99 鏡の中の蠍
イクパル帝国軍近衛師団中隊長――という階級は、皇帝に謁見することはまず絶対にない位だ。
「……似合わないな」
コンツェは深いため息を吐き出して、鏡の中の自分と対峙する。
写っているのはテナン公国の公子の姿。
深い群青のローブに、剣と
膝頭まで覆う革の
「似合ってるよ、どこから見ても王子様だ」
皮肉なのか賛辞なのか、アシュケナシシムが笑っている。そう言う彼は侍従に扮して、顔を完全にヴェールで覆い、空色の目だけをきょろきょろとさせていた。
「王子って柄じゃないんだ、俺は。肩書きだけなら荷が重すぎる」
イクパル帝城の一室。本来ならばテナン公王に与えられた公爵の間で、コンツェはだらだらと準備に渋る。
三門をくぐり室内に通されて、早一刻もの時間が費やされていた。皇帝を待たせるなどと、本当ならしてはならないこと。
なのに〝向こう側〟から催促の達しもないなんて、どう受けとればよいのか見当もつかない。
「肩書きなんてそんなものだと思うけど。わくわくしないの? お兄さんに逢うんでしょ」
「……お前だって知ってるはずだ。バスクス二世の醜聞を」
さして会いたくもない……というより、敢えて会いたくない気持ちが強い。
昇進を拒んでいた理由は他にもあったが、本当はこれが一番の理由なのだ。
「そりゃあね。女ばかり囲って、するべき義務に手もかけない。暗殺計画、上がってるんだろ? テナンが発ったら、他公国も足並みを揃えるものね。……まあ、同じ王族として恥ずかしいよ。たぶん僕の方が、よほどうまくやれる」
「そういう〝兄〟を持って、わくわくなんてしないだろ」
コンツェの辛辣な口調に、アシュケナシシムは悪びれない声で明るく笑う。
「そうだね」
同じ血を持つ事実上の〝兄弟〟は、どうしようもなく愚鈍な男。
母を弱らせ父から奪い、国に疲弊をもたらした先帝アエドゲヌの、女への執着をしっかりと引き継いでいる皇帝だ。
幼い頃テナン王に連れられ一度だけ、コンツェはまだ皇子であったバスクス二世に目通りしたことがあった。目通りというよりは、「通り過ぎる」と言ったほうが正しい表現かもしれない。
そうして即位以来、公然と隠れているバスクス帝の顔を、よもや四公王でさえ克明に覚えていることはないはず。
「行くよ」
中隊長としての方が、まだましであった。まさかこの自分がテナン公国の公子として皇帝に目通りすることになるなど。思ってさえいなかったのだ。
「行ってらっしゃい。僕はこの部屋で待機ね」
手をひらひらさせる彼に苦笑を向けて、目の前の幕を捲り上げる。
「……お前、」
驚いた声を出し、コンツェは足を止める。見下ろしたその場所に、膝をついて頭を下ろし、トリノが畏まっていたのだ。
「お待ちしておりました。玉座までお連れ致します」
「……ずっとここに居たのか」
顔をしかめて、跪くトリノの頭をじっと見つめる。
「自分の足で出てくるまで、ここでお待ちするように言いつかりましたので」
コンツェは面食らって口を開けたが、何も言わぬままほぞを噛んだ。
どうりで、催促が無いはずだ。余裕を見せられているのか、それとも譲歩されているのか。
「それは、宰相だな」
愚鈍な皇帝の右脇に立つ男の存在を、忘れていた。
ウズの命令だろう、というコンツェの問いに、トリノはただ沈黙する。
「……わかった。連れていけ。もう覚悟はできてる」
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