12 帰邸

 屋敷に着くと、見知った顔が出迎える。長い赤毛をゆるやかに括り、そばかすの乗った白い頬に柔らかい笑みを浮かべる美しい人。

「おひさしぶりです、母上」

 懐かしい顔に向かい、アンはそっと微笑んだ。


 何かと理由をつけて兵舎で過ごす毎日。屋敷に戻るのは、本当に久しぶりだ。仕事ではあっても、ジャイ・ハータの門を潜るのさえ久しい。


「おかえりなさい。最近貴女の姿が見えなくて寂しかったのよ。しばらくは家に居られるのでしょう?」

 人に安らぎを与える柔らかい声―――ああ、いいな、……そんなことを感じながらも、アンは頬に苦笑を乗せる。

 出迎えなど侍女にやらせればよいものを、自ら屋敷の入り口までおいでになるのは困ったもの。代替わりして多少緩められてはいるものの、女性の外出を規制する先帝の法はまだ健在なのだ。


「すみません、忙しくてなかなか。……兄上は?」

 薄い濃紫のヴェールが彼女の頭から風で飛んでゆかぬよう押さえてやって、此処からでも見渡せる回廊の列柱の向こう―――彼の部屋があるあたりに目を凝らす。


「ウズは今しがた宮殿のほうに上がりましたわ。…まあ、お客様が?」

 後ろに控えるようにしていたコンツェとフェイリットを見つけると、母――エセルザは朗らかに首を傾げた。


「コンツ・エトワルト・シマニ。近衛師団騎兵連隊・第一中隊長にあります」

 目線を受けたコンツェは、軍隊式の礼をとる。宰相宅は皇家でもあるため儀礼は宮廷式と決まっているが、着ているものが軍衣では仕方ない。アンは苦笑してエセルザを見た。


「じゃあ、お噂の中隊長さんね」

 エセルザはふと口元に手をあてると、得心したようにコンツェを見、頷く。

「噂…ですか?」

「ええ、ワルター殿から聞いていますわ、昇進を拒み続けてる中隊長がいらっしゃるって。貴方なのでしょう? テナン公国の公子殿」


 エセルザの言葉に、コンツェは困ったように笑った。

「いいえ。私は末子ですので一介の貴族と同じようなものです」

「末子でも肩書きは変わりません。後にテナンの王になられるから、昇進を避けられているのだと皆が思っていますでしょうに」


 アンは小さなため息をつくと、エセルザを見つめる。こうなってしまったら、この人の好奇心は留まらない。

「…お母様、立ち話もなんですから」

「まあ、私ったら…ごめんなさいね。アン、そちらのお嬢さんは?」

「ええ、怪我をしているのでしばらく家に置くつもりです」

 寄越した目線の先に小柄な少女が居るのを見止めて、エセルザは微笑む。

「…わかりました。軍医さんのお仕事ごくろうさまですね」

 エセルザは含み顔で頷いた。突然連れてきた患者に、何かわけがあると察したのかもしれない。


 フェイリットには追っ手がいる。城下に部屋を用意したのでは、その追っ手から隠れる意味がない。とりあえずはここで静養させて、落ち着いたらここで生きていけるよう身の回りを整えてやろう。

 ワルターと話し合い、それが一番いいのではということになった。身寄りの無い年頃の娘に、「怪我が治ったら自力で生きていけ」と放り出すような真似はできない。


「どうぞお庭で休んでいて。あとで冷たいお茶も運ばせますわ」

「ありがとう母上」

 エセルザの代わりに年若い女中が奥から出てきて、アンとコンツェの帯剣を預かっていく。皇族の家には帯剣のまま上がれない規則だ。

 庭は屋敷の入り口から一段高い、外側の回廊から周って中央に位置する。どの部屋にも均一に陽光を取り入れることの出来るよう、ひとつひとつの部屋が庭に面しているのがこの国の邸宅の造りだ。


「…フェイリット?」

 ふと横を見ると、青ざめた顔でフェイリットが俯いている。呼びかけに気づいて答えようと顔を上げるが、やはりその顔に生気はない。

「どうした?」

 その額に手をあてると、思った以上に熱い。うっすらと浮かぶ汗も脂じみている。


「……早いな、鎮痛薬がもうきれたか。眩暈はする?」

「はい…、でも」

「もともと療養のためにここに来させたんだから、気は使うな。コンツェ、運んでやってくれ」

「了解」


 携帯していた熱冷ましにも効く鎮痛薬をフェイリットに噛ませ、コンツェに抱き上げさせる。華奢な身体を軽々持ち上げて、ふとコンツェは苦笑した。

「…どうした?」

「いえ、疲れてたんですよ。馬に乗るのは初めてだと言ってましたから。ほら、」


 促されるままにその腕の中を覗き込むと、フェイリットの安らかな寝顔が目に入る。あっという間に眠りの世界へ旅立ったようだ。

「…なんだお前、けっこう懐かれてるんじゃないのか」


 フェイリットが何ゆえか気を張り詰めていたのは、早々から気づいていた。追っ手を恐れるが故だろうと思っていたが、身の安全を得てしばらくしても、一向にその糸は途切れることがないようだった。それで心配していたのだが……コンツェに身を預けた途端、驚くほど静かに消えていったではないか。


「そうですか?」

「よかったな、当初の目的が果たせるかもしれないぞ」

「当初の目的って…」

「そりゃあ、フェイリットをお前の妻にするっていうやつだよ」


 コンツェの顔がどんどん赤くなっていく。面白いのでそのままにやにやしながら眺めていると、大きなため息を吐かれた。

「忘れてましたけど、ここに連れ帰ってきたのって結局ソレでしたね」

「何を言ってる。怪我が治っていざ身の振りを考えた時、養ってくれる者がいたほうが安心だろうが。大事なことだよ」

 まして女が自由に働くことのできないイクパルで、少女一人はやはり危ない。

「……そうですね」


 アンは、渋面ながらも頷くコンツェを満足げに見つめる。

 メルトローに売られるはずだった村娘。その彼女の命を拾い助けたのは、他でもないこの若い青年だ。なにかの縁で妻をめとるとしたなら、これがいわば天命というやつなのかもしれない。


「適任はお前だと言ってるんだ。医療天幕テントに忍び込んで、頭撫でてるくらいだろ。きっと大事にできる」

「か、からかわないで下さいよ。言っておきますけど、俺は嫌がる子を妻にはできないですからね」

「だろうな」


 回廊を歩きながら、アンは和やかに微笑んだ。

 彼の優しさなら大丈夫だ。

 この子がくさびとなり、彼を繋ぎ止めてくれたならきっと―――。


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