乱のままに考え、答えを見つける間もなく身を震わせた。


 ――俺はディアス、、、、じゃない。



 押し寄せた記憶の波。その衝撃の強さに、喉の奥が、くっと音をたてる。

 

 ――諦めろ。



 気を失うほど、何度も繰り返された行為の中で。擦り込むようにささかれた愛の言葉よりも、その台詞は鮮明だった。


 ――ディアスは死んだ。



 どうしてこんなことに。


 うす雲の混じる紺青こんじょうの空。ぽっかりと浮かぶ満月を見上げて、無性に寂しくなったのを覚えている。

 フェイリットは、その寂しさのみなもとに気づいていた。

 椅子を露台テラスに持ち出して、ゆっくりと夜空を仰いで。包まれるような優しい夜の感覚に、じっと身をゆだねた。


 かたくなに、椅子での就眠を続けているはずのディアス。

 同じように目を閉じて、ほんの少しだけ繋がったような気にもなった。

 ――彼も今ごろ、こうして月を眺めていたらいいのに。

 そうしてフェイリットは、帝都陥落の報せを聞いても、皇帝の亡骸を探す旨を聞いても……、

 ただじっと月に向かい続けた。



「……起きてるのか」

 物思いに沈みながらも、微動だにせず息をひそめていたのに。うなじにあたる唇が、息づかいに震える。

 振り返り、フェイリットは間近に迫るコンツェの瞳を見つめた。

「コンツェ」

 合わせられる黒鳶くろとび色の眼差しには、捉えようのない感情が揺れている。

 黒に見えて、うっすらと混じる深い紺の虹彩。それはくちづけをする程の近い距離で、ようやくわかるコンツェの特徴だった。

 そして、ディアスも……


「……お湯を。用意してもらってくるね」

 じわじわと迫る虚ろな思考にふたをして、フェイリットは声を絞りだす。

 コンツェが驚いたように口を開けて、……閉じた。責め立てるような言葉を、望んでいたに違いない。けれどフェイリットには、それを口に出すだけの気力など、残されてはいなかった。

 泣いて誰かを責めたてても、もう遅すぎた。

 失くした物は返らない。母もサミュンも、幸せな山小屋の生活も、居場所だった帝都も…………ディアスも。

 何度も味わって、泣きながら諦めてきたのだ。


「いつもティリ・ヤローシテ夫人が、朝の用意をしてくれるの」

「フェイリット」

「だからね、ついでにお湯もお願いし」

 一糸も纏わぬまま。よろよろと寝台を抜け出て歩くフェイリットの肩を、熱い手が掴み寄せた。

 しばらくの逡巡ののちに、コンツェは言い澱む。

「俺は……」

 掴み寄せたフェイリットの肩から、そっと手を離して。コンツェは静かな声で続けた。


「無理矢理お前を抱いた。……人生で一番、忌み嫌ってきた人間と同じく」

 〝忌み嫌ってきた人間〟を指すのは……おそらくイクパルの先帝アエドゲヌ。彼の血縁上の父親だ。

 テナン公妃を所望して、力づくで後宮ハレムに囲おうとした。と、以前に聞いたことがある。

 結果としてコンツェが生まれたけれど、公妃はその心労と肥立ちの悪さで亡くなったとも。


「フェイリット。俺を殴っても罵倒しても、昨夜みたいに引っ掻いたっていい。その権利がお前にはある」

 事実をありのままに言う彼の口から、贖罪の言葉は出ない。すまない、大丈夫かと――いつも優しく気づかってくれたコンツェ。

 目の前にいる〝テナンの公王〟は、最早フェイリットの知る優しい青年ではなかった。


「……だからお願いだ、そんなに平気そうにしないでくれ」

 懇願するコンツェ自身が、一番平気ではない顔をして。

「言い訳はしない。口先だけの謝罪も。だから、一生をかけてこの罪を償う」

 そうして、掠れた声を吐き出すのだった。

 肩から包められた上掛けを握り、フェイリットは立ち尽くす。彼の真摯な眼差しを、もう真っ直ぐ受け止めることができない。


「お前を愛させて欲しい。――結婚しよう、フェイリット」


 そして告げられた台詞に、フェイリットは力無く笑った。動かした頰を、ゆっくりと涙が伝ってゆく。

 泣くのも悩むのも責めるのも、もうおわりなのに。

「もう……いいの」

 身体を包む柔らかな布を払い落として、コンツェの腕から抜け出る。


「応えられない。わたしは……人間じゃないから」

 声に出して言ってから、フェイリットは「ああ」と頷いた。

 人間じゃない。お前は竜だ。そう、何度も言い聞かされて育ったはずなのに。せめぎ合うヒトの部分が、いつもそれを否定していた。

 けれど今ならわかる。




 人として生きることは、なんて面倒で、悲しくて、辛いのだろう。




「わたしは人間じゃない」


 込み上げる熱い苦しみを吐き出すと、目の前が真っ赤に染まっていった。

 口から溢れ出た液体を、崩折れるまま床に散らす。両の手を皿にして受けとめれば、それは大量の血液だった。

 血にまみれ、痛みに耐えきれず床に身体を擦り付けて。回りはじめる視界の混濁に、沈んでいくようだった。


「わ、たしは……」

 むっとするような、濃い花の匂い。充満するその匂いが、意識を朦朧とさせる。

 本来なら、鉄錆てつさびに似た臭いがするはずの血なのに。どうして。

「りゅ、」

 慌てた声が、遠くで懸命に名を呼んだ。名前。フェイリット、サディアナ、タブラ=ラサ、あとは……そうだ、化け物……。

 自らに相応しい呼び名をやっと見つけて、フェイリットは身体の力を抜いた。


「――フェイリット!」





* * *



 フィティエンティ・ティリ・ヤローシテにとって、それはいつも通りの朝のはずだった。

 洗面のための水差しは、冷たさを抑えるために湯を少しだけ混ぜてある。サディアナ王女の体調は、船で見た頃より日増しに良くなっていた。軽い運動くらいなら、楽しんでやれるほどに。


「今日のお日柄なら、外を歩くのもよさそうですわね」

 朗らかな心地よい朝を感じながら、フィティエンティは独りごちる。

 一向に〝軟禁〟を取りやめようとしない新しい王。エトワルトは、サディアナ王女を忘れてしまうくらい、政務が立て込んでいる様子だった。

 彼女を思い出させるためにも、外出の許可を願ってみよう。そう心に決めながら、王女の休む居室の前に立つ。


「誰か!!! 誰かいるか!」

 サディアナの居室に張り付いているはずの、監視の兵の姿が見えない。その違和感に首を傾げて、フィティエンティは扉を開ける。


 いつも通りの朝のはずだった。


「誰か!! フィティエンティ!!!」


 血まみれの寝台と、血まみれの男女。

 扉を開けたその先に、直視するのに耐えがたい光景を見つけるまでは。


「エトワルトでん……陛下、な……」

 身支度のための水差しを抱えたまま。

 フィティエンティは、その場に力無く膝をつく。

「人を! 御典医を呼べ!」

 いつになく血相を変えたエトワルトが叫ぶ声を聞いて、フィティエンティは立ち上がった。




 駆けつけた老齢の御典医は、サディアナ王女を診て首を横に振った。

「口からの大量の失血は、もう少し詳しく診ないとわかりかねますが」

 部屋には丞相をはじめとするテナン側の重鎮たちと、メルトロー側の王子たちが顔を並べている。

 その横で身支度を続けるエトワルトは、誰よりも淡々として、落ち着いて見えた。

「しかし、こちらは……」

 王女に掛けられた大判の布を足下からめくって、御典医は渋い声で続けた。


「妊娠の継続は望み薄でしょうな……」


 ガラン、と何かが落ちる音が響いて、目をやるとエトワルトだった。持ち上げた剣を腰に挿そうとして、取り落としたのだ。

 その顔に、さっと青い色がさす。

「まだほんの初期のようですが、こちらも出血が多い。お若いお二人ですから、また次も――」

また次、、、?」

 暗い声を発して、エトワルトは眉間に皺を寄せた。


 蒼白な顔で横たわるサディアナ王女は、診察のあいだ、これだけの人に囲まれても、目を開けることはなかった。

 か細い途切れ途切れの呼吸だけが、その命が弱く続くことを示すのみ。


「……最善を尽くして治療にあたってくれ。それとシバスラフ丞相、」

「――はい」

 老齢の宰相は若い王に向けて、ゆっくりとこうべを垂れた。

「メルトロー国王に委細を伝える」

「――はい」

 その表情を見つめながら、フィティエンティは息をのむ。

 シバスラフの顔が、痛々しく歪められた。それはほんの一瞬で、下げられた額に隠されてすぐに見えなくなったけれど。

 それはきっと、彼の〝亡き娘〟を思い起こしての眼差しだ。シバスラフの娘であり、テナンの元公妃であり、コンツ・エトワルトの実母である女性への。



「サディアナ王女との結婚の許可を」 


 エトワルト王は賓客と重鎮を多数引き連れて、血の香りの残る部屋を去って行った。



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