117 制海の王子
飴色に磨かれた
操舵のための部屋は通常、艦の先端に潜り込むよう備えられる。それは四方を壁に囲まれ、進行方向と左右にいくつも物見窓が付いた部屋だ。嵐が来ても風が吹いても、敵が迫っても舵が取れる閉ざされた空間。
しかしフェイリットが目にした操舵席は、少し高い壇上に、車輪型の舵が剥き出しに誂えられた簡素なものだった。
「よう、船酔いはもうおさまったのか?」
鼻歌をふとやめて、その人は舵から片手を離す。こちらを振り向くのだとわかって、フェイリットは少しだけ身構えた。
メルトロー王国第二王子、ギルウォール。
初めて〝兄〟という存在を目の当たりにして、緊張感に負けそうになる。王位の継承権も考えたなら、本来は口を利くことも稀な間柄だ。
「どうした、」
日に焼けた赤ら顔に並ぶ、薄い灰色の瞳。ゆっくりと細められるその眼差しを受けて、フェイリットは慌てる。
「あっ、はじ! はじめまして!」
開襟の生成りの上衣に上着を重ね、太腿に沿う下衣は焦茶色。長いブーツに至っても、アシュケナシシムの衣装は合わせたようにぴったりだった。
弟から強引に〝借りた〟衣装を
「…ま、はじめましてじゃねえがな。小ちゃいお前を抱っこした」
歯を見せて笑いながら、ギルウォールは間の抜けたような声で言った。
この不可解な格好を見ても、なにも言わない。大らかなのか、単に注視していないだけなのか。
兄の人柄を図りかねて、フェイリットは首を傾げる。
「まあ、今でも小ちゃいか? うちの家系は女もでっかいの揃いだからなぁ。そのうち寝ても覚めても、身体が痛ぁい時期が来るぜぇ」
その手のひらが頭の上に置かれるのを、フェイリットは黙って見つめる。込めていたはずの力が、ふわりと自然に抜けていった。
「でも、ちょっとだけ伸びたんですよ最近」
「おお。それは良かったじゃねえか」
ついさっきまで畏縮していたはずなのに。いつの間にか彼の横に立ち、海が泡立つのを眺めている。
ゆったり流れる潮風が頰をさらって、ここの空気は心地よい。雨が降ろうが嵐になろうが、吹き
「いい風だろ。悩みも吹っ飛ぶくらいにな」
すぐ隣から、朗々と笑い声が鳴りひびく。瞼を閉じると、どことなくサミュンの笑い声にも似て聞こえた。声が似たり、眼差しが同じだったり……血縁とは不思議なものだ。
「あの……兄上」
彼の〝悩みも吹っ飛ぶ〟という言葉に、ここに来た理由をふと思い出す。
「誰にも見つからなかったのか?」
軟禁されているはずの〝妹〟が目の前に現れた。気がつかないように振る舞っていながら、彼も疑問を感じてはいたのだ。
「……はい、」
いくら衣装を取り替えても、見る者が見たならすぐに分かる。アシュケナシシムと自分とは、髪の長さや色合いにおいて判別は容易だ。
「得意なので」
気配を消して、監視の隙をついて抜け出すようなことが。あまり褒められることではない特技をさらして、フェイリットはそっと嗤う。
「メルトローに向かっているのですよね」
操舵の手を見つめ、静かな声で問う。
ギルウォールはこちらを向いていた顔を海に戻して、首を横に振った。
「いや、テナン公国だ」
「テナン……」
思っていたのと同じ答えに、フェイリットは息をつく。
コンツェがメルトロー側の人間たちと一緒に居る。そのことが、ずっと思考の隅に引っかかっていた。
何かしらの企ての香りを嗅ぎとって、フェイリットは眉をひそめる。
「テナン公国は独立する。
「独立、というと……イクパル帝国の支配から抜けて〝自立する〟という意味ですよね?」
イクパル帝国の支配から抜けたと思ったら、新たな飼い主がメルトロー王国に代わっただけだった。そんな結末を見つけて、フェイリットはさらに暗い声を出す。
「そういう風に聞こえるなら、幸せなことだがね」
ギルウォールは軽い口調で言いながら、淡黄色の短い髪を乱雑に掻きやった。
「けど、わざわざ確認するってことは、わかってんだろ?」
フェイリットは兄の横顔を見つめながら、そっと奥歯を噛み締める。
独立だけでは決して終わらない。テナン公国とイクパル帝国を戦わせ、疲弊したところをメルトロー王国が掠め取る。それほど簡単で手間のかからない侵略は他に無いのだから。
フェイリットの顔色をまじまじと見つめて、ギルウォールは小さく笑った。
「あのサミュエル・ハンスに育てられたんだもんな」
「……ギルウォール兄上」
冗談じゃない。そう声を荒げようとしたところで、ギルウォールは両手を胸の前に挙げる。
「待った待った。サディアナ? さてここで、俺は提案しようと思う」
舵から両手を離した兄を、フェイリットは目を剥いて見つめた。どう見てもふざけているようにしか見えない顔で、ギルウォールは首を傾げている。
「……なんでしょうか」
小さな吐息まじりの言葉を返し、暗い顔で兄を見つめる。
メルトロー王国の中枢は、フェイリットが〝覇王を選ぶ竜〟だと熟知している。そんな前提の上で持ち出される提案や取引に、嫌気を示さずにはいられなかった。
ギルウォールはしばらく考えるように腕を組んで沈黙して、
「―――〝にいに〟って呼んでくれねえか」
言いながら、邪気のこもらぬ笑顔を見せる。
「……えっ?!」
想像をはるか斜めに越えてきた〝提案〟。思わず身を仰け反らせて、フェイリットは自らの耳を疑う。
俺と契約しろとか、寿命を延ばしてくれとか、もっと……。
「いや、すまん。無理だったら〝おにい〟でもいい。〝おにいたま〟でも〝おにーちゃま〟でも」
どうだ? と顔を近づけられて、フェイリットは開いた口がそのままだったことに気づく。
提示される呼称が、挙げるにつれて恥ずかしくなっている。それでもそこは抗議する点でないような気がして、フェイリットは首を振った。
真面目な取り引きかと一瞬でも考えた、自分の思考が馬鹿らしい。
「…ギルウォール
フェイリットはため息ながら、兄王子へ向けて礼をする。
メルトロー王国が、ついに侵略へ動いた。その企みが知れただけで、良しとすべきか。
それに、監視の目を誤魔化すには潮時でもある。アシュケナシシムの気質を考えれば、そろそろ
自室に戻って、彼が大人しくしているか確認しなくては。
「まっ、待て待て!」
退去の礼に移るフェイリットを見やって、ギルウォールは真面目な声を出した。
「兄貴はたくさんいるんだぜ? 俺は
言い終わる前に、ギルウォールは口元に手を充てる。
「え? 兄上、大丈夫で……」
どんどん蒼白になってゆく兄の顔を見上げながら、フェイリットは慌てた。
「…………うっ、」
ギルウォールは弾かれたように欄干まで走っていって、
「おゔえぇぇぇええ!」
大仰に、海へと向かって吐き散らかした。
「……くっそ、おさまったと思ったらこれだぜ…」
蒼白な顔のギルウォールの背についてさすりながら、フェイリットは首を傾げる。
起こりすぎた出来事が、理解の
「ああ、言ってなかったか? 俺は波に弱いんだ」
お揃いだな。出航して四日目、〝海軍艦隊総司令〟の男は、こともなげに言いやる。
「…もし呼んでくれたなら、〝一個だけ〟可愛い妹の〝お願いごと〟を聞いてやってもいいんだがなぁ……」
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます