50 スフィル・ギョズデジャーリヤ


 「お望みは一個小隊だそうですが、その四分の一にさせて頂きました。我々マムルークも暇じゃないんで。五十余名も連れてヤンエ砂漠ときちゃあ、砂漠の民ザラナバルの血が無い奴らには死刑台と同じですからね」


 面倒くさい、といかにも最後に付け加えそうな口調でシャルベーシャは言った。玉座の間の下座に軍隊式の拝礼をとって、眉間の中心に皺を寄せている。浅黒い肌に並ぶ黒い目は猫のように小さく、縁取る白い眼球が、濃い肌の色と対比してまるで光るようだ。その隙のない目をじっとバスクス帝に向けて、大きな息を一つつく。


 ふてぶてしい態度に加え小隊を縮小するとまで言われれば、普通の王ならその不敬に激怒する。少なくとも、自分の父ならばそうだ。

 フェイリットは恐る恐る、バスクス帝の反応を待つ。


「構わん」

 驚きの眼差しで、脇に立つバスクス帝をちらりと見やった。床に座したままのため、横を見ても彼の長衣に隠れた膝下しか見ることはできない。けれど吐息とともに、鼻で笑っているのはわかる。

「随分と痛そうだが、お前も勿論来るのだろうな」

 低い声で言った後、しばらくの間をおいて本格的に笑い始めたバスクス帝を睨むように見て、下座のシャルベーシャが舌打ちした。


 痛そう? ……痛そうとは一体、何のことを言っているのだろう。

 フェイリットは首を傾げて、今度こそ遥か頭上のバスクス帝の顔を見上げた。けれどその先にあったのは、楽しげとは到底思えない鋭い目線。それが、ふっとこちらに降りてくる。


「――たかが肋骨の一本くらい、痒くもありませんね」

「そうか、ならばよい。ヤンエは一日で踏破する。可能だな?」

 シャルベーシャは深々と礼をした。

「善処します」

 可も不可も口にしないまま、室から下がっていく。その背中は堂々としていて、とても「痛そう」には見えない。肋骨がどうたらと話していたが、怪我をしているとしたら、ヤンエ砂漠は絶対に無理だ。


「タブラ=ラサ」

 ぼんやりとシャルベーシャの背中を目で追っていると、バスクス帝の声が唐突に名を呼ぶ。

 ……衣擦れの音とともに、甘い香りが降りおりてきた。

 隣に立つその足元をたどり、フェイリットは遥か上――彼の顔を見上げた。


「奴の肋骨を折るとは、大したものだ」

「折る?」

「自分でやっておきながら忘れたのか」

 喉の奥で低い笑い声を立てながら、バスクス帝はすっと腰を屈める。間近で目が合って、フェイリットは後じさった。


「あの、何がなんだかさっぱりなんですけど……」

「ああ、さっぱりだ。お前の体格ではどうみても、奴には力負けする。だが状況からして、お前が折ったとしか考えられんわけだ」

「わたしが……って、え?! まさか、わたしがシャルベーシャさんの骨を折ったとでも?」


奴隷軍人マムルークを十人倒せと言われたのだろう。奴と戦ったな?」

「うっ嘘ですよ! そんなのあるわけが」

 質問の突飛さに、フェイリットは激しく両手を振る。一本取った、というのは言葉のあやで、実際に一本とったのは兵士たちを相手にしてだ。結果賭けに勝つ形になり、〝一本取った〟ことになったわけだが――彼と実際に手合わせしたわけではない。


「ワルター・サプリズ大佐の話では、お前を〝止めた〟のはシャルベーシャだというが」

「ええと…そんなはずは、たぶん」

 曖昧な返事に、バスクス帝の片眉がわずかに上がる。

「多分?」

「お……覚えてないんです」


 言い繕うこともできなさそうだ。本当のことを、フェイリットは眉根を寄せて答えた。

 自分がサミュエルから習ったのは、メルトロー式の剣術ばかり。国王陛下に献上する剣舞である宮廷式も、実戦に用いられる型式もすべてがそうだった。


 普通に立ち合ったなら、確実に素性が割れる。だから剣はいらないと、丸腰で向かったのがいけなかった。

 胸骨の上あたりに剣柄の先を叩き込まれて、最初に吹っ飛ばされたところまでははっきり覚えている。剣の柄というあたり、随分と手加減してくれたものだと思ったが――ふと気づいてみれば、目の前に累々と兵士たちが転がっているではないか。

 竜に変わってしまったのかと慌てたが、変化するときに必ず伴う、あの凄まじい痛みはどこにもない。


「あの、すみませんでした。護衛は要らないって、たかを括ってしまったこと、ご報告するの忘れてました。……そのせいで小隊の数まで減らされてしまって」

 磁石のまったく利かぬ砂漠を前に、まるで鳥のように縦横無尽に行き来できるとされる〝砂漠の民ザラナバル〟。あの時は砂漠を無事踏破するため、そのためだけの案内役ばかり気をとられていたが――。それなら現地の遊牧民を連れ立ったほうが容易かった。


 ウズがわざわざ兵たちの中から見つけて来いと言ったのは、道案内役だけを期待したのではないはずだ。

 砂漠は人の手が加わらぬ未開の地。それゆえに獣や盗賊が縦横無尽に行き交っている。時には盾となることさえ必要になる。


「シャルベーシャは、お前が護衛役をすると言っていたな」

「――はあ、あの」

 自分の口の軽さに頭を抱えたくなって、フェイリットは気取られぬような長いため息を密かに吐き出す。なんということを約束してしまったのだろう。


「悲惨な顔をするな。奴のあばらを折るくらいだ。任せる」

「は……、はい」

 戸惑いながら返事をすると、褐色の頬がふっと歪んで遠くなった。それがかれなりの笑みであることが、なんとなくわかってくる。

「立て。夜明け前に出発する。それまで休むといい」

 ヤンエ砂漠へ。フェイリットは頷いて、座したまま額を床に落とし礼をする。


「それでは失礼し、うわ!」

 退室の挨拶をし終わる前に、身体が上に浮いていく。抱き上げられたのだと気づいて、フェイリットは目を丸くした。横抱きにされて、目線がかれの顎すじにあたる。

「へっ! 陛下! わたしは自分の部屋に!」


 フェイリットを抱きかかえたまま玉座への段差を上り、バスクス帝は滅紫の紗布をめくった。その先には皇帝の寝室しか行き場はない。

 紗布が鼻先をかすめていって、焚き染められた乳香の香りに、いっそう強く包まれる。


 いくつもの半円に囲われた壁には金細工が網のように散りばめられ、紅く細密な模様が描かれていた。目を刺激しないためにか、この室の紅は黒に近い。黄金と黒紅の彩色が溶け合うようだ。

 皇帝の寝室というくらいだから、どれほど豪勢なものだろうと思っていたが、華美さを楽しむよりくつろぎを重んじるような造りに見えた。


「その恰好で、うろつかれたら困るんでな」

「わぶっ!」

 薄布のかかった寝台に転がされ、柔らかい駱駝の毛布の中に思い切り顔を突っ込んで、フェイリットは呻く。


「この恰好って、陛下が変装するように言い渡したんじゃないですか」

 肌はイクパル民族のように濃い褐色で塗られ、髪さえも真っ黒だ。ヴェールで薄い色の瞳を隠せば、北方種族だとは到底わからない。

「ああ、ものは試しだからな。なかなか似合う。だがタブラ=ラサは謎のままでいてもらわねばならん」


「ギョズデ・ジャーリヤだからですか」

「そうだ。タブラ=ラサの意味を知っているな?」

「ええと…真っ白な紙」

「タブラ=ラサは本来、ギョズデ・ジャーリヤの名前として用いたわけではない。何物にも染まり、何者にも変ずることのできる存在としてお前に与えた名だ」


 どっと寝台がたわんで、そのふちにバスクス帝が腰を下ろす。フェイリットはぽかんと口を開けて、かれの黒い瞳を見つめた。

「要するに、いろいろ化けろってことですか? 小姓になったりジャーリヤになったり人種が変わったり」

 もともと色素に欠けた容姿をしているから、色さえ変えればイクパル民族にも成りかわれる。確かに扱うのに便利そうな特徴だ。


「そういうことになる。バッソスは私の母の故郷でもあるが、平民出身で後見は何もなかった。だが、あそこは大軍を掌握する傭兵団の集まり。他公国とはなんとしても切り離したい国だ。表上は手を組んでいるように見せかけてな」

「でも……それわたしの変装と関係ないですよね?」

 首をひねったフェイリットを見やり、バスクス帝はわずかに頬を引き上げて見せる。


「バッソス公王ホスフォネトは、懐古主義者だ」

「かいこ、昔を懐かしんでおられるんですか?」

 広げた膝の上で組んでいた手を、眉間まで持ってきてかれは続けた。

「やつらの傭兵団の歴史は長い。もともとの親玉は違うわけだ」

「親玉? イクパルの付属じゃなかったとか…」


「そういうところだ。まあ楽しむがよい。お前はイクパル帝国皇帝バスクス二世のスフィル・ギョズデジャーリヤとして、堂々としていればよいのだからな」

 〝スフィル〟は数字の発音で、ゼロ。直訳するなら皇帝の零番目の妾妃――となるわけだが。

「お芝居ですよね? 零番目スフィルに山村出の娘を据えるなんて公式に発表したら笑いぐさじゃないですか」


 スフィルは一番目ワーヒドよりも随分と格上だ。本来ならば後見のしっかりとした大国の王女あたりに推さねばならない地位。他の妾妃とは一線を引き、無碍な扱いもするわけにはいかない場所にある。


 それゆえにわざとスフィルを設けず、ワーヒド、イスナーン、サラーサ、アルバアと、平等に四公国から妃を引き抜く皇帝が多かった。スフィルで有名といえば、前帝の御代に寵愛を得られず皇后サグエ・ジャーリヤ位を逃したファラマファタ。彼女との婚姻が、テナン公国と皇家を強く結んだとされている。


「芝居か」

 くつくつと笑って、バスクス帝は立ち上がった。

「村娘が出世をしたな」

 フェイリットの前に身をかがめ、かれは口の端を歪めた。大きな手が黒のヴェールを引いていく。その唇が額の、瞼に近い場所にそっと触れて、フェイリットは身をすくめた。


「夜明けには起こす。ここで寝ていろ」

 入り口の紗布を払い、バスクス帝は玉座のある室の方へと消えていく。

「あれ、」


 てっきりまた、全力で抵抗しなければならないような〝こと〟をされると思っていた。意外にあっさりと離れていくその背中を見ながら、フェイリットは首をひねる。

 期待していたわけではないのに、どうして目で追ってしまうのか。急にその行動が恥ずかしくなって、フェイリットは一人顔を赤くした。



 ヤンエ砂漠に向かった隊は、わずか十人にも満たなかった。

 かれらは夜明けを待たず出発し、バッソスをめざす。


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