21 気配
寝台が五つに、間仕切りの薄灰の布がそれぞれを仕切る狭い空間。わざわざ首をぐるりと回さずとも、この部屋に患者の姿はひとりもない。
診察室の奥の小部屋に隙間なく詰められた無人の寝台を眺めて、カランヌはため息を捻りだした。これで五件目、ため息をつくのも飽きてくる。
「すみません、城下の診療所はここで最後なんです…」
カランヌのため息を、まるで自分の失態のように責めた口調で小姓のウトゥムが呟いた。だが、その言葉にふと首を捻る。
「城下の?」
年輪を重ねて低く擦れた声が、そのあとに続いた。どうやらスリサファンも、同じ疑問を持ったらしい。
問いに頷いたあと、ウトゥムが診療所の医者に会釈する。
「…アデプの者なら、最初の門まではくぐることができます」
診療所を出て、歩きだした。
スリサファンと二人、あんなにぐるぐると迷わされた路なのに、イクパル城の門が視界に飛び込んだのは思っていたよりも早い。
「城の…いいえ、その門の向こうにも診療所があるのね?」
「はい」
ウトゥムが答えて頷く。
「けれど、アデプの民だという証明が必要になります。あるいはバッソスの許可証でしょうか」
「その証明には何が?」
「住民録です。戸籍を取り寄せてそれと一緒に。とてもではないけど、今日明日で息子さんにお会いするのは不可能だと思います」
肩をすくめて、ウトゥムが小さな息をはく。
「他の方法はないの?」
「あるにはあるんですが……、どうかなさいました?」
カランヌは門へと続く水のない堀に架けられた、緩やかな橋の上で立ち尽くしていた。
ふと、身を包んだ黄金の気を―――門の向こうから流れ来る、身の内を焦がすような感触を感じて。
カランヌは大きく息を吸い込むと、口の端に笑みを乗せた。間違いない。
サディアナが、この向こうにいる。
「教えてください。何が何でも行かなくては」
この国に来て、初めてイクパル語を吐き出す。口の利けぬ男、とでも思っていたのか、ウトゥムの顔が唖然となるのを視界の隅で認めて、スリサファンへと真正面に向き合った。
「わかったのですね?」
「ええ、」
彼女の鋭さに、カランヌは心底満足を覚えた。いちいち説明をせずとも、研ぎ澄まされた彼女の神経は一を聞いて十を察する。
侍女頭などと言ってはいるが、その身の半分は護衛の武人。自分達は、実はひっそりとその女だてらの武骨な手で護られているのだということに、メルトロー王族たちは気付かない。
侍女として、護衛として働ける有益な人材。ノルティス王の人選に初めて感謝を込めながら、カランヌは彼女に向かって苦笑を見せた。
「やはり間違ってはいませんでした。……ウトゥム、もうひとつの方法を教えてくれますね?」
「はい。それは隊商にまぎれこむことです」
ウトゥムの静かな言葉に納得して頷く。たしかにこの国の特色を考えればそれが一番いい。商人なら、城下であれ城内――場所は限られるが――であれ自由に露商を営んでも良いようだった。
「では、そうしましょう」
カランヌたちは露商に身を隠すため、もと来た路に引き返した。
*
「アン少尉お客さまが」
露商のようですがどうしましょうか。表の小間使いをすべて任せている小姓が、仕切り幕をめくって顔を覗かせる。
「テギ」
灰褐色の髪と焼けた肌、深い群青の瞳の子供。小姓に自分の世話をさせるのはあまり好むほうではなかったが、この仕事の場合そうも言っていられない。
「おかしいね、病人か?」
いくら城の中での露商を許されている商人でも、軍轄のここへ気軽に訪ねてこられるわけではない。アンの役目は、あくまで軍人の傷病の治療をすることに尽きる。
「それが…」
そのまま部屋に入ってきて、テギはアンの傍に寄る。
「ウトゥムが連れてきたので、」
「ウトゥムというと…」
ベシャハ少佐の小姓か、と記憶を探り出す。
コディ・タイハーン・ベシャハ。
あまりその名に関した噂は聞かない男だが、それでも少佐という地位と伯爵家ベシャハの家名は無下に出来ない。
「わかった、出よう」
「四、五十代の女姓とお若い男性の二人連れです」
仕切り幕をめくってアンを通しながら、テギが小さな声で続ける。
診察に使っている部屋の、ちょうど入り口の辺りに三人の人影を見つける。逆光のせいで真っ黒だが、テギの言うとおり二人連れにウトゥムが合わさった人数だ。
「どうぞ、中へお入りください」
「……子供を捜しているのですが」
女性の方が、つかつかと部屋の中に入ってくる。黒いヴェールのせいで目元だけしか見ることができなかったが、色の黒さで言うならイクパル人だ。
「子供?」
「ええ、露商と欺いたことをまず謝ります。捜している子供が、怪我をして医者にかかっているはずなのです。歳の頃は十六、いえもっと幼く見えるかもしれません」
ふと、脳裏に浮かぶ少女の姿。自分が知っている十六歳と言えば、フェイリットくらいのものだ。
まさか、追っ手が? アンはそこまで考えて、ふと入り口に立ったままの男性へと目を向ける。
「生憎とこちらは軍直属ですので、一般の方の診療は行っていないのです。そちらの方は…?」
努めてさり気なく、男の存在を気にしてみる。もう少し部屋のなかに入ってくれたなら、その顔を見ることができるのに。
「兄です」
柔らかな声が、一歩、近づく。背の高いその顔を見つめて、アンは驚愕の表情を浮かべてしまった。
髪はターバンで隠されていて、肌の色はわりと薄い。瞳の色は淡い芝色。だが、そんなことはどうでもよかった。
〝誰の〟兄か? その主語を聞かずとも、はっきりとわかる。
似ているのだ、フェイリットに。
雰囲気というのか、特徴というのか。例えるなら彼女が男に生まれていて、あと十年歳を加え、その体色を濃くしたような。
「…見覚えがおありですか」
流暢なイクパル語でそう問い、「兄」と称した男が髪を包んでいたターバンを解き放つ。
もう自分の表情を、知らぬ存ぜぬと偽ることは不可能だった。
フェイリットよりやや濃い金色の髪は、やはり彼女と同様、柔らかそうなくせ毛で緩やかに流れていた。少なくともその血のつながりを、疑うことはできない。
「…存じません、申し訳ないのですが。やはり一般の方となると城下ではないでしょうか」
相手は明らかに、アンがフェイリットを見知るのを察しているはず。それでもこう言わずにいられない。
フェイリットを追っていたのは、血縁関係などなにもない、ただの人買いであったはず。
兄だと言われて、納得できてしまうほどの男が彼女を捜しているとしたなら、本当のことを…彼女を預かっているということを、告げるべきなのか。
「どうぞそれらしい者を見かけたらお教え下さい。私の名前をお伝えくださり、どこへも行かぬようこの町に留めていただけたらそれで構いませんから」
食い
フェイリットは村の出だと自らを称したが、彼を見て首を傾げざるをえない。裕福な商人か、地主か、あるいは……。そんな印象さえ、この男には自然に思える。
「わかりました。あなたのお名前を聞いておきましょう」
「カランヌ、と。それだけで分かるはずです」
丁寧な動作で、男はその整った綺麗な顔を礼と共に伏せた。
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