116 覇気のにおい


 サディアナの部屋の前には、常に兵士が一人立つ。〝万が一〟の対処も兼ねて、簡易の鎧と帯剣も許されているごてごての奴だ。


「ばかだなぁ」

 潮風に攫われるひと房の髪を耳にかけやり、アシュケナシシムは囁く。

 万が一にもサディアナが、竜に変わって逃げようものなら。ここに居る誰も彼女を止めることなんてできない。

 その点だけなら、第一王子ディフアストンが言い放つであろう〝監禁と拘束〟の命令は正しかった。

 エトワルトはサディアナを、ただのか弱い少女と思い込みすぎている。


「やあ、おはよう」

 アシュケナシシムは黒錆くろさび色の鉄で覆われた扉の前に行き着いて、兵士の顔をまじまじと見やった。

「お前に監視の命令をしてるのは誰?」

 質問に、男がわずかにたじろぐ。この反応なら十中八九、彼を支配しているのはギルウォールではないだろう 。

 艦上でギルウォールの次に位の高いアシュケナシシムは、柔和に微笑んで兵士の肩に手を置く。


「じゃあ、僕の命令を聞けるね? サディアナと話がしたいんだ。そこを退いて、しばらく散歩してきてくれないかな」

 兵士の分際では、王族に話しかけることは許されていない。目の前の男は小さく同意に頷いて、敬礼ののちに去って行った。


「……聞いてるよね? 入るよ、姉さん、、、

 扉を叩くのも億劫おっくうで、今のやり取りを聞いていただろう中の人に向けて声をかける。程なくして扉は内側から開かれ、サディアナの透明な水色の瞳が同じ目線に現れた。

「来るような気がしてた」

 はにかんで、サディアナは笑った。

 わざわざ様子を見に来たのに、さして変わった風はない。けろりと言う姉に拍子抜けして、アシュケナシシムは声を渋らせる。

「……大丈夫なの?」

 とりあえずかけてみる心配の言葉。サディアナは首を傾げて曖昧に頷く。


「エトワルトが、君を見て来いってさ」

 部屋の中に入っていって、アシュケナシシムは遠慮もなく寝台の上に腰を下ろした。その動作にふわりと漂った優しい香りが、どこかで嗅いだ気がしてならない。

 どこだったかな。記憶の隅を探っていると、サディアナは戸惑うように眉を寄せた。

「…コンツェ、何か言ってた?」

 ほら、やっぱりなにかあったんじゃないか。ため息のままに首を横に振り、アシュケナシシムは自らの横の寝台を叩く。


「何も言ってない。手篭めにしたんだろって言ったら、そう見えるかって返されたよ。されたの?」

 叩いた寝台のあたりに腰を下ろして、サディアナは小さな息を吐いた。

「……されてない。何もできなくて」

「何も?」

 何もしていないのに、よくもまあ、あのひどい顔ができるものだ。アシュケナシシムは呆れるままに、身体の力が抜けていくのを感じる。


「いや、何もというか…キ…スは」

 恥ずかしそうにわたわたと手を顔の前に上げて、サディアナは小さくうめく。

 ようやく見えてきた事の経緯いきさつ。アシュケナシシムは苦虫を噛み潰したような気分になって、やれやれと息を吐きだした。

「傷つけたくないから抱かれるような尻軽なわけ」

 エトワルトを傷つけたくないその気持ちは、よくわかる。あの純粋な心根を手折ったなら、襲い来る罪悪感に押し潰されてしまうだろう。

 すでに手折り続けている現状で、自分はこんなにも苛まれているのだから。


「あいつは大丈夫だよ。僕に姉さんを見に来させるくらいの余裕は残ってる」

 サディアナは頰を赤らめたまま、足元をじっと見つめていた。

 さしたる再会の挨拶も感慨の言葉も、自分たちは交わしていない。けれど十六年間生き別れて過ごした弟と、こんな話は恥ずかしくて堪らないだろう。

 まったく何を考えているのやら。深刻な顔で足元を見続ける姉を横に眺めて、アシュケナシシムは思わず噴き出す。

「……それとも、やっときゃよかったとか考えてる?」

「えっ? なっ、え?!」

 顔だけで火柱が上がりそうなサディアナの反応は、ちょっとだけ癖になりそうだ。アシュケナシシムは意地悪く笑いながら「あいつ、多分上手いよ」と続ける。


「少なくとも右も左もわからない奴じゃないし、気質は優しい。つまり相手に合わせて色々と丁寧で……」

「そっ、そそそ、そんなことより!!!」

 慌てたように立ち上がって、サディアナは衣装箱を開けた。いくら動転していても、気を逸らすのが下手すぎる。

 アシュケナシシムは更にからかいの言葉を繋ごうと口を開けて、

「あれ、その匂い……」

 ふたたび漂う香りに気づく。

「―――なるほど」

 まるでずっと前から寄り添っていたような、不思議な感覚。彼女の匂いを嗅ぎ、その瞳を見つめて……〝竜を追う者アロヴァイネン〟の真髄がふとよぎる。

 カランヌが追っていたサディアナの匂い。覇気にも近いと言われるそれは、確かに存在したのだった。


「ね、アシュ」

 衣装箱から振り返るサディアナの顔は、もう平常を取り戻していた。

「…ちょっとだけわたしのお願いも、聞いてくれない?」 

 その手に広げられた真っ白なサテン地のドレス。

「え?」

 彼女が身に纏うものと全く同じそれを見つめて、アシュケナシシムはたちまち顔を歪めた。

 ……意地悪く笑う姉を、今度は自分が怖れる番だった。

「し、信じられない……まさかそれ」 

「ちょっとだけ、ね? あとこれも貸してね」

 楽しそうにアシュケナシシムの衣装を掴んで、サディアナは微笑んだ。


「よし、着るもの交換しよう」

「……君たち、、、は遠慮ってものがないわけ?」

 さっさと手際よく脱がされて、頭の上から肌触りのよい布が被せられる。ドレスといっても寝間着だから、コルセットは無いし華美な装飾もないけれど。

 鏡に映ったあまりの格好に、アシュケナシシムは寝台に身を倒した。

「勘弁してよ。これじゃ外に出られない」

「ごめんね、ありがと。しばらく具合悪そうに寝ててくれたらいいから」

 屈託のない笑顔を残して、サディアナは堂々と外に出て行った。


 ドレスよりも余程しっくり似合う〝王子の姿〟。船室の硝子窓ガラスまどに映ったサディアナは、足取りも軽やかに颯爽と通り過ぎていく。



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