49 黄金の竜と有翼の獅子


 鬱金色うこんいろをした細い糸が、天井から幾千と垂れさがっていた。廊下の両脇を囲むように、煌びやかな貴石を先端に垂らして飾られるそれは、身体のどこかが触れればしゃらん――……と優しい金属の音をたてる。


「これが伽の扉……」

 皇帝の寝室へ。一本につながるその廊下の別名を、フェイリットは思わず呟く。

 連なる装飾は、きっとただの飾りではない。しゃらしゃらと音を鳴らさせることで人の来訪を知り、事前に〝誰か〟が近づくことを察知する装置だ。

 ゆっくりと歩きながら両側を流れる風景を見つめていると、なんだかジルヤンタータの気配が遠い。


「ジャーリヤ・タブラ=ラサ」

 後ろを歩くジルヤンタータに呼び止められ、そこでようやくフェイリットは振り返る。

 ハレムから皇帝宮へ――通じている「伽の扉」は、まだ遥か先に見えている。振り返るままに見渡すと、ほんの入り口付近のところで、ジルヤンタータは頭をするりと下げていた。


「私はこれにて下がらせていただきます」

「えっ?!」

「〝扉〟の前で呼び鈴を鳴らせば、あとは向こう側に控えている宦官が鍵を開けてくれるでしょう」

 てっきり、ジルヤンタータも一緒に来てくれるものだと思い込んでいたフェイリットは、急に顔色を曇らせる。

「幾度かお会いしたことがおありなのでしょう」


 面識があるなら気を張ることもあるまいと、けろりとした顔を向けられては肩を落とすしかない。こんなことなら、顔の知らぬ男の元へ目通りしなくてはならないほうが、ずっとましだったのに。

 〝あの人〟は苦手だ。肉を喰らう猛禽のように鋭い眼差しと、浅黒く日に焼けた肌、見上げるばかりの背丈――。


 隻眼で長身の、人相の悪さでは誰にも負けないサミュエルより、なぜだかずっと怖い。面と向かっているだけで、胃のあたりがぐっと縮まるような。ともすれば、背中を得体の知れぬ何かが這うような感覚にさえ襲われるのだ。


「ジルヤンタータ」

 助けを求めるように彼女の衣装の袖を掴む。けれどジルヤンタータは骨ばったその頬を苦笑の形に緩めて首を振った。

「私は事情があってお目通りできないのでございます。どうか、おひとりで」

 またひとつ礼を残すと、さっと踵を返して足音も立てずに去っていく。女性にしては逞しいその背中を見つめて、フェイリットは息をついた。しゃらしゃらと肩に触れる糸が鳴らす音すら、なんだか遠くに感じられる。


「――どうしよう」

 何が怖いのかわからない。容姿がそうなのだとかこつけても、もっと怖い人ならごろごろいる。片目の無いサミュエルはもちろんのこと、ジルヤンタータもワルター大佐もベシャハ少佐も強面では片手の指に入るはずだ。怖がることは何も無いのに、まるで〝行きたくない〟と駄々をこねるように、足がずっしりと重く感じられる。


「……すっぽかしたら……駄目かな」

 やっとのことで辿り着いた扉を目の前に、真面目にそう考えてしまう。扉は、イクパルにしては珍しい光沢のある木彫り細工でできていた。吊るされている鈴のようなものに手をつけると、り―――ん……透明な響きが長くのびる。


 お願い、開かないで。


 目を閉じ、まるで祈るように両手のひらを腰前で組みながら、じっと固まる。ほんの数秒のはずなのに、背を伝う汗に時の流れが重く感じられた。

 きしり、木製特有の音がたち……濃い香煙の香りが、急に体を包み込む。

 ――乳香だわ……。イクパルに初めて降り立った夜、嗅いだ匂いを思い出す。恐怖でしかなかった記憶に、自然とまた身体が震えだして、フェイリットは組んだ手を固く握りしめた。


「フェイリット、」

 開いた扉の向こうから名を囁かれ、驚きながらもうっすらと目を開ける。

「……トリノ!」

 安堵に思わず抱きついてから、フェイリットははたと気付く。苦しそうな声が耳元で鳴って、慌てて離しながら眉根を寄せた。


「うわあ、ごめんなさい」

 思わず力を入れすぎてしまった。咳き込むトリノの背を叩きながら、必死に謝る。

「……だ、大丈夫です、とにかく、静かに」

 口元に指を押し当てて、トリノは目をわずかに細めた。


「突然いなくなってすみません……一緒に行くって言っておきながら、こんなところで独りに」

「いいえ、大丈夫です。ジルヤンタータがいてくれたし」

「ジル……?」

「ジルヤンタータ。五十くらいの女の人……知らない?」

 あのくらいの年齢なら、きっとハレムに暮らして長いはずだ。皇帝宮に居場所を移して二年ほど経つトリノでも、面識ぐらいあるに違いなかった。


「ジルヤンタータ…………。タラシャに、あなたのことを頼んでおいたんですが」

 聞いたことがない、そう言いながら首を傾げて、トリノは視線を宙に漂わせる。

「じゃあ、きっとそのタラシャが頼んだんですね」

 そう自分で言いながら、フェイリットは納得する。考えてみればそうなのだ。「夜伽」をしていたタラシャに、フェイリットの身支度を整えられるわけがない。ジルヤンタータ自身だって、「タラシャから頼まれた」と始めに言ってはいなかったか。


「そう……ですか?」

 なにか腑に落ちないものでもあるのか、トリノの口ぶりは歯切れの悪いままだ。

「とにかく、ついて来て下さい」

 扉を閉めて、トリノが歩き始める。薄暗い、何重にも紗布がかけられたそこは、人ふたりがやっと通れるぐらいの幅の通路に見える。直接寝室につながっているものと考えていたフェイリットは、なんとなく安堵に息を吐いた。


「お会いになるのは玉座の間です。こちらに」

 指し示された垂れ幕を潜り抜けて、フェイリットは息をのんだ。

 膝下ほどの段差の上には、メルトロー王国ほどの豪奢な椅子が置かれているわけではなく、禁色で織られた絨毯に肘置きが配されている。天井からは幾重にも折り重なりながら、滅紫の幕が垂れ下がり、壇上に座る者を囲んでいた。


「ようこそ」

 斜に構えたような声を出し、その玉座の上の男は笑った。

 漆黒の目に浅黒い肌、艶の無い闇色の髪は張り出した額の上から後ろに流されている。はだけている印象しかなかった長い皇帝衣は崩れなく、玉座から見下ろす視線には隙が全くなかった。

 口元に浮かべた笑みこそ、お世辞にも柔らかいものではなかったが、


「……ディルージャ・アス・ルファイドゥル・バスクス二世陛下……」

 〝噂の無能帝〟を目前にして、フェイリットはその正式名を口にせざるを得なかった。

 合わされた目線に見え隠れする知性の片鱗。とても、今まで顔を合わせていた男だとは思えぬ別人ぶりに、フェイリットは瞬く。

 身の内を焦がす、狂おしいほどの焦燥感……。得体の知れない感覚が、背骨のあたりに溶け出した。


「そうだ」

 ――これが〝無能〟と言うのなら、言った者の目はおかしい。けれど、それは間違いなく自分も同じだ。今までの放蕩ぶりを聞いて〝無能でないはずがない〟と、思っていたのだから。


 伝え聞く噂はだらしなく、女とハレムにばかり偏っていて、政治はしないし軍の総指揮というのも名ばかり。「皇帝」としての仕事のすべては、現在も宰相であるウズが執り行っている。

 皇帝だとはわからず実際に会っていても、身分が高そうだと感じただけ。


 感じていた〝怖さ〟の源泉を見つけた気がして、フェイリットは目を開いた。滲み出る才知をこうも巧みに隠しおおせて、何が無能だというのだろうか?


 何を考えているかわからない――正式にはそう表現したほうがしっくりくる含み顔をわずかに歪めて、バスクス帝は肘置きにかけた指を自らの顎元に寄せた。

「不貞寝でもしていたか?」

 ふ、と小さく笑って、低い声で問われる。

「……はっ、あの……」

 やはり身支度ぐらい、してくるべきだった。皺のついた衣装を見下ろして、フェイリットは眉根を寄せる。

「ち、ちがいます」

「――ほう、では何故だろうな」

「それは」


 考えてみれば、理由はどうあれ不貞寝に違いは無いのだった。タラシャと友達になれなかったし、チェクチェロも食べ損ねた。挙句見てはいけないものを見、何となく罪悪感を感じて。食い意地ばかり張っていた罰かもしれない。

 意地を張ってしまってから、どう言ったらいいものかわからなくなる。


「貴方に嫌われようと思いました。こんな格好をして現れたジャーリヤを、抱きたいとは思わないでしょう……タラシャみたいに」

 わずかに震える声を押し殺して、フェイリットは答える。

 面食らったような顔をした後、それを聞いたバスクス帝は低い声をたてて笑い始めた。

「気にしないと言ったら? 脱いでしまえばいい」

「つ……月のものもまだ…」

「むしろ興奮する」

「……っ」


 バスクス帝の口元に面白がるような笑みを見つけて、ようやく気づく。

 ――からかわれているのだ。

 唇を引き結んで小さく息を吐き出しながら、フェイリットは首を振った。

「他に御用があって、呼ばれたのだと思っていましたが」


 立ったままだったフェイリットは、そこでようやく膝を折り、床につけて額を落とした。皇帝にする最高位の敬礼をしながら、じっとその答えを待つ。

 初めに感じた印象が間違っていないなら「夜伽」では絶対にない。自分をわざわざハレムにまで入れて、どうしようというのか。その理由が知りたかった。


「――おもてを上げろ、ギョズデジャーリヤ・タブラ=ラサ」

 低い声が頭上に降りかかり、はっとして顔を上げる。そこにバスクス帝の足先を見つけて、驚きのままにその遥か上に目線を移した。


「タブラ=ラサ、単刀直入に言おう。お前をしばらく私の妃として連れ歩く。が、正直小姓としてのお前の方が欲しい。だからそうして容姿を変えさせた。聞いているぞ、あの無法者のシャルベーシャを落としたと」

 どうやった? そう問われて、フェイリットは口を紡ぐ。


 十人の兵士から、一本取れば従ってやると言われたのは覚えていた。けれど気づいてみれば、目の前に気を失った男たちが点々と連なっていたのだ。剣は持っていなかったから、メルトロー王国のつながりは知れることはなかっただろうと思えるが――。

 考えようとすればするほど、記憶が遠ざかる気がする。

「一本取ったら従うと、言われただけです」


 鼻をつくように哂って、バスクス帝は視線をフェイリットの後ろへと移しやった。

「一本取るのが条件のようだな、マムルーク・シャルベーシャ」

 明らかに自分へ向けられたものでないその言葉に振り返れば、思わぬ人の姿が目に入る。玉座の間の入り口にかかる垂れ幕が開かれ、シャルベーシャその人が立っていたのだ。

「お前を従えるには、私も一本取らなくては駄目か?」

 シャルベーシャのきつい表情は、何故だか驚きに染まっているように見えた。

 じっと固まったまま、バスクス帝の方を睨むようにして見つめていた彼は、しばらくのちに肩を竦め苦笑した。


「そのお言葉では、もう一本取られたも同じ。踏破しさえすりゃあいいんでしょう、ヤンエ砂漠を。俺らの仕事はそれだけだと、そこのお嬢さんとも約束したんでね」

 そうだったろ? そう片眉を上げられては、フェイリットは曖昧ながらも頷くしかない。


 ヤンエ砂漠を越えて、バッソス公国へ入る。その無謀ともとれる行為を成すため、シャルベーシャに「案内」だけを頼んだのは、確かに自分だったのだ。

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