80 旅立ち


 「……いっちゃったねえ」

 出港した船の、白くはためく帆を眺めながらアシュケナシシムが言った。


 シアゼリタが発ったのだ。婚姻は本格的に決まり、彼女はとうとうメルトローへ渡ることになった。横にいる人の長い金髪が、ふわりと舞いあがるのを見ながら、コンツェは息をついた。

「ああ」


 薄曇りの朝だったが、風は良く吹いている。この風に追い立てられて、きっと夜にもならずにメルトローの土が踏めることだろう。

 帆船はこぢんまりとして、灰色を少し混ぜたような海を滑っていた。彼女と、その夫となるイグルコ・ダイアヒン宰相が甲板に立っているはずだが、もうその姿も確認できない。


「じき逢えるよ」

 のんびりとした声で、アシュケナシシムが呟く。コンツェは船の影が見えなくなるまで目で追ってから、隣に立つ彼を見やった。


「どういう意味だ?」

「どうって」

 その空色の目はもう海から離れていて、どこからか取り出した薄い色のスカーフを手に見下ろしている。彼の瞳より、ほんの少しだけ緑がかった不思議な色のスカーフだった。そうして軽く咳き込み始めて、アシュケナシシムは口元を押さえ付ける。


「そのままさ」

 くぐもった声で言って、アシュケナシシムは笑った。口元がスカーフで隠れていても、その空色の目でわかる。


 テナン城は海に面して建てられており、その城の一階部分に、ぽっかりと海路がつなげられている。直接船が搬入できるそのつくりは、満ち潮がくればまるで海に浮かぶような風情を、テナン城にあたえるのだ。

 船を見送るために設けられた二階部分のテラスの手すりから、アシュケナシシムは身を離して振り返った。


「君もメルトローに来ることがある、という意味でだけれど。そうしたら、シアゼリタにだって逢えるだろう?」

 答え終わってから、アシュケナシシムはまたひとつ小さな咳をした。風邪でもひいているのか。気づいて見れば、あまり具合がいいとは言えない顔色をしている。


「例えば俺が王太子になったとして」

 コンツェの言葉に、アシュケナシシムは悪戯げに首を傾げて見せた。コンツェはますます不機嫌な顔になって、息を吐く。

「黙って聞け」

「もちろん。黙っているじゃないか」

「……それで黙ってるって言えるのか。あのなあ、俺が王太子になったとしても、メルトローに行く用事は無い」


 コンツェの言葉を聞き終えると、アシュケナシシムはスカーフを口元から離した。おっとりとしたその笑顔は、彼の性格には似合わない。どこか斜に構えた気質に、コンツェは気づきはじめていた。


「妹の結婚式、同盟国への挨拶、あとは君の婚姻かな」

「こ……婚姻? 俺の?」

 慌てたようにコンツェが返すと、アシュケナシシムは右手に持っていたものだろうスカーフを、ぱっと広げる。


「これ、何かわかるだろう」

 軽い口調で言いながら、ひらひらとスカーフを揺らしている。薄い水色に染み込んだ、鮮やかな赤。

「……血」

 少量ではあったがその汚れを見て、コンツェは血以外を思いつけなかった。


「そう。僕は病気だ。――そして、サディアナもね」


「なん……だと、」

 コンツェが指先が冷えていくのを感じて、言葉を最後までつなげることができなかった。アシュケナシシムが告げる言葉を、理解することができない。


「サディアナは死ぬよ。僕よりは遅いはずだけれど、多分ね。発症すればあっという間だ」

 珍しく真剣な顔をして、これは冗談のつもりだろうか。

 ずいぶんと慣れてきたと思っていたのに、未だにアシュケナシシムがわからない。コンツェは口を開けたまま、彼の顔をじっと見つめた。冗談ならば冗談と、早く言ってくれればいい。


「どうしたの。泣き崩れたりしないわけ?」

「泣き崩れる……? 本当……なのか?」

 呂律が回らない。コンツェは驚きに目を大きくして、アシュケナシシムがゆっくりと頷くのを見つめていた。


「発症を抑える方法は、メルトローにしかない。だからサディアナを生き延びさせるためには、一刻も早く連れ戻さなくちゃ。……メルトローに連れ帰って、君がサディアナを妃にしてよ。そうすれば、姉さんも僕も、死なないかも」


 アシュケナシシムは、静かな声で言葉を切った。

 シアゼリタの乗る帆船が、進んでいったあたりへと目を向け、コンツェは押し黙る。〝王太子〟――その位の意味合いが、急に重みを増していった。





* * *


 「んん……、」

 フェイリットは目を覚まして、自分が裸でいることに驚いた。バスクス帝の肩から胸のあたりに、なぜだか頭が乗っかっている。


「……?」

 そこでようやく、昨夜何が起こったのかを、……思い出す。


 フェイリットは咄嗟に顔を押さえると、驚きに目を開いて呻いた。眠気なんて、あっという間に吹き飛んでいく。

「う、わ、うわ、わ、わた」

 身体を包むように腰の横に置かれていた〝手〟を、ぱっと外して寝台から降りる。


「うわ、……だっ!」

 唐突に呻くような声を上げて、フェイリットは床に縮こまった。下腹に感じる鈍い痛みと、全身にのしかかるようなけだるさ。痛みに瞑った目をぼんやりと開けて、フェイリットはようやく顔を上げる。


「……なにをしてる」

 笑い声が聞こえて振り返ると、バスクス帝が寝台から身を起こしたところだった。

「い……いえ、なんでもありません」

「――ああ、そうだった」


 思いついたように言うと、バスクス帝は寝台から脚を下ろして、脇に落ちていた衣装を拾う。簡単にそれを身に纏いつけ、立ち上がった。


「わ、わたし、戻らなきゃ! オフデ侯爵のところ行ってきます、地図が、」

 慌てて立ち上がり、フェイリットは後じさる。言っていることの文脈も、歩き方さえも不自然だった。

 けれど這っていくほどの痛みではない。侯爵には不審に思われるだろうが、背に腹は代えられなかった。

 水脈を正確に記した地図は、完成まで残り丸一日はかかってしまう。帝都に帰るのは明日の朝。それまでに地図を出来上がらせるためには、夜を明かす覚悟さえ必要だ。


「裸で行こうというなら止めないが」

 近づいてくるバスクス帝を目を開いて見つめてから、フェイリットは自分の姿を見下ろした。

「うわ!」

 隠そうとしてしゃがむ前に、薄地の掛布で包まれる。はっと気づけばバスクス帝に抱き上げられて、その腕に尻が乗っていた。


「侯爵のところへ行くなら、ハマムで身体を清めてからの方がいい」

「あの、い、いいです! 自分で」

 見上げたところで、バスクス帝の黒い眼とかち合う。フェイリットは最後まで言うことができずに、ぽかんと口を開けて黙った。

 自分の顔が熱いのは、気のせいだと思いたかった。


「昨夜の素直なおまえは、どこへいったのだろうな」

「……え、ええと、」

 しどろもどろになって目を反らしたフェイリットを見ながら、バスクス帝は小さく笑って歩き始める。


「痛いだろう。抑えられなかった……すまない」

「は…………」

 何をどう抑えるのだろう。疑問に思いながら上を見やって、彼の顔が歩く方角を向いていることに安堵する。何を言ったらいいものかわからずに、フェイリットは顔を真っ赤にしたまま逆を向いた。


「陛下、」

「なんだ」

「そばに……いてもいいですか。ずっとなんて言いません、せめて、時間が」


 言い終わりもしないうち、唇に何かが重なった。バスクス帝の唇だ、と気づいたころには、その舌に緩やかに絡めとられている。

 時間が許す、いまだけでも、せめて。


「では寝台に戻ろう」

 唇がふっと離れていく。ゆっくりと目を開けると、フェイリットはしばらく考えて、怒ったように眉根を寄せた。


「そういう意味じゃなくって!」

 睨みながら叫んだところで、バスクス帝が含み顔で笑うのを見つけてしまった。その意図をなんとなく察して、フェイリットは息をつく。


「もう、いいです……」

「だろうな」

 バスクス帝は楽しげに言うと、フェイリットの頭にぽんと手をつく。導くように引き寄せられて、額の横が、彼の胸板に触れた。


 優しいのか、単に面白がっているだけなのか、ただの冗談なのか――まったくわからない。


 ただそっと触れた耳に、彼の鼓動が聴こえはじめて、フェイリットは目を閉じる。

 心地よい、音がした。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る