56 古の戦闘部族
サディアナを
「全部やられたか」
彼の
皇帝が目前に横たわるタァインの亡骸から湾刀を抜き去ると、鉄臭い、独特の血のにおいが鼻をついた。
「は、」
〝全部〟が一体何を指しているのかを図りかねて、ジルヤンタータは口を開ける。
「馬だ。歩かねばならなくなったな」
今し方起こったことは全て夢だったとでも言うような、平然とした声色だった。
「陛下、」
罵ってやろうとため込んでいた怒りの言葉も、そんな冷静な態度に行き場をなくす。……なぜこんなにも、酷薄な顔ができるようになったのだろう。
ふと脳裏をよぎったものに、ジルヤンタータは歯をきりと鳴らす。
「わたくしめが」
代わります、と差し伸べた手には目をやらず、皇帝はサディアナを砂上に降ろした。
小脇に挟んでいた湾刀を砂上に刺し込み、そのまま彼女の傍に膝をついて屈む。何をするのか目を
「そのようなことは、わたくしが」
制止の声も聞き入れることなく、皇帝は顔色一つ変えずに牙の刺さる脇腹を見つめた。少女の白い腹に刺さる黄色味を帯びた牙は、赤子の腕ほどの太さがある。思わず顔を背けたくなるほど、それは深く彼女の腹を抉っていた。
「お前は
自らのローブの端を割き、サディアナの腹にきつく巻きつけながら、皇帝はこちらに目線を向けた。サディアナに対する独白かと思えば、ジルヤンタータに向けてのものだったらしい。
ジルヤンタータは顔を隠すヴェールの端を僅かに握り締めて、「いえ」とだけ答えた。
過剰な弁解はかえって肯定ととられやすい。けれど〝サディアナ様〟と叫んだことで、気づかれていることは確かだ。
サディアナ・シフィーシュ・ファロモ=フィディティス――メルトロー王国第十三王女。その名は法で規制され、同名の人物は決して存在しない。イクパルがいくら閉鎖的であろうと、皇帝ならば他国の直系王族の名くらい、覚えていて不思議はなかった。
「そうか」
およそ納得したとは思えない。吐息だけで
まったく、何を考えているのか? 見殺しにするのかと思えば、寸でのところで手を差し伸べる。今し方していた手当てでさえ〝皇帝陛下〟自らやる必要はないはずなのに。
成る程、そうすれば砂で血が飛んで、湾刀を拭う必要がなくなるわけか――。思わず納得してしまう。その動きはとても、お飾りの剣技には見えなかった。実戦で泥に塗れなければ、とても出来ない仕草。
ばらばらと散っていく血交じりの砂を見つめながら、ジルヤンタータは息を吐く。
「陛下、恐れ入りますが」
「なんだ」
湾刀を鞘に収めた皇帝が、一瞬だけ足元の少女に目をやってから、こちらを見下ろす。
気遣いのように見えなくもないが、その目は特に感情のこもらぬ、静かな眼差しだった。〝ここに荷物を置いているから、踏まずにおこう〟とでもいうのに、とても近い。
ジルヤンタータは、どうしたものかと思案しながら、皇帝の顔を真っ直ぐに見上げた。
「その湾刀が斬る刃ではなく、投げナイフだとは存じ上げませんでした」
最後の最後、タァインに「投げつけて」息を止めたその湾刀はお飾りか。なぜ戦おうとなさらかったのか? ジルヤンタータが精一杯の皮肉を込めて問うた声に、皇帝は顔色を変えず、口元だけをふっと歪めて見せた。
「見てみたくてな。……マムルークを
ジルヤンタータは再び怒りの火が燻りはじめるのを感じていた。そんな好奇心で、少女一人の命を軽んじてよいものか。
ばっと顔を塞いでいたヴェールを解き放つと、ジルヤンタータは皇帝をきつく睨んで口を歪めた。
「酷いことをなさる」
予想通り、皇帝はジルヤンタータの顔を見て、驚いたように目を開いた。
「これはこれは、」
驚いた目をすっと戻し、声を立てて短く笑う。低く柔らかい声音は、まるで今まで冗談でも話していたかのよう。だがその目だけは、決して笑ってはいなかった。
「――賭けとはいえ、この娘は兵を減らした。これは罰にもなったろう」
太刀も抜かず傍観していたその闇色の瞳は、ゆっくりと細められていった。獲物を捕らえようと構える、捕食者の目。
サディアナが
まさか彼女自身、力を制御しきれていないのだろうか。そう考えると、確かに頷けるものがある。
彼女が王弟サミュエルの元で学んだ剣術は、しっかりと定まった型を示すメルトローの宮廷式と、彼が剣豪とまで謳われる所以になった両刃の剣技が基本。
先程のサディアナの動きは、優雅と湛えられるメルトロー式には、とても見えなかった。
「メルトローの間者として首を刎ねられたくなければ、大人しくしていることだ。……シャル、」
皇帝の呼びかけに、面倒そうに顔を顰めたシャルベーシャが目を向ける。
「
「俺らは同種殺しはしませんからねぇ」
――まさかこの男は。顔色を変えてシャルベーシャを見やったジルヤンタータを尻目に、皇帝は再びサディアナの脇に屈みこんだ。
蒼白な顔で意識を戻さぬサディアナを、このまま炎天下に晒すのはよくない。
ジルヤンタータは皇帝の後ろからさっと周り、サディアナの側に膝をついた。
「わたくしが運びます」
強い口調で言い放ち、サディアナの身体をそっと起こす。
同種殺し――その言葉を考えながら、ジルヤンタータはサディアナの身体を背に背負った。
イクパルに住む、
遥か昔。英雄タントルアスを
彼らもまた〝竜〟と同じく、血の捻れ曲がった民族だった。とっくに絶滅したと伝えられていたのに、生き残りがいたとは……。
サディアナの獣じみた行動に、その血が流れているものと考えたのかもしれない。およそ〝竜〟だとは知らずに。
はっとして、ジルヤンタータは眉をひそめた。――では、
「……バッソスはあっちだぜ。この距離じゃ、一日もかからねえだろ」
顎元に下げていたヴェールを持ち上げて顔を隠すと、ジルヤンタータは浅く頷きシャルベーシャの背に続いた。
「本当に変わったこと」
その向こう、一足先に歩き出した男の背中を、苦い顔で見つめながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます