98 末子の王女
何度抱いても、何度自分に言い聞かせても―――腕の中の柔らかな温もりを諦めることができない。
牢獄から見上げた切り取られた小さな空は、俺の手には届くことのない眩しい光だった。美しい、硝子のように淡い青色の。
腕の中で安らかな寝息をたてる少女の唇を撫でながら、
「すまない……フェイリット」
もうこれが最後だと自分に誓う。
「俺の死は、どうやら無駄になるかもしれん」
* * *
「おはようございます、ウズさま。ただいま戻りましたー」
捲り上げた深緑の垂れ幕は、肌触りがよく軟らかい。いつの間にか新しくなったそれを掴んだまま、フェイリットは関心したように幕をひらひらさせた。
「これ、綺麗ですね」
「タブラ=ラサ……なぜここに?」
横から声を受けてはっと気づき、膝を折って礼をとるが――上げた顔でフェイリットが見たのは、意外だと言わんばかりに眉をひそめるウズの顔だった。
「え、戻ってきちゃ駄目でした?」
小姓の仕事に戻ります――そうバスクス帝に告げたら、意外なまでにあっさりと許可がでた。
あまりにも軽い二つ返事で、ひょっとすると当初から、バッソス行きが終われば小姓に戻される予定だったのでは? そんな解釈までしていたのだ。
「――そんな目で私を見るのはやめなさい。おまえは
余計にぼさっとして。という最後の言葉が、ウズの口中からぼそぼそと聞こえ漏れてくる。あえてはっきりと口に出さなかったのは、その言葉の途中で、フェイリットが伏礼をとったからだ。
「宰相閣下、」
床を見つめたまま、フェイリットは固い声を押し出した。
蔓の模様が描かれる絨毯の、濃い茶の複雑な線を膝元からたどり、ゆっくりとウズの座る卓の足下まで視線を動かす。
「……リマ王国、メルトロー王国、ガズエト自治国、フレイ・マダリ皇国、ローフォン共和国、ケタンラタ王国、ミタフェル大国、ワゴス王国、フルマゼート王国、メキサ王国、北ジオロール連邦、南ラノロール連邦、アルタ法国、ハプトグ王国……このアルケデア大陸には、イクパル帝国を含めても十五の国々が存在しています」
突然の言葉に、ウズは申し分のないほど不可解な顔をした。
アルケデア大陸は、三つの大きな陸地が、何本かの人工の橋で繋がれてできている。厳密には〝三大陸〟となるはずだが、どの時点で齟齬が生まれたのか、その三つをすべて含んで〝アルケデア大陸〟と呼ぶのが慣例だ。
そしてそのすべての国々を数えると、十五カ国。統治者のはっきりとしない国を含めたなら、きっともっと数が増えることだろう。
「――もし、わたしがそのすべての国の言語を話せるといったら、信じますか」
そこまで言ってから、頬を緩めてウズを見つめる。
「ご存知なんですよね?」
「…何を、」
明らかに驚いたような表情が、ウズの顔を一瞬かすめる。
彼が何を知っているのか。
それを疑えばきりがない。けれどバスクス帝がタントルアスの肖像画を提示できたように、その側にいたウズは当初から、フェイリットの素性がメルトローにあることを確実に知っていたはず。
「メルトローの十三番目なのだろう、って。陛下に訊かれたんです。ここに来るまで、わたしはタントルアスなんて大昔の人で、自分には全然関係がないと思ってましたから。あ、でも王女っていう自覚も、あんまり無いんですけど」
――イクパルをメルトローに燃やさせないために、サディアナ・シフィーシュには何ができますか。
バッソス公国で、バスクス帝にぶつけた問い。
サディアナ・シフィーシュという人間が、イクパルを護るためにはどうしたらよいのか。そうして得られた彼の答えが、〝次の皇帝のジャーリヤとなれ〟だった。その提示に対して、フェイリットは未だ彼に答えていない。
けれど選ぶまでもないこと。自分がそばに居続けたいのは、他ならぬ彼だけなのだから。
「わたし、陛下を手伝いたいんです」
「手伝う?」
「はい。
もしも竜になったなら、大陸の端から端まで、無尽に行きかうことができる。
それはまだできないけれど、今ここでハレムに閉じこもってしまっては、彼の役には立てないのだ。
「ウズさまのお仕事をこれまで通り補佐できたら、陛下の為にはなりませんか……?」
「……お前は……まさか、バスクス帝を好いているのですか」
ウズは驚きを含む声で、噛み砕くほどにゆっくりと問うた。
その質問にフェイリットは言葉をつまらせると、とたんに頬を真っ赤に染める。けれどその赤い顔のまま、次にはぱっと晴れやかに微笑み、はっきりと頷くのだった。
「はい、お慕いしています」
* * *
「……そのまま隠れているおつもりですか」
横の衝立をわずかにずらすと、なんとも複雑な面持ちのバスクス帝が、片手で顔を押さえて立っている。
ウズは溜め息をつくと、爽やかな風がぬけた後の、ゆれる垂れ幕に目を移した。
「いい歳してそんなところに隠れて、こっそり照れないで欲しいものですね。気味が悪い」
毒づいてやると深い溜め息が聞こえ、ウズは肩を揺らして笑う。
「何とでも言え」
本人がいないからと気を抜いたのだろう。彼女が話した懇願の言葉は、裏を返せばすべてがバスクス帝に捧げられたもの。
――タブラ=ラサでいるより陛下のためになることがあるのなら、わたしは喜んでハレムを出ます。
あんなに人生をかけた〝告白〟を、ウズは初めて聞いた気さえした。その台詞を耳にした当人がこの状態では、どうにも様にはならないが。
「どこが宜しいのですか、あの娘」
メルトローの王女だという肩書きを好んでいるわけではあるまい。
そもそも〝王女らしさ〟など皆無の野生児で、これまで彼と噂になった女たちとは、控えめに見ても方向性が間逆だ。愛らしいといえば愛らしい。しかし〝女〟という視点なら、まだまだ青い小娘にしか見えない。
「……さあな」
バスクス帝はその問いを鼻先で軽く笑いとばして、衝立から身体を離した。そのままウズのいる卓に浅く腰をつけると、ひとつ間を置いて口を開く。
「にしても、あれも分からんやつだ。まさか大陸中の言葉をとは」
「ええ、相当な教育を受けてきたとしか思えません。メルトローの十三番目といったら、末子も末子。いったいメルトローは、そんな末子に何を継がせるつもりだったのでしょう」
メルトローの次期王と言われているのは、御年三十九歳の第一王子だ。丞相位についている男も、まだまだ壮年にさえ届かぬ年齢。
後継には不足しないその情勢の中で、高水準の教育を末子の王女に与える理由が、いくら考えても浮かばない。
末子の王女といったら、政略結婚のために駒として育てられるのが専らだというのに。そして施される教育は、淑やかさを全面に押し出した、教養と呼ぶに近いものになるはず。
「十五カ国とは、教養の範疇とは考えられんな。かといって、あれは工作に向いた性格でもない」
「あの条件を喫んで頂けただけで、よしとしましょう。いるはずの
小姓の立場を温存する代わりに〝
「籠」に縛られてすごすより、時間的にはずっときつい。ハレムにいたなら、のんびりバスクス帝を待って時をすごせるというのに、それでも彼女は好まなかった。
「ああ。それにしても、私の役に立ちたいなら、私の小姓になりたいと言うべきだろう。なぜお前のところに、」
「……それは私のほうが、陛下よりも仕事をしているように見えるからでしょうね」
事も無げに言いやると、バスクス帝は肩を竦めて苦笑した。
実際は、表立った政務をウズが引き受け、目に付かぬような政務をバスクス帝が行うという二人羽織だったのだが。
夜中にウズの執務室にこもるバスクス帝の姿を、彼女も何度か目にしているはず。それでも〝こちら側〟に来るというのなら、おそらく気づいてはいないのだろう。
政務にまったく
「コンツ・エトワルトは?」
「じきに到着するかと。どちらで接見なさいますか」
今のうちに説得しなくてはならない人物。
こちらから呼び出そうと構えていたら、コンツ・エトワルト自身から謁見の伺いがのぼってきた。
となると、これはまたとない機会だ。コンツをテナンから切り離し、帝国側に留めて皇帝の玉座を見張らせるために。
「中央区ではなく、皇帝宮にする」
――お許しを頂いたこと、陛下にも話してきます。
そう意気込んで出て行った少女は、今ごろはきっと彼の室だ。彼女に〝真実〟を見せるため、バスクス帝は皇帝宮を選択したのだろう。
ウズは首だけで頷いて、腰を落ち着けていた椅子から立ち上がった。
「私はトゥールンガの様子を見て参ります。調査の報告があがってきましたら、そちらに向かいましょう」
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