63 かの君に忠す
「ジル、陛下は……」
仕切りの幕をかきあげ現れた、大柄なジルヤンタータの姿を見上げ、フェイリットは小さな声を出した。
「大丈夫です。急に血を失って、気が遠くなっただけでございましょう。医者を呼ぶまでには至りません」
銅金をうすく伸して立ち上げた大きな
両手を広げたほどの布は軟らかい感触をしていて、ごしごし力を入れても痛くならない。左腕の内側に盥のなかの水を浸した布を当てると、独特の、すんと鼻に抜けるような香りがした。水は顔を顰めたくなるほど真っ黒で、腕からぽたぽたと滴が落ちている。
「よかった……」
バスクス帝が倒れ込んでからしばらく呆然としていたフェイリットだったが、ふいに気がついてジルヤンタータを呼びに走った。直接医者を呼んでもよかったけれど、首筋についた歯型の痕を、気が動転したなかで上手く説明できる気がしなかった。
噛み付いて血を飲んでしまいました、などと言えるはずもない。
慌てて状況を説明したフェイリットを一瞥して、ジルヤンタータはまず身体の染料を塗りなおすように言った。示されて自分の身体を見下ろすと、傷の場所だけでなく、ところどころが薄っすら白くなっている。
汗をかいたせいか、ハマムであれほど念入りに塗られた染料が落ちていた。どんな状況になるかわからないから、誰の目に触れてもおかしくないよう、そのまだら模様の身体をなんとかするようにと。
バスクス帝のことはジルヤンタータに任せることにして、フェイリットは盥に水を張り染料を流し込んだのだった。
「フェイリット、」
そっと近寄るジルヤンタータの影に気づいて、フェイリットは自分の太腿から視線を上げた。彼女の表情はいつもと変わらぬ堅固なものだったが、次の瞬間に口にするだろう言葉が、なんとなくわかってしまった。
「何があったのですか」
「何が……ていうと、」
わかっていたけれど、フェイリットは首を傾げた。
ジルヤンタータには、ちょっかいを出されて抵抗するうちに、噛み付いてしまった――そのせいで彼が倒れてしまったと説明していた。
嘘は言っていない。血をごくごく口にして、〝あ、おいしい〟などと思った主観を、単に伏せただけだ。
「気絶するほど血を失ったにしては、周囲に痕跡がございませんでしたので」
床に血が染みていないのは、それがほとんどフェイリットの胃の中にあるせいだ。取り繕いようがないことを悟って、フェイリットは顔を俯けた。
「ええと、それは……。気づいたら、飲んじゃってて」
「やはりそうでしたか」
ジルヤンタータの視線が横腹に向けられるのを感じて、フェイリットは不安になる。盥の中で座りなおして、ジルヤンタータの目を恐る恐る見上げた。
「血を飲んだから、治ったのかな……」
「わたくしには、わかりません。貴女の身体については、知らされていないことばかりです。……ただ、」
言葉を区切って思案げに目をただよわせ、ジルヤンタータは沈黙した。
フェイリットはその先を促すこともなく、じっとして彼女の宙へ向いた厳しい眼差しが戻るのを待つ。言うべきか言わぬべきか、それは迷っているようなそぶりだった。
「ただ、死の縁に立ったリエダ様が一度だけ、サミュエル・ハンス殿の血を口にし回復なさったことがありました。ほんの数刻の、短いあいだでしたが。確証はございませんが――他人の血を含むことで、少しだけ治癒を助ける働きをしたのかもしれません。……足が赤くなってしまいますよ、フェイリット」
ジルヤンタータの低く耳に通る声を聞きながら、いつの間にか足の脛ばかりを布で擦っていた。彼女の声を聞きはっと気づいて、フェイリットは顔を上げる。
何かを考えついた気がするのに、空のただ中で雲を握ったような心地がする。開いてみれば、そこには何も入っていない。
「前にもあったの、骨折してた時。ジルが来る前で……でも、あれは変化したから治ったみたいだった」
カランヌに「還りましょう」と言われて、嫌だと暴れた結果だった。変化しそうになって、逃げるように駆け出して――。折れていた骨が、再びヒトへと戻る過程で構築されたのだろうと。
「カランヌは、今どこに?」
盥から立ち上がると、ジルヤンタータに水瓶を手渡される。染料を塗った身体から、よけいな分を洗い流すためだ。身体を水で流しながら、フェイリットはふと返答がないジルヤンタータを見やった。
「ノルティス王の元に」
「え?」
「……フェイリット、貴女がイクパルに居らっしゃることは、もう陛下――ノルティス王はご存知のはずです。申し訳ございません」
頭を下げたジルヤンタータを、フェイリットは青ざめた顔で見つめた。
「そんな――、」
「けれどご安心下さい。貴女を庇護しているのが一介の城下の民ではなく、国の中心に座する皇帝陛下であることも伝わっているはず。もう今までのように、安易に追っ手は送れないでしょう」
帝城を選択したのは、探索の目が届きにくい為。だがそれは、ノルティス王が知らぬからこそのものだった。
疲弊した国だと認識のあるイクパルに対し、メルトローは機嫌を伺う必要がない。知ってしまった以上、〝王女を返せ〟と言うだけで、メルトローはイクパルに戦争をしかけることができる。
そして現在の状況では、イクパルに勝ち目はない。あっという間に国土を占領されて、植民地に早変わりだ。
「……ジル、」
身体を拭きながら、盥を片付けるために歩き出したジルヤンタータの背中を追った。その気配にすぐに気づいて、ジルヤンタータは振り返る。
「わたし、この国が好き」
「フェイリット……」
「わたしのせいでもし、戦争が起きるとしたら」
そこまで言って、フェイリットは唇を噛んだ。
またここを、逃げ出ていかねばならないだろう。それを言うのが辛かった。助けてもらい、たくさんの人と出会って親しくなって、ここでずっと暮らしたいと思ってさえいた。
ずっと……この短い寿命が尽きる、最後の瞬間まで。
けれど大きな犠牲をはらってまで、たくさんの命を燃やしてまで、ここに居たいと言えるほど我が侭ではないつもりだ。自分ひとりが行方を眩まして、それでことが済むのであれば。これほど簡単なことは無い。
「わたし、」
「――バッソス公国は、傭兵を集めて造られた国なのです」
唐突に呟いたジルヤンタータの言葉の脈絡に、フェイリットは思わず首を傾げた。
「それは、」
どういう繋がりがあるのか、そう問おうとして、ジルヤンタータの厳しい表情に気がつく。大切なことを、話そうとしている様子だった。
「傭兵というのをご存知ですね」
「うん、一応は……」
雇われて戦う、軍隊。簡単に言えばそういうことだ。
帝都で、バスクス帝が言っていたのを思い出す。ホスフォネトは傭兵の王で、懐古主義なのだと。それを利用して味方に引き入れようとしていたらしいが、その計画の全貌は、未だに聞いていない。
「では、初代バッソス公国の頭であったホスフォネトが、〝誰の〟傭兵だったのかは、ご存知ですか」
「誰の……?」
――やつらの傭兵団の歴史は長いからな。もともとの親玉は違うわけだ。
――親玉? イクパルの付属じゃなかったってことですか。
ふと思い出す、バスクス帝と交わした言葉の一片。フェイリットは目を丸くした。
「初代ホスフォネトは、誰の……」
当時、イクパル帝国は疲弊してはいなかった。メルトローと共に、肩を並べられるほどの国勢は持っていたはずだ。サミュンから得た知識を必死に振り返りながら、フェイリットは考える。
イクパルは大きな艦隊を誇っていて、南の国にまで領土があった。けれどメルトローに負けてから、それらは一気に失われた。戦艦の知恵はメルトローに奪われ、領土だった南の国々からは隔絶された。持てる富を一気に亡くしてから、イクパルは下降を辿ってきたのだったか。
最盛期のイクパル帝国は、四つの主だった国々からできていた。それは今とあまり変わりがない。テナン、イリアス、ドルキア、チャダ、バッソス。けれど思い浮かべてから、ひとつだけ国が多いことに気づく。
「バッソスはイクパル帝国が下降を辿る中、まるで監視役のように建国された国でした。そしてそれを命じたのは、」
フェイリットはジルヤンタータを見つめた。いいや、正確にはジルヤンタータの手元を見つめていた。
彼女の手に持たれる、銅の盥……そのわずかに滑らかな表面に、映る顔。
「メルトロー国王タントルアス……」
今は黒く染色され見た目も幾分変わっている。だがフェイリットの目に映っていたのは、紛れもなく〝素顔〟の自分だった。愛妾の子として生まれながら、「十三番目」の号を与えられたこの容姿。
「初代ホスフォネトは、タントルアスの忠臣でした」
ジルヤンタータの声を聞き終えるや否や、フェイリットは額に手を当てていた。
――なんということだろう。
今で言う「四公国」は、テナン、イリアス、ドルキア、そしてバッソス――チャダを抜かした四国のことを指している。どういう経緯でチャダがその序列から外されたのかわからないが、バッソスが数えられていなかったのは、そういうことだったのだ。
ホスフォネトの君主は、イクパル帝国の君主ではなかった。
「だったら……ジルヤンタータ。バスクス陛下は、わたしが〝タントルアスと似ている〟ことを、知ってるかもしれない」
それは即ち、フェイリットの素性がメルトロー王国・第十三王女である事実を、知っているということ。
「そんなまさか、」
「ううん、言われたのを覚えてる。ホスフォネトは懐古主義だから、わたしを見て気を変える……みたいなことを。何を言っているのかさっぱり理解できなくて、問い返したらはぐらかされたんだった」
ジルヤンタータは考えるように眉根を寄せたあと、わずかに目線を下へと下げた。
「ならば」
さっと上げられた彼女の厳しい目に見つめられて、フェイリットは唇を噛み締めた。
王女というのはばれている。そう考えれば、彼があっさりと自分をギョズデ・ジャーリヤに上げ、滅多に与えることのない
――では、竜だというのは?
そこまで考えて、フェイリットは首を傾げざるを得なかった。竜だとわかれば、ノルティス王のように強引にでも契約を結ぼうと考えるはず。普通ならば、誰だってそうだ。そんなそぶりが見られないのは、まだ気づかれていないからか、それとも……。
「イクパルを戦火から守りたいのならば、彼らの策に乗るしかございません」
「でも、」
「貴女がたとえ行方を眩ませて、事なきを得ようとしても、〝どこへ隠した〟と言及してしまえば、立派に戦争への大義名分が揃います。そしてノルティス王は、そういうことをする王です」
ジルヤンタータの言葉に、フェイリットは息をつく。
そうだった。もうここに居ると知られた以上、巻き込んだと言って語弊はない。では自分は、責任をもってこの国をメルトローの手から守らなくてはならない。余計な災厄を招かぬように、いや、招いてしまった者の責務として。
「わかった。陛下が目を覚ましたら、……どうすればいいのか訊いてみる」
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