41 紺碧の夜に舞う二鷹

 すっかり日の落ちた闇の中、虫が鳴くかすかな声音が、やわらかく響いていた。

 いつもどおり鍛練場を出て、コンツェは目を細める。


 暗い路地のほうに建つ建物から、橙色の光がもれ出ていた。暗がりばかりを見つめていた目に、そのやわらかな眩しさがちりちりと痛む。

「もう晩飯どきなんだな」

 薄くのしたイムを炉の火であぶる香ばしい匂いが、どこからか漂っていた。そのイムをひたして食べる、タナと呼ばれる香草と香辛料をふんだんに混ぜたスープの香りも。


 鍛練場と軍轄の建物のある区域との隔たりは泥壁でできていて、子供の背丈ほどの高さしかない。東と西、ちょうど対になる方向で馬が三頭、首を並べて進めるほどの入り口が切りとられていて、その両方に軍轄の建物が連なっている。


 西側が兵舎と中枢部、東側が上級兵士たちの家族や、彼らが営む兵士用の飯屋だ。コンツェが出たのは東側で、いわゆる飯屋の並ぶ方角だった。


 イクパルの家々は、泥を塗って固めた壁の上部に、小さな四角い穴を開けている。それは食事をつくる炉がそばに配してあって、家のなかに煙がこもらぬようにするための仕組みだ。このあたりに連なる建物――家、食事屋、宿屋などさまざまあるが――も同じ造り。

 この小さな〝まち〟は、城の門を潜った場所にあっても、見かけはほとんど城下と変わりが無い。こちら側で帝宮と同じく整然とした風体をもち、赤の砂岩でつくられているのは、鍛練場の西側を出た軍中枢部の建物くらいだ。


「あ、」

 目前に並んでいる食事屋のひとつから、もくもくと白い煙がたち昇っていた。イムとタナの香ばしい匂いは、あそこからくるものに違いない。

 ふと、胸元に触れてみて、コンツェは顔を曇らせる。

 しまってあったままの、〝手紙〟の固い感触が手のひらに伝わった。

「……飯でも食うか」


 酒でも飲んで、少し頭を冷やすべきだ。

 足どりもしっかりとしていたし、冷や汗だってかいてはいない。――ただ、頭の中だけが、霞がかかったようにはっきりとしなかった。


 妹からの〝手紙〟を受け取ってからずっと、頭に浮かぶのは、祖国のことばかり。

 運んできたの顔は、確かに妹に忠するもの。……信用はできる。だが、情報が本当のことだとしたなら今自分には還るしか道がない。

 ぎりぎりの刻限は夜明け前。今日の風向きは頬を撫でるほど穏やかで心もとないが、船で向かう前に鷹をつかって帰国を告げたなら、こと、、を遅らせることが叶うかもしれない。


「……? あれは、」

 そうして目線を上げた先の光景に、コンツェは思わず目を見開いていた。

 遥か向こうから人影が二人、こちらに向かって駆けてくる。微妙な勾配になっているから、こちらからなら迷路のような道筋も見通すことができた。

 アバヤを纏った女と……小姓衣の少年。

「フェイリット?」


 小姓衣のほうではない。前を走る、アバヤを着ている女のほうだ。

 後ろを追いかける少年はフェイリットの影になって顔まではわからないが、鬼ごっこでもしているのか。それにしては必死の形相を浮かべていることを不審に思いながらもそのまま視線を向けていると、彼女の湖水色の瞳が、しっかりとコンツェを捉えた。


「コンツェ!」

 より一層近づいた彼女が寸でのところで立ち止まり、名を叫ぶ。その必死さに圧され、コンツェはとっさに両腕を広げてしまった。

 ――ぶつかる……! すぐさま腕の中にどん、と衝撃がはしり、コンツェは小柄なその身体を抱き止めるために両足を踏ん張る。

「助けて……!!」


  ばれそうだ、、、、、と、勢いのまま抱き上げる形になったコンツェの耳に、フェイリットが小声でまくし立てる。

 視線を巡らせると彼女を追っていたのはアンの小姓の――たしかテギという名だったか。

 コンツェは微かに頷いて、抱き上げていたフェイリットを静かに地に下ろし、背中のほうへと導く。


「お前はアンのところの?」

 小姓に向けてそう聞くと、戸惑ったように返事が返る。

「……はい、その子を送るように言われて」

 テギの瞳が、探るように背後のフェイリットへと向けられた。コンツェは苦笑して、彼のほうを見やる。


「そうか、ありがとう。戻って俺が引き受けたって、アン少尉に伝えてくれないか?」

「……承知しました」

 およそ承知などしていないような曇った顔で、テギが軍隊式の敬礼を返してくる。

「お前も気をつけて帰れよ」

 振り返ってフェイリットを促し、一度兵舎の方へと連れて行く。来た道を戻るのでは、諦めぬテギがこっそりついて来る可能性があったからだ。

 しばらく歩いて周囲に気配がないことを確かめると、フェイリットがほっとしたように息をついた。


「死ぬかと思ったー……」

 大げさだな、そう言おうと隣を見下ろすと、拳でとんとん心臓のあたりを叩いている。思わず苦笑して、コンツェは納得した。

「アンの所に行ってたんだな」

「うん、腕の具合を見てもらったの。まさか送っていくって言われるとは思わなかった」

 もう小姓も帰ってるころだと思ったのに。そう付け足して、彼女はうんざりと息を吐いた。


「その格好じゃあな」

 そういえば、とフェイリットは顔を顰める。

「小姓衣で行くって言ったのに、着て行くようにってうるさく言われちゃって。やっぱり重くて大変だったわ」

 ぱっと黒いアバヤを脱ぎ去ると、ターバンを巻き小姓衣を着た、いつもの彼女が現れる。

「ほら、アバヤも取ったし。もう女だってわかんないでしょ? 夜道も平気よ」


 女だから夜道が危ないというわけではないのだが。

 あどけない顔で笑む愛らしい「小姓」を眺めて、コンツェは嘆息した。


 イムタナの匂いがまた、鼻腔をくすぐってくる。食事をしようとしていたことを思い出して、コンツェはわきにいるフェイリットの頭を、見下ろして言った。


「飯でも食わないか? このあたりはちょうどいい店が並んでいるし、おごるよ」


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