62 渇き
ずきずきと痛む傷の疼きに気づいて、フェイリットは目を覚ました。
見上げた先で赤茶けた天蓋のひだが垂れている。背や肩に当たるいくつもの柔らかな枕に沈み込み、フェイリットは息をついた。
バスクス帝が虎に噛みつかれそうだった時。必死に走りながら、フェイリットは思い出していた。自分があのとき――ウズルダンに命じられ〝ザラナバル〟を得ようとした時――二十もの兵士たちを一体どうしたのか。
「わたし、」
頭と身体を戦いへ支配する、濃厚な血の匂い。今でははっきりと思い出せる。
〝倒せば従ってやる〟と言われた人数を遥かに超えて、自分はマムルークを……、
「ころした…」
殺したのだ。マムルークを、二十人近くも。
我を忘れて襲いかかるフェイリットの一撃を受け、止めに割ったシャルベーシャは撥ね飛んだ。
彼の獣に似た咆哮を耳にして、ようやく気づいた。これ以上我を忘れては、あっという間に変化してしまうと。
離れた所にうずくまるシャルベーシャの背中から顔を上げると、累々と重なる人間の塊が目に入った。約束どおり、倒したのだ。……よかった――あの時はそう思った。これでウズルダンから受けた仕事を、終えることができたと思ったために。
けれどあれは、〝倒れていた人たち〟ではなかったのだ。
「あれは……」
累々と重なる人間の塊は、〝積み上げた死体〟だった。他でもない、この手で。
――ジルヤンタータに「生きなさい」と言われた。母とサミュン、そして死者のため……それが手向けであるからと。
けれど罪も無い人たちの命を、あんな賭け事ひとつで奪ってしまった自分に、手向けができるほどの価値があろうか? ただでさえ世界に戦乱を招く赤子だとささやかれ、隠されてきた存在なのに。
メルトローへ行かなくてよかった。
利用されて千年も生きるのは嫌だと、利己的な理由だけで逃げてきたけれど。実際は自分だけの犠牲にとどまらなかったのだ。メルトローが他国を征服しようとすれば、それだけ多くの人の命が、家が、居場所が失くなってしまう。
自分は今まで、いったい何を教えられてきたのだろう。人殺しの術を、他を屈服させる術を、知識を、力を。
そんな哀しい力ばかりが、この身体に宿っている。帰る場所のない辛さなら、よく知っているはずなのに。
「サミュン……」
今すぐわたしを、そっちに連れて行って。
自分の立っている場所の重さに、押し潰されそうだ。人を殺さねば生きられないなんて。それが竜の本質ならば、契約などできるものか。
「サミュン……!」
どうしてこの瞳は、
フェイリットはゆっくりと手を伸ばし、天蓋に垂れ下がる目隠しの布を掴んだ。けれど力が入らずに、ずるずると床に落ちていく。
上半身だけ寝台の下に這いつくばり、なんとも無様な格好に転がって。
「いて、」
寝台からへばり落ちた体勢で、とりあえず痛みをじっと堪える。動いたせいで、頭がぐらぐら揺れていた。口の中も粘ついたように乾いていて、具合が悪い。
「さっきから何をしている」
「げっ」
突然にかかった声に、フェイリットは潰れたような声を上げた。恐る恐る顔だけで見上げると、思わぬ人が目に映る。
「へ……陛下」
天蓋のすそに指をかけたバスクス帝が、こちらをじっと見下ろしていた。
「平気か」
ちかちか浮いていた白い光が、いつの間にか引いていく。
〝さっきから〟とバスクス帝は言った。もともとこの部屋に居たのか、たった今入り来たものなのか……まるでわからない。
唐突な訪問者を迎えて、フェイリットは呆然としたまま口を開けた。
「平気ではないようだな、その様子では」
それはこの格好を指すのか、今にも泣いてしまいそうな渇いた顔を指すのか。
見上げた姿は差し込んだ逆光に照らされて、もともと浅黒い風貌をいっそう黒く染めている。こちらからは、彼がどんな表情を浮かべているのかわからない。口調だけ聴いていれば、飽きれているか哂っているか、そのどちらかだろうが。
「……えっ」
屈み込んだと思ったバスクス帝から両手が伸びてきて、フェイリットは身をすくめた。脇下を掴まれ、あっという間に身体が横抱きに浮いていく。
「へ……! 平気です! 元気です!」
目前まで迫った漆黒の瞳から身を反らして、フェイリットは顔を
「お、おろして……」
「やせ我慢が、」
降ろされて寝台へついた背中に心から息をして、はっと気づく。腹に巻いた包帯以外、下履きを残して何も身体に着いていない。慌てて掛け布を引き寄せて頭から潜り込むと、バスクス帝が鼻で笑うのが耳に入った。
「何しに来たんですか……帰って」
帝都を出るとき、ジルヤンタータに念入りに染められた身体は、ところどころが白く戻っていた。裸を見られたのは初めてではない気がするが、それでも以前は暗かった。この朝の日ざしが差し込む中で、恥ずかしくないわけがない。
「見舞いに来た者に、優しい言葉をくれるではないか」
「そん、……見舞い?」
そっと掛け布から顔を出すと、寝台の縁がどっと沈んだ。
バスクス帝が腰をかけたのだと気づいて、じっとその背中を見つめる。砂漠で纏っていた青ではなく、少し黒味を帯びた赤茶のローブ。……そういえばこの背中にも、傷があるのだった。
「見せてもらった。お前のような小娘が、どうやったら屈強なマムルークと闘えたのか、ずっと疑問だったのだが」
背中を向けたまま、バスクス帝は言った。低い声だが、なぜだか怒っているようには聞こえない。
マムルークは前線に出る大切な兵士。四公国に緊張が走るさなかで、貴重な兵を欠くことはどうあっても痛手になるはず。罰せられても仕方がないというのに。
「……やっぱり、死んじゃったんですよね……」
そろそろと、消え入るような声でフェイリットは返した。否定してほしい、そんな気持ちが勝っていたけれど、どちらかと言えばこれは確認だ。
「ああ」
深い息を吐いて、フェイリットは自らの額を押さえた。
弱弱しく泣いてしまえたら、どんなにか楽になるだろうに。いいや、それではいけない。楽になってはいけないのだ。
「――人を斬ったのは初めてか。……まさかそれでタァインに止めを刺せなかったのか」
返された質問に、はっとして顔を上げる。
確かに、とどめを刺そうとは動かなかった。
けれど実際は、いくらでも機会があった。
「も……申し訳……ありませんでした」
油断さえしていなければ、自分の身だって守ることができた。他の命を奪うことに、そしてその末に素性が知られてしまう危険をぎりぎりまで恐れて。さっぱり頭が回らなかった結果が、これだ。
一歩間違えば、二人もろとも虎に喰われて殺されていただろうに。
ザラナバルであるシャルベーシャに、「護衛なんかいらない」と言い張ってしまった以上、その役目を果たさなければならなかったのは、他でもない自分だけだというのに。
フェイリットは頭を伏せたまま、何を言われるのかと、びくびくしながら待っていた。
けれどふとした沈黙のあと――下げた頭の上に、ぽんと何かが乗せられる。しっかりとした重みと、確かな体温の温かさ。
「いや、感謝している」
頭の上に乗せられたその温かさが、彼の「手」だと悟った瞬間――。
フェイリットは恐ろしいほどの懐かしさに、身体を奮わせた。処罰を受けても仕方が無いことをしたのに、返った応えが礼だなんて。
「あ、の」
頭の上の手は動くこともなく乗せられたまま。
そっと伸ばされた手の元を見上げて、フェイリットは困惑した。バスクス帝が笑っている。……皮肉さとはかけ離れた、顔の鋭さを緩和するような表情で。
どこか郷愁に似た、不思議な感覚が胸をつく。よくやったと、遠い昔に撫でられたかすかな記憶が、音を立てて湧き出すような。
「私は九つで初陣を迎えた」
「え、」
九つ、と口の中で繰り返し、フェイリットは瞬いた。九つといえば、自分はまだまだ村の男の子たちと、取っ組み合いの喧嘩をして怒られていたあたりだ。
国や自分の正体など、頭の隅にも上らなかった頃。サミュンに褒められたくて、それだけを理由に勉強と剣術に暮れていた。
「初めて身体を濡らした返り血を、私は未だに覚えている。忘れる必要は無いし、忘れてはならんと思っている」
静かなその言葉を聴いていて、フェイリットは目を閉じた。覚えている、思い出せる――〈彼ら〉の顔を。
「上に立つ者は常として戦わねばならない。命を預け、
頭の上に置かれていたバスクス帝の手が、すっと背中へ回された。力に従うように身を任せると、いつの間にか顎がバスクス帝の肩の上にのっかっている。
「よくやった」
抱きしめられることに、飢えていたのかもしれない。
抵抗しようという気持ちには、少しもならなかった。包まれた腕の中で手を伸ばし、首元にすがりつくと、フェイリットはその肩にそっと顔をうずめた。なんて心地がいいのだろう。かつてはすぐ側にあった人の温もりが、今では随分遠くに思える。
「陛下、わたし……――? ……ぎゃっ!」
背中に回されていたはずのバスクス帝の手が、下穿きを越えて尻にある。いつの間に。フェイリットが悲鳴を上げると、もう一方の腕にすかさず力が込められる。
「もう少し、愛らしい悲鳴を上げられんものかな」
「……そ、そんなこと! って違う、そういうことじゃないです! 離し、いたっ! いたたたたた、ほら痛いです、痛い!」
「平気だと言っていただろうに」
ぢくぢくと走る痛みはずっと続いていた。今さら猛烈に痛がることはないが、この状況でバスクス帝に解放されるには、腹の傷に触ると訴えるのが一番。なのにその大きな手は、下履きの中から一向に出ていく気配がない。
「ほう、こんなところにまで染料を塗ったのだな」
「いいかげんに……――!!」
逃れようと身を捩るのに、しっかりと抱き込められて、彼の肩から顎を離すことさえ叶わない。
「ぐっ」
突如、くぐもったバスクス帝の呻きが耳元で聞こえて、はっと気づく。
「――お前、」
ぱっと弛んだ腕中にいて、フェイリットは呆然とした。
目の前の首に、くっきりとついた牙の跡。そこからどくどくと、血が溢れ出している。
「こ、これ……わたしが?」
――まさか、噛み付いてしまった?
慌てて血を止めようと、彼の首に口をつける。
思わず味わったその血は驚くほどに甘くて……
バスクス帝の身体がどんどん向こうへ傾いでいく。味わったその血が、喉元をゆっくりと流れていったとき、ようやくごくごく飲み込んでいたのだと気づいて、フェイリットは慌てた。
「へっ陛下!!」
――どさり。伸ばした手も役には立たず、バスクス帝の姿は寝台の向こうに消えてしまった。
「どうしよう、医者……? ジルヤンタータ!」
慌てて寝台から飛び降りて、身体に巻きつけるため掛け布を手に掴む。
けれど目線を傷のある腹へと落として、フェイリットは「あっ」と声を上げた。
見下ろした包帯は暴れたせいで撚れ、巻かれたところからゆらゆらと外れかかっていた。
けれど問題はそこではない。
揺れる包帯の隙間からのぞく、幾分染料がとれて白みがかった地肌の色……、
傷跡のような、うっすらと残る桃色のすじが目に入る。少し動くだけであんなにも痛かったはずなのに、もうちくりとも痛まない。
それどころか、以前より身体が軽い気さえした。
「――うそ、な……治ってる?」
フェイリットは呟いた。呆気にとられて立ち尽くし、助けを呼ぶのも忘れて。
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