94 真紅の鳥が、夜に泣く


 「報告を聞きましょう」

 薄暗い玉座の間に身をくぐらせた途端、ウズの声が空間を響きわたる。


 アンは僅かに息を吸い、幅の広い階段が幾重にもかさなる、段上の玉座を見上げた。

 灯火もともらぬ室内は、明かり取りの高窓から指す月明かりでほんのりと青白い。玉座の肘掛に身を任せていた影が、不意に身体を起こしてこちらを見下ろした。


「……はい。懐妊しているジャーリヤは、一人もおりませんでした」

 アンが静かな声で答えると、玉座の下にいるウズがゆっくりと頷くのが見える。見上げた先のバスクス帝は何も言わず、起こしていた身体をまた肘掛へと戻したようだった。


「間違いないな」

「はい」

 専門とは異なるため、わざわざ師匠の顔まで拝みに行ったのだ。教示を受け資料を借り、再度確認したから間違いはない。


「妊娠初期は普通、着床によって子宮の形が不均一になります。それを確かめるため、外側と内側から指を当てて見定めますが、現時点ではどのジャーリヤにもそのような膨隆は認められませんでした」


 言いながら、冷えた指先が震えていく。……あれだけたくさんのジャーリヤを診察したというのに、誰にも懐妊の兆しはみられなかった。即位から二年、政治も軍事も省みずハレムに溺れていたはずの皇帝。そこに隠された明らかな作為を感じて、アンは背筋を凍らせた。


 ハレムに溺れる皇帝を……演じていた?


 いったいどうして、彼らはそこまで徹底した欺き方をしなければならなかったのか。

 その心を動かすなにかが例え復讐だとしても、そもそもの根源である先帝アエドゲヌも、ウズを認めようとしなかった前宰相セルジンガも、今は亡き人。


 摘み取ることのできなかったテナン公国の企みさえ、コンツェを〝こちら側〟に手に入れたことで抑制できている。

 彼らを苛むものは、もはや何もないのに。



 ――ディアスですわね? そうなのでしょう、父親は。きっと彼です。ならば私は……私は――!



「アン」

 ウズの声が間近に聴こえ、ふと意識を戻したアンは、目前の瞳に身をすくませた。

「何も我々は、私怨にとらわれて動いているわけではないのですよ」

 いつになく優しい声が、あとじさる身を追いかけてくる。


 ―――私怨ではない。では、なぜ? それを尋ねても、あなたは教えてくれないのではないですか。


「アン、まさかまだ……」

 はっと気づいて目を開くウズから、無理やり顔を背けて俯く。

 そんな尋ねかたは卑怯だ。封じ込めたはずの記憶の箱が、じわじわと抉られるように開いていく。

「違います……!」

 視界の端で、玉座のかれが立ち上がる。ひとすじの視線も漂わせず、まっすぐ玉座の裏――私室へと下がっていく姿。アンはそれを目で追うと、うなだれるようにしてウズと玉座に背を向けた。


「あの頃は生きるのに精いっぱいで、振り返ることもできなかった。……兄上、私が……もし振り返っていたなら、何かが変わっていたのでしょうか」

「アン」

 震えた声で言い捨て、アンは仕切りの幕を突っ切った。




 時おり思い出すのは、自分に宿るぬくもりと、〝逃げよう〟という守りの言葉。胎内を引き裂く熱い痛みと、燃えさかる背中の斬り傷、とり囲む鎧の男達、月夜の暴力……。

 八年も経ったはずなのに、思い出しては身を縮め、夜明けも忘れて枕を濡らす。こんなにも弱い自分に、誰が目をかけてくれるものか。


「あら、アン、早かったのね」

 走り帰った邸宅の回廊で、母の姿を見つけてしまう。薔薇の咲く庭を眺めていたのか、エセルザは廊柱につたう手すりに手をつき、顔だけをこちらに寄こした。


「母上」

「香木しかなかった庭が、美しく変わったものです」

 柔らかく微笑んで、エセルザは再び庭へと視線を戻す。

「貴女は小さな頃から、薔薇が好きだったものね」


 この庭にもともとあったのは、数本のみの香木だった。うら寂しい簡素な庭は、まるで父の人柄を映す鏡のようだった。

 いつの頃からかウズが薔薇を植え始め、庭に水路を築き、整備したのだとエセルザは囁く。

「……あの子は不器用な子だけれど…貴女のことをちゃんと愛していますよ」

 アンは小さく首を振って、母と庭から目を背けた。


「母上、すみません……しばらく室にいますので」

 頭を下げて、彼女のそばを通ろうとする。目線は足元へ向けていたけれど、見なくてもわかってしまった。エセルザはきっと、優しい顔で自分を見ている。


「アン。母はいつでも、あなたの味方ですからね」

 同じ言葉――八年前とまったく同じ言葉を口にして、エセルザは庭に戻っていった。


 ぼろぼろと溢れる涙を、見ないでいてくれる。きっとそれは、意地っぱりの娘をよくわかっているからだ。

 自室に戻ったアンは、剥ぎ取るように軍衣を脱ぎ去り、寝巻きを羽織って庭に出た。月明かりはちょうど真上に出て、咲きはじめの薔薇をよく照らしている。


「はあ……」

 素足で芝生を踏みしめて、ようやく心が落ち着いた。どこまで気をつかわせてしまったのか、同じ庭にあったはずのエセルザの姿ももう無い。

 落ち込んでいるのも…もうおしまいだ。


「さて、診断書をまとめないとな」

 伸びをして、ふと目についた薔薇に鼻先をつける。芳しい香り。人工で水を引き、無理強いに近い環境なのに、この子たちはよく咲いている。

 アンは小さく息を吐くと、回廊の石畳にそっと素足をのせた。その先で、視界の隅に何かが動いたのを感じる。母上? と声をかけようとして、息をのみこんだ。


「陛下……ど、どうなさったんです」

 目を開いて、回廊の先を見つめる。何がどうなって、この私的な空間であるトスカルナ邸にこの人が現われるのか。


「……ここへ来るのも久しいな」

 どこか懐かしむような声で、皇帝かれは低く静かに言った。

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