95 薔薇の裏庭


 前触れもなく訪れたその人に、アンは目を見開いた。

「陛下…どうなさったんです、」

 普段は改まることのないこの口調も、驚きのままに変えられる。何がどうなって、この私的な空間であるトスカルナ邸にこの人が現われるのか。


「……ここへ来るのも久しいな」

 しみじみと呟いて、ディアスは周囲をぐるりと見回す。薔薇の植えてある庭、ここから見える王宮の景色、部屋へと通じる細い回廊―――八年前と何一つ変わってはいない。いや…彼が居たころは、薔薇を植えてはいなかったか。


 彼の、少し低くなった声と、幼さの完全に抜け切った鋭利な眼差し、何よりも皇帝として貫禄を増した風体を見つめアンは思う。ただ変わったのは自分達だけだと。

 もはやこの長い年月、二人の間に男女の関係があっただろうことは誰しも覚えてはいないはずだった。


「何か御用が? このような夜更けに、ウズも屋敷には戻っていませんよ」

 ようやく〝現在の〟自分を思い出し、言葉を繋げる。

 ディアスは皇帝の正装のまま、薄めの外套を羽織っている。先ほど玉座を見上げた時から変わっていない。

 一方の自分は、寝ぎわのために女物の寝衣を纏っている始末。――女を捨てた自分が、こうして再び軍服を纏わずに誰かと接するなど。着替えるのじゃなかったと後悔しつつ、ディアスの黒の瞳を見上げた。


「やはり、軍医を辞める気にはならないのか」

「……ありませんね、今の職が天職だと感じてます」

 ふ、と吐き出すように笑って、ディアスは肩の力を抜いた。

「八年前、いきなり姿を消したアンジャハティ嬢が、五年ののち現れ医者になると聞いたときには、驚いたものだ」

「……ええ」


 わずかに笑って、アンは庭を見つめた。深紅の薔薇が咲き誇る、美しい庭園。八年前とは代わりはないが、この薔薇が咲いた様をディアスが見ることはなかった。


 五年のあいだ、医学を学ぶために隣国のリマへ密航し、それから帰って軍へと入った。トスカルナという皇籍は失ってしまったが、それはかえって幸運でしかなかった。皇家トスカルナの姫ともなれば、婚姻は避けられない。なによりも女であることから逃げたかったあの頃の自分に、「家」は重すぎたのだ。


「……ウズルダンが植えたのだったか」

 薔薇の咲く庭に降りて、ディアスはその低い声を発する。

 暑い気候の中で、この薔薇はほとんど一年中咲くように改良されている。けれど盛りというのがもちろんあって、今の時期はまだ蕾が大部分を占めていた。


 ディアスは美しい花弁を垂らすものではなく、深紅の色がわずかだけのぞいている蕾のほうをじっと見つめている。

「腹の立つ兄でしょう。これで償いのつもりなら、あの涼しい顔を殴ってやりたくなります」

 その目線の先、一際大きく咲く薔薇の蕾に手をかけて、手折る。

「差し上げますよ。この蕾がお好きなら」

「蕾か……耳が痛いな」

「痛くなるようなことでも、なさったんですか」


「――いや。いいかげん、皇籍に身を戻したらどうだと言いに来たのだが。あの老いぼれが死んで、もう二年にもなる」

 名前までアンだなどと、とても皇族の姫君らしからぬものを名乗って。

「アンジャハティ姫は死にましたよ。八年前に、背中の傷が元でね。今あるのはただのアン、男でも女でもない一人の人間です」


 背の傷も、……腹の傷も癒えた。ただうっすらと残る桃色の瘢痕を残して。


「ならばその一人の人間として皇族に戻れ。婚姻せずともトスカルナを継げるよう計らってやろう」

「……陛下? トスカルナはウズが、」

 言いかけて見やると、ディアスの褐色の頬には苦笑めいたものが浮かんでいる。

「勅命は下さん、アンジャハティ・トスカルナ。早く皇族に戻る決心をしろ」


 薔薇の蕾を手の中でくるくると回しながら、ディアスはこちらに背を向けた。

「何をなさるおつもりですか」

「……何も」

 広くて大きな背中を見上げて、アンは顔を曇らせる。後ろ背では、何を考えているのかさっぱりわからない。


「では陛下こそ、早くお戻りになられたほうがよろしいかと。昔日のディアス皇子は、それはそれは出来た御方でしたから」

 背負いすぎた闇に、いつか潰されてしまうのではないか。先帝の死後〝解放された〟彼を見て、そう思ったものだった。


 薄暗い地下の鉄格子は、この男から人らしさというものを覆い隠してしまったのだろう。昔はもっと優しげに笑っていたその笑顔は、ひっそりとどこかへ消えてしまった。


「持ち上げてくれるものだな。……子すら守れぬ男が、出来たものか」

 吐き出すように呟いて、ディアスは押し黙った。

 きっと哂っているのだろう、自分を。そう思えるほどの沈黙を残して。

 昔日のディルージャ皇子は、見る影もなく消え去った。ただ、その身に深い闇を宿し、何を考えているのかわからぬ冷たい笑みだけが、今の彼の笑顔になった。

 あんなに豊かだった表情は、もうちらとも顔を見せない。


「……わかりました。継ぎましょう、トスカルナを」

 色褪せ始めた過去の記憶に一度ふたを閉めて、アンは答えた。

「私は子孫を残すことはできませんので、トスカルナの血は名ばかりになりましょうが」

 薔薇を眺めていたディアスはその言葉で振り返り、頷く。


 思えば、変わった彼を見て、自分も女であることを捨てたのかもしれない。軍に入り髪を切りつめ、男のような口調になって。

 獄中の彼に何が起こったのかはわからない。様々な噂は飛び交うけれど、彼の空白の歳月をアンは知らなかった。ディアス自身、誰にも語ろうとしなかったせいもある。

 ワルターに聞いたこともあったが、「三日は気分が悪くなるぞ」と言われてしまい、詮索もやめた。


「養子をとることを認めよう。本来ならばジャーリヤに産ませた私の子を下賜すべきなんだが」

 苦い表情を顔にのぼらせ、ディアスは言う。

「いいえ。養子にはバッソスあたりからと考えてますので。陛下の血筋がなくとも結構ですよ」


 彼は即位以来、子ができていない。不能なのだと囁く者もいたが、アンはそうは思わなかった。彼自身わざと作らぬのか、別の手によりわざと出来ぬよう細工されているのか……そのどちらか。いや、両方なのかもしれない。少なくとも前者にはアン自身、覚えがある。後者は言わずもがな、だ。あんなに色に富む生活を送っていて、子が出来ないその裏には、少なからず「兄」が関わっていることに疑いはない。


 人生は五十年。折り返しにも差し掛かるような年齢で、しかも皇帝という立場に就きながら、彼らはいったい何を恐れているのだろうか。

 もうじき二十四にもなる、記憶の中からは十ほども歳をとった彼を、アンはじっと見つめた。

「何だ。……ああ、これか」


 視線を受けて目を細めたディアスは、得心がいったように首筋を覆う外套の襟を立てる。そんなところはまったく見ていなかったのだが、彼の手から隠される前に、くっきりと歯形が残るのをアンは見つけてしまっていた。

「歯形ですか?」

 噛みつかれるほどのことを、したのだという証拠。一瞬しか見えなかったが、傷はすでに薄く、治りかけている。なのにまだ痛むのか、ディアスは首元を抑えた手でさすっていた。


「また随分と手荒なことを、」

「手荒だったかもしれんな。噛まれた上にしっかり血まで吸われては」

 冗談なのか皮肉なのか。けれどそれを語る横顔に、かつての彼の面影を見て――アンは驚く。

 どこか面白がるような、柔らかな顔。



 ――消え去ったのでは、なかったのか。



「陛下、お相手は――」

 震えた声で問うたアンを、わずかな時間じっと見据え、彼は声を立てて笑い始めた。

「虎か豹か野犬かな。さあ何だと思う」

 さきほどの柔らかい顔はどこへやら、皮肉げな表情しか見受けられない。

「はぁ、タァインですか?」

 タァイン……この人はとうとう別の世界へいってしまったのだろうか。アンは一抹の不安を覚えながら、首を横に振る。


「ご冗談を。またバッソスでもジャーリヤを連れてきたと聞きましたよ。ヒーハヴァティ・ウィエンラ公女でしたか」

 どちらにせよ、彼の冷たく固まってしまった心を溶かす者が現れたのだとしたら――、それは嬉しいことだった。

 悔しいけれど、あまりに時が経ちすぎた自分たちでは、もうやり直しはきかないから。


「そうだ、フェイリットをご存じありませんか。兄の所で侍女をしているはずなんですが、一向に姿が。トスカルナ籍に戻ることをお許し頂けるなら、あの子は私が引き取りますので」

 年端もいかぬ女の子をひとり、いつまでもあの氷山男の下に置くわけにもいくまい。

 しかし言ってしまってから、アンは気づく。そもそも彼はフェイリットを知らなかったのだ。竜狩りの夜に一度は会っているが、それは名前すら名乗らぬささいな時間。

「あ、フェイリットというのは、」


「……今夜あたり行くだろう。お前のところに一番に行くと意気込んでいたからな」

 去り際にそう残して、ディアスの背中が遠くなる。

「……って、陛下!? なんで知って……」


「だが、引き取るというのは考え直せ」

 アンはきょとんと肩を落として、眉を寄せる。

 まさか。

 彼の右手に無造作に握られる蕾の薔薇を見つめて、アンは額に手を当てた。――蕾か、耳が痛いな。そう彼は、言わなかっただろうか?


「嘘でしょう、」

 ……本当なら、これはあの子を問いつめる必要がある。

 最後に怪我の傷を診てから、もうふた月にもなっていた。ぱったりと見えなくなって、随分と久しい。



「来るといっても診療所と宮、どっちなんだ? いや、もうこんな時間だからトスカルナ宮か。母上に知らせないと……」

 料理をたくさん作ってやろう。砂漠を長く旅してきたなら、帝都の料理は恋しいはずだから。

 ――しかし、脳みそが股の間にぶら下がってるような奴だぞ……あのエロ皇帝は。

 いいのか、フェイリット?

 アンは困惑に眉をひそめつつ、母に知らせるために庭園から回廊へと上がる。

「そういえば、コンツェも来ると言っていたな……ちょうどいい、皆で再会を祝おう――」


 アンジャハティであった頃より、自分アンには大切な人たちがいる。

 慕ってくれる部下たち、治療に訪れる兵たち、そして家族と友人たち……彼らと共に過ごす今。それはなんと満たされた時間だろう。


「――アン! ただいま!」

 名を呼ぶ軽やかな声を遠くに聴いて、アンは足を止める。

 まだ少女だったあのころ、強くなりたいと願った。その願いは、果たして叶ったかどうか。

 ――いや、弱くてもいい。自分を見失わなければ、大切な人を守れるはず。それが強さに変わるなら、弱いままで。


 夜会に震え、憂鬱になっていた紅い鳥。イクパルを越えて羽ばたいて、また戻ってこれたのだから。

 アンは笑みを浮かべて、現在の自分を想った。


「――おかえり」






* * *



 それから数日後、かの公国は独立を唱い――宣戦を布告する。

 新王が即位したのは、さらにひと月の時を経てのことだった。




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