81 悠久の臣
長い長い階段を下り終えて、フェイリットはほっと息をついた。
城の書庫は古く、どことなく湿っている。ひんやりした空気に本特有の匂いが混じって、フェイリットは自分の気がいつの間にか落ち着かなくなっているのを感じた。重厚な雰囲気がそうさせるのか、妙な緊張がわきたっている。
薄暗い地下の空間には、大きな円卓がひとつ。それを囲むように巨大な書棚が並べられている。床も壁も剥き出しの岩石で、城の中のような気の利いた装飾は何ひとつ見当たらない。ただ橙色の、背の高い燭台がいくつか壁際に並んで、室をほんのりと照らしているだけだ。
「なんと、灯りも持たずにいらしたのですか――おや、」
フェイリットはそれらを見ながら、ぼんやり立ったままでいた。
にわかに声がかかり、書棚の奥からオフデ侯爵の痩身がするりと現れる。その手には胸に届くほどの書物が積まれ、彼の足取りをおぼつかなくさせていた。
「おはようございます、オフデ侯爵閣下」
笑顔になって、フェイリットは頭を下げる。いつもは砂漠でするあいさつが、今日は岩石に囲われた室に硬くこだまする。
オフデ侯爵はすぐには応えず、じっと目を丸くしてフェイリットを見つめた。
「あ。灯り、どこにあるか気づかなくて――、」
灯りを持たずに来たことが、それほど彼の虚をついただろうか。
フェイリットは幾分顔をくもらせ、首をひねった。
たしかに、暗がりでもはっきりとものが見えるせいで、灯りを忘れてしまうのは悪い癖。自分には見えても、周りからしてみれば不自然この上ないだろう。
いい加減、人間として〝普通〟に振る舞うことを意識しなくてはならないのに。こういうちょっとしたところで失敗を繰り返してしまう。
もっと何か言おうかとフェイリットが口を開いたところで、オフデ侯爵はそっと笑った。
「いや、それもそれで驚きはしましたが。可愛らしい衣装ですな、と言いたかったのですよ。いつものお小姓姿より、あなたにお似合いだ」
オフデ侯爵が頬を緩ませて頷く。
臙脂に黒を混ぜたような深い色の衣装は、いつも着ている小姓衣ではない。胸のあたりでいくつものひだが作られており、丈も長めだ。ハレムの女たちがまとうような色気は無いが、それを差し引いても随分と女らしい形の衣装だった。
「着方を覚えられたのですな。以前は、小姓衣しかご自分で着られないと仰っていたものですが」
遠くを見るような温かい眼差しで、オフデ侯爵は微笑んだ。その顔はどこか〝本当に懐かしい〟とでもいいそうな郷愁に満ちている。
「ええと、」
イクパルの衣装は、一枚の布を結びつけて纏う。そのために特に女物は、複雑な手法が必要だった。
単純に着るならともかく、ひだを作る可愛らしいものは未だフェイリットにはできない。だからこそ毎日小姓衣を身に着けていたのだが。
その難しいものを、バスクス帝はするすると作り上げたのだった。彼らのような身分では、自分の衣装さえ自分で着る必要はないのに。
〝陛下に着せてもらった〟と言うわけにもいかず、フェイリットは曖昧に微笑む。
「謙遜なさいますな。可愛らしいですぞ」
フェイリットは赤くなって自らの衣装を見やった。その動作に、首元と手首につけた金の環がしゃらしゃら音をならす。環は臙脂の色ととてもよく馴染んで、動くたびにきれいな音色を奏でた。
「たしかにその色は、懐かしい方を思い起こさせる」
渋い声が鳴り響いて、驚きのまま見上げると、片手に灯りを持ち階段を降りてくる男の姿が目に映る。
「ホスフォネト王」
面と向かい近場で目にするのは初めてのこと。宴の席で離れて見た彼の印象は、今となってはおぼろげだ。近くで見ると、オフデ侯爵ほどではないが、彼もまた研ぎ澄まされたような痩身をもっているのがわかる。
老齢に近いオフデ侯爵が遣えているのだから、ホスフォネト王もまた更に年嵩が上なのだろうとフェイリットは考えていた。なのに、どうみても彼は四十代も半ばにしか見えない。話し方や落ち着いた所作が、なおさらにそれを混乱させる。
「だが言うものではないぞ、ルクゾール。それではまるで、その歳で口説いているようにしか聞こえぬ」
フェイリットは驚きのせいで、儀礼のあいさつもおろか、口を開くことさえ忘れてしまっていた。棒立ちになるフェイリットを前に、ホスフォネト王は苦い顔で笑う。
「驚かせてしまったようだ。この書庫のある北の区域は、儂の執務の間に近いのでな。一度しっかり詫びねばならぬと思い来たのだが」
階段の最後のひとつを降りて、ホスフォネトはふっと手に持つ蝋燭の火を消した。
「あなたの口に毒を含ませてしまった。敵対していたとはいえ、礼を欠いたこと心から恥いっている」
そう言って膝を折り目の前につく王の行動を、フェイリットはただ唖然として見やるしかなかった。
「な、な……何をなさってるんですか」
「詫びを」
仮にも一公国の王が、膝をついていい相手にフェイリットの立ち位置はないはずだ。
ギョズデ・ジャーリヤは、皇帝の公の愛妾。公的な位にはあるが、それは地位の高さを示してはいない。
おおげさに言うなら、王と奴隷ほども分が違う。
「いえ、そういうことではなく……どうかお立ちになってください、お願いです」
懇願するように言うと、ホスフォネト王はゆっくりと顔を上げた。
「
フェイリットは驚きすぎて、目と口を開けたまま、気づけば唸るような声をもらしていた。
「わ……たしはタントルアスではありません。祖先であることに代わりはありませんが、それでも王である貴方にそのように膝をつかせる立場には無いんです。わたしは彼とは別人です」
ホスフォネト王はようやく立ち上がると、丁寧な礼をして微笑む。もう記憶にもおぼろげな、メルトロー王朝の宮廷儀礼だった。
「わかっておる。だが儂には、あの方の姿を宿す遠い子どもが、愛おしくてならぬ」
向かい合った沈黙の中に、不意に笑い声が混じった。
なんと言えばいいものなのか、困惑に顔をしかめていたフェイリットは、ほっとして横のオフデ侯爵を見やった。
「お困りですな。ホスフォネト王は、私よりも下手な口説きをなさるのです」
朗らかなオフデ侯爵の声は、その場の空気を一気に打ち崩すものがあった。
まるで冗談には感じられなかったホスフォネト王の宣言を、やんわりと制しながら、なお冗談とまで言い切ってしまうなんて。
オフデ侯爵の手腕に面食らいつつも、フェイリットは悪戯げに目を閉じた。
「じゃあわたしは、王陛下の口説きに負けぬよう、世界中の美姫たちを娶って歩かなくてはなりませんね」
タントルアス王は、大陸中から姫を娶り民を集めた。それゆえにメルトローでは北部の混血が急速にすすんで、濃い金髪と青々とした瞳が民族の祖となったのだ。
似ていることは、悪いことではない――そう、いつだったかオフデ侯爵は言っていた。
似ているからこそ、同じ轍を踏まぬよう努力ができる。けれど彼が大陸を統治し英雄と呼ばれてのち、どうしてこの世を去ることとなったのか、フェイリットは知らなかった。
「タブラ=ラサ、我々は地図でも描きましょうぞ。王はあらかた、貴女のご滞在を延ばそうとでもお考えなのです」
オフデ侯爵はそう続けて、大きな卓の上に獣の白革をつないだ地図の台紙を、ばさりと音を立てて開いた。
ホスフォネト王はそのあとも書庫にいて、作業を続けるフェイリットたちを見るともなく過ごしていた。が、彼にはまったく手伝う気はないようだった。
そばで眺め、たまに質問する以外は、どこからか探してきた蔵書の紙面をめくっている。
フェイリットは手に持った羽根の筆を一度止めて、白いものさえ混じらぬその黒髪をじっと眺め見た。
〝懐古主義〟だと言ったバスクス帝の言葉が、今ならばはっきりとわかる。まるで本当に遣えていたことがあるような口ぶりで、タントルアス王を懐かしむそのさまを、懐古と言っても偽りではない。
「そういえば、まだ秋も終わりの頃、
フェイリットの動きが止まっていることに気づいてか、地図に文字を書き込みながら、ふと顔を上げたオフデ侯爵が言う。
「〝デマ〟だったがな。あれには正直驚いたわ」
相づちをうつように首を縦に、ホスフォネト王は眉をひそめた。
「竜……ですか?」
「そうだ。信じるか? 金の流れる毛をもつ美しい竜の存在を」
フェイリットは今度こそ筆を止めて、まじまじとホスフォネト王の顔を見やった。
「竜なんて、お伽話です」
いかにも居るはずがない、というような顔をして、フェイリットは首を振る。まさか「わたしがそれです」だなどと、言うわけにはいかない。まして信じているというのも、気がひけた。
「伽話にも古いものになりましたからな。タントルアスの英雄話は」
「タントルアスの?」
「そう。子供用に訳したものは、たいへんな意訳と脚色がされていて、とうてい真実には遠い。だが儂らは語り継がれるその伽話を、好ましくさえ思っている――これを」
見せられたのは、その本にのる挿し絵だった。
真っ黒な鎧を着た人物が剣を握り、空へと振りかざすそのさまを、包み守るように――一匹の竜が、とぐろを巻いてかしずいている。
黄金の竜……これが。そう感じて、食い入るようにフェイリットは身を傾けた。
描かれているのは白黒なのに、まるで鮮やかな色が目に焼き付くように想像することができた。鮮烈で艶やかな黄金色――。
「英雄タントルアス王は、その手に大陸の覇権を握りとった。最強の竜を得てな」
「……エレシンス」
史実の中に、唯一の存在を残す竜。
タントルアス以上に謎の多い人物で、フェイリットの記憶にも名前程度しか残ってはいない。サミュンについて学んだメルトロー史に、その実エレシンスの名前はほとんど挙がることがなかったのだ。
「神々しいほど、美しい女だった。海原のように波打つ黄金の髪と、朝日にも似た輝きを放つ黄金の眼……血を舐めたように紅い唇は、いつも楽しげに笑っていた。歩いているだけで、その存在は周りの目を一点に集める。激しいその性格さえも、人々を魅了したのだ。大陸全土をものの数十年で統一できたのも、エレシンスの激しさあってのことだろう。彼女は率先して尖兵となりかわり、さまざまの国を内側から制圧していった」
話し終えると、ホスフォネト王はふと思い立ったように懐を探った。その手に握られて出てきたのは、首にさげられた小さな袋だ。
紐を解いて首からはずすと、そっと中身を取り出して、フェイリットの手に落とした。
「……これ」
片手でちょうど包めるほどのものが、手のひらにころがる。
綺麗な色をした玉だった。琥珀色で、室に灯される明かりに透かせば、まるで黄金のような輝きを見せる。
「これって、」
「エレシンスの眼だ」
……彼女の遺品か何かですか。そう口にしようとして、フェイリットは最後まで言うことができなかった。
持っていた珠が卓の上にコツン、と音をたてて転がっていく。
「タブラ=ラサ?」
慌てたように口元を抑え、身体を折り曲げたフェイリットの頭に、心配げな声が降りかかった。
「な……なんで」
――胸が焼ける。
そう思った時には、脈打つような熱さが、口からどっと溢れだしていた。
ホスフォネト王とオフデ侯爵が、驚いたように声を上げるのを聞きながら、フェイリットは苦しさに身をよじる。
嘔吐の中で、自分が吐き出しているものが、またもや真っ赤な血であることに気落ちした。まるで死がすぐそこで、手招いているみたいだ。
「なんと。いつから……、いつからその〝症状〟が?」
自分を支えていることができずに、がくりと卓からすべり落ちると、その先で誰かに受け止められる。
顔を上げて上を見れば、それは他でもない驚愕した顔のホスフォネトであった。
「ぐ……うう」
返答にもならないまま苦しみにあえぐと、フェイリットは上に向けていた顔を咄嗟に戻し、再び灼けるような血を吐きだす。
「気をしっかり――!」
吐き続けるフェイリットの背を慌てたように抱えて、ホスフォネトが言った。
意識が遠のくのを、つなぎとめるように頬を叩かれる。
「駄目だぞ!! 〝いま〟眠ってしまえば、もう終わりだ!」
頬を叩く刺激が、いつのまにか意識をこの場につないでいた。ぼんやり目を開けると、星が散って見える。立ち上がれそうにないほど、めまいがしていた。
「
オフデ侯爵が切迫した声で尋ねるのに、フェイリットは辛うじて口を開いた。
「なにを……」
「あなたが、そういう身体であることを、です」
血を吐いて寿命を縮めていることは、ジルヤンタータしか知らない。フェイリットは返事の代わりに、首を振って応える。
「なんということだ、あなたは――」
その震えた唇が紡ぎ出したのは、
「あなたは竜なのか」
……フェイリットが何よりも一番に、恐れていた言葉だった。
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