53 朝焼けのヤンエ砂漠


 「失礼致します陛下」

 干上がり、地割れの目立つ大地を眺めていたバッソス公王は、背後からの声に振り返った。

「皇帝バスクス二世陛下が予定通り、我が国を目指し今朝方発ったとの報せがございました」

「そうか」


 こうして露台から自国の姿を眺めていると、目に映る風景にはなんとも報われぬ心地にさせられる。一面の砂の大地は、水を通すこともなければ作物の根を支えることも無い。


 王宮の建つ副都ジュプネには、遊牧民や砂漠を渡行する隊商が立ち寄りささやかな露店を開いてはいるが、それも他公国の比では無い。けっして富むことの無い土地を治める王として、代々の名をつぐホスフォネトたちは君臨してきた。……遥か遠い昔から、かの王に賜ったこの地を。


「オフデ、街道沿いに刺客は」

「放ちました。……まさか魔の砂漠をお渡りになるとは思えませぬが、念をおしてヤンエ砂漠にも。しかしこちらは偵察だけで、いないとわかればすぐにでも街道の部隊に紛れるよう言い渡してございます」

「それでよい。無事に渡らせては、我が国の立場が危ういからな」


 テナン公国が、とうとう独立へ動き出した。周辺諸国は焦るだろうな……。ホスフォネトは苦い表情で宮殿の、私室の露台から眉をひそめる。

 砂漠に国土の大半を占めるバッソスは、そのために目ぼしい産業も無く、自らの手で自らを支えられるような国力は無い。自国を潤そうと他国を侵略しようにも、唯一の誇りである武力は、装備を整えるのに莫大な金が要る。


 他国に付属し軍事力を提供することでしか、もはやこの国は成り立たぬ。古来よりそうしてきたように、傭兵はしょせん傭兵。他に生きるすべの無い自分達は、国としての体面を保つため、常に風を見切る風見鶏で居続けなくてはならないのだった。


 テナン公国には「鉄」がある。加えて、メルトロー王国の加護も近い。テナンとメルトローが手を結んでしまったら、まず先立つ財力によって、必ずやイクパルは潰されてしまうだろう。

 そんな廃れ行く運命のイクパルと、むざむざ心中なんぞしてやる気は毛頭なかった。


「イリアス公国とドルキア公国は、二の足を踏んでいる様子。何せテナンが独立すれば、これまで通りの鉄の輸入が適わなくなります。しかし周辺国に囲まれている以上、下手にテナンにつくことは出来ない」

 陸続きのイクパル本土に対して、テナンは距離を置いた島国。テナンの味方をしたとして、取り囲む周辺国に裏切られれば、そこで袋叩きに合う。


「皆同じというわけか……まあ、そうだな。風見鶏にならねば、ここらの国は到底生き残れぬ」

「ええ。我が国にバスクス二世帝が行幸ぎょうこうなさるというのは、どう考えてもこちらの不利を逆手に、」

「――落としておこうというわけだ」

 バッソス公国がテナンに傾いてしまわぬように、奴らはたずなを引きにやってくる。


 しかし、それはあまりにも奇妙な話だ。無能と言われ続ける皇帝がここへ現れたとして、どう自分を説得できようか。


 諸国の君主として皇帝が築いた土台といえば、元老院凍結という、苦いものだけだ。あの切れ者の宰相ならまだしも、皇帝が自ら?


「とにかく、この機を逃す訳にはいかぬ。必ずやバスクス帝をしとめろ」




* * *


「ちっ、」

 群青だった空の色が、だんだんと赤みを増していく。夜明けを待たずに出発した隊の最後尾で、軍用の馬を全速力で操りながらシャルベーシャは苛立っていた。

「腹の虫が収まんねえ」


 苛立ちの原因は紛れもなく胸部の――骨折した肋骨の痛み。馬を駆りたて体が鞍の上で飛び跳ねる度、痺れるような激痛が走っていく。

 自分の油断が引き起こした怪我だとわかっているのに、シャルベーシャはその苛立ちの矛先を別の所に向けずにはいられなかった。


 ――何で、怪我がばれた? 

 〝あの時〟怪我を負ったことは軍の医師にすら告げていない。絶対に分からぬよう振る舞ったつもりだ。駆けつけたワルターが気づこう筈もなし、ましてしでかした本人などは、まるで記憶にも無い様子だった。


「まさか見ただけでわかった……なんて、んなのあるかよ」

 あるわけがない。皇子時代はそれなりに軍務にも関わっていたと聞くが、今の有り様を見れば、到底良い腕をしているとは思えない。皇帝宮勤めの誰もが、軍務を始め政務や外務にまで、手をつけている皇帝の姿を目にしたことが無いのだ。


「なにをぶつくさと仰っておられるのです。腹の調子がお悪いなら丸薬がございますが」

 すっと隣に並んできた馬の鞍上を見れば、図体のでかい女が強面をより一層しかめてこちらを覗き込んでいる。

 腹の虫が何たらと、呟いていたのを聞かれていたらしい。


「お前あの小僧の侍女だろ」

 顔を大きくしかめて、女は首を振った。

「フェイリット。女の子にございます」

「ああ名前なんてどうだっていい。ついてなくていいのかよ。さっきっからお前、ずっと後ろばっか走ってるぜ」


 フェイリットとかいう小僧、いや小娘は、愛妾ジャーリヤの衣装を脱ぎ小姓の姿をして、皇帝の後ろ脇に馬を走らせている。というよりは〝引かれている〟。

 馬のたずなはしっかりとバスクス帝が握っているからだ。

 小姓ならば誰しもが扱えるはずの馬を、あの娘はまだ乗りこなせていないらしい。まさか小姓というのも偽りの姿なのか?


「あなたこそ、道案内のくせ最後尾ではありませんか。陛下があんなに遠くに見えますよ」

 目の先には五人の部下たち、そして皇帝の乗る馬が一列に連なっている。纏っている着衣もみな、砂漠の民が着るような頭から踝までを巻きつける青い外套ローブだ。


 遥か向こうを行く先頭のローブが、砂の混じる黄土色の風に乗って揺らめく様を見やり、シャルベーシャは鼻で笑った。

「薄いが、まだ星が残ってる。俺の出る幕じゃねえよ」


 砂漠に住む者たちは、渇いた大地に足をつけ、星を見上げて生きていく。

 幼い頃から季節と気候と星との交わりを親を介して耳に聞き、そうしてどこへ立っても自分の位置がわかるように育つのだ。

 遊牧の民を始祖とするイクパル民族なら、星を見上げて爪先の向く方角が西か東かぐらい、わかっていて当然。


「しかし、陛下は」

「ああ」

 そのような民草の教育は受けていないのではないか。皇族どもは、遥かな昔に遊牧の生業を捨て、人を束ねることにのみ命を燃やした者たちの末裔だ。女の言い分は、よくわかる。


「そう思って試してみたが、見てる限り、方向を間違えてるようには見えねえ」

 〝無能〟、〝木偶の坊〟、〝色狂い〟――様々な噂を耳にしてきた。それらを頭の端に並べ立てて、シャルベーシャはふと疑問が湧いてくるの感じていた。その疑問が何なのか、線を結ばぬうち隣の女がふと呟く。


「ならばザラナバルとは何なのです。今の星を見ていれば、わたくしにも方角はわかります。日が昇れば、その方向で位置も特定できる。これでは、あなたたちの任務はなくなりましょう」

「たしかに」


 軽い声で応えて、シャルベーシャは北の方角をさっと見やった。はるかな向こうに、竜の背に似たアルマの山脈がそびえている。あの山脈がヤンエ砂漠を見下ろしていなかったなら、ザラナバルは生まれなかった。


 ぱっと視線を外したシャルベーシャの動作を、女は怪訝に思ったのか瞬時に真似た。目線をアルマに移してしばらく、二人は無言で馬を走らせる。


「……来るぜ」


 山脈の麓に近い辺りが、まるで瞬時に掛け布を引いたように黄土色に染まっていく。

 驚いたような女の声を脇に聞いて、目線を前方に戻したその時。

 皇帝が馬を御して立ち止まったのが見えた。




 はためくローブが頬に貼り付いて視界を防ぐのを、鬱陶しく払いのけながらフェイリットは考えていた。

 十人にも満たぬ人数で馬に乗り、砂漠を横断していたら、どこからどう見ても隊商としか思われない。なるほど、もしかしたらシャルベーシャは……。


 ――偽装のために人数を減らした…?


 四分の一とは聞いていたが、実際はその人数さえも満たしていない。同行してきたマムルークは、シャルベーシャを含めてもたった六人。

 本物の隊商はこんなにも速く馬を駆ったりしないだろうが、それでもここまで兵を減らした甲斐はあったはずだ。いい目くらましになっている。


 視界の開けた広い砂漠の中では、身の隠せる場所がどこにもない。けれどそれは、追い来る者や迎え討とうとする者にも同じことが言える。

 遠目から見て隊商のようならば、近づいて確かめようにも自分たちの素性まで割れてしまうというわけだ。


 出発の直前、野生の獣だけではない、バッソス公やその配下に命を狙われる危険もあるのだと、ウズに言い聞かされていた。

 皇帝がこんなにも少数で訪問してくるとは、バッソス公も思わないだろう。砂漠に居を構えて狙うより、迂回する街道沿いにいくらかの刺客を配置するほうがずっと効率が良い。

 休息の為オアシス街に寄らざるを得ないところを、待ち伏せるだけでいいのだから。


 魔のヤンエ砂漠、などと呼ばれているこの地に入り来る危険はそれだけに大きい。

 でも――と、すぐ前を走るバスクス帝の背中を見やって、フェイリットは顔を曇らせた。


 ろくに稽古もしていないような今の状態で、護衛だなどと。やり遂げられるだろうか。

 もやもやした不安が胸に降りてきて、どうにも拭い切れない。


 ふわりと漂い来た乳香の甘いにおいを嗅いで、フェイリットは目を閉じる。バスクス帝の寝室を走り出てから、言葉を交わしていなかった。一言二言は話したが、たずなを持っていてやるから自分で馬に乗るようにとか、他愛ない内容だ。


 ――眠れたのかな……。


 玉座の間で控えながら意識を研ぎ澄ませていたけれど、寝ているかどうか覗いて見ようなどという気は起きなかった。けれど夜明け近くウズが姿を見せるまで、バスクス帝が玉座の間に現われることもなかった。


 そろそろ完全に夜も明ける。朝日が砂の大地を焼くように昇るのを遥かに眺めながら、フェイリットはふと首を傾げた。

 ……風のにおいがおかしい。乳香の香りとはまったく違う。自然に流れる風の特有のにおいが、不意に変化したのだった。


「なんだろう、」

 疑問が口をついて出て、ふと何の気もなくアルマ山の方へ視線を滑らせた矢先。

「……っ陛下!」

 驚きに声を張ったフェイリットに気づき、バスクス帝はたずなを引いた。


 倣うように、ばらばらと馬が背後で止まっていく音を聞きながら、フェイリットはじっとただ一点を見つめていた。

「幕?」

 幕のように見えた〝それ〟は、しかし違った。


 巨大な――その向こうにあるはずのアルマ山脈すら覆うほどの、砂嵐。

 間違いなくこちらに向かってくるその黄土色の塊を見て、フェイリットは慌ててバスクス帝を見上げる。


「……あれがヤンエの魔物だ」

 バスクス帝の横顔が、視線を受けて静かに応える。

 どうしたらいいのかと顔を青くしていると、追いついてきたシャルベーシャが目の前に馬を寄せて止まった。


「陛下、馬同士を縄で繋ぎます。はぐれたら二度と戻れないんで、せいぜいしっかりしがみ付いてることをお勧めしますよ」


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