11 砂漠の宮殿
イクパルはアルケデア大陸の
国土の半分は乾燥地帯。ろくな作物は育たず、丈の短い草が生えるばかり。こんな土地では、家畜を飼う程度のことしかできない。
人々の収入源は、草原に放した山羊や羊、牛などを追う遊牧・酪農がもっぱらだ。そうして得た毛皮や乳製品を売って身を立て生活している。
―――産物に欠しい地帯で遊牧と酪農だけで国を潤すというのは、難しいだろうな。
延々と続く砂地を見下ろして、フェイリットは考える。
しかもこの国は、たしか何代も前のころから鎖国をして、帝国の領土以外の国とは国交すら無かったはずだ。
荒れた土地を潤すのに必要不可欠なのは灌漑。だがイリアス公国を出、砂漠に沿って見てきたが、ここまでそれらしい設備は見当たらなかった。
灌漑の技術が開発されて、まだ日も浅い。他国と交わりのないイクパルのこと、その技術を知らないのも当然だろうが……。
―――それにしても、灌漑には水脈が必要だわ。この地帯は、水脈にも恵まれなかったのかな。
ため息ながらに、フェイリットは苦笑する。
幼い頃から嫌々ながらも受けていた教育が、なんだか役に立っていた。
サミュンの受け売りだから、国の情勢には多少の時差はあるだろう。それでも瑣末なことをのぞけば、その知識はまだ使える。
この国の領土は三方を自然国境である高山アルマに囲まれ、本来ならば自然の要塞ともなりえる環境にある。
諸国を治めるには、良い地理を持っていると思うのに……。水がないというその一点だけで、こんなにも―――……、
「みず……」
ふと、遠方に
「喉が渇いたのか、フェイリット」
唐突に頭上からかかるコンツェの声に、するすると現実へ引き戻される。
「……え?」
フェイリットが顔を上げると、覗き込むようにこちらを見るコンツェと目が合う。
「水って言わなかったか? ほら、水筒」
たぷん、と差し出された革の水筒を見つめて、フェイリットは目を瞬かせた。
「あれ……わたし水って言った?」
「ああ」
口に出したかどうか、覚えてはいなかった。だがせっかくの水だ。ありがたく受け取って、袋の口紐を解いていく。
「起きてたんだな。音沙汰無いから、ずいぶん深く眠り込んでるんだと思ってた」
「眠ろうと思ったんだけど、」
おしりの辺りが強張って痛い。馬に揺られ続け半日と経ったであろうか。馬の揺れをコンツェがずいぶんと抑えてくれていたが、それでも慣れないことに変わりはない。擦れて痛いおしりを気にしていたら、眠気なんて吹っ飛んでしまった。
「考え事してたら眠気が吹っ飛んで」
わずかに訪れる沈黙。―――〝追っ手〟のことを考えて、不安がっているように見えたのだろうか。素直にお尻が痛くて眠れなかったと言ったほうがよかったか。そうなると、歳の近い青年に向かって「尻が痛い」と訴えなくてはならなくなるわけで……それはやはり恥ずかしい。
フェイリットは申し訳なく思いながら振り返り、彼の顔を伺った。
この国特有の日に焼けた肌と、並ぶ濃茶の瞳。切れ目がちなのに、目つきが悪いとは思わせない、優しい眼差しだ。黒かと思ってよくよく見れば、陽の光で「ああ、茶色なのか」とわかる程度の微妙な色合いの。
ふと視線をずらして見ると、彼の頬が土汚れている。それがなんだか面白くて、フェイリットはふと息を漏らす。ずいぶん長い時間、砂風から守ってくれていたのだろう。
風が吹いているなんて、気にも留めなかった。
「え、なに?」
文字通り、自分の顔になにかついているのかと、戸惑っているコンツェ。
「なんでもない」
微笑んで、来ていた服のひらひらした袖の部分をかき集め、彼の頬を拭ってやった。
拭われた自らの頬に手をやって、コンツェが穏やかな笑みを浮かべる。口角に浮かぶかすかな笑窪・・・。
「ありがとう」
コンツェの笑顔を見ていたら、いつの間にやら見つめ合うような格好になった。それに気づき、フェイリットは慌てて視線をわきへ逸らす。
「あ、見て」
コンツェが指を差し、前方を示す。その指の向こう―――とつとつと見え始める黄砂の色の人家の群れ。
「あれは・・・」
先頭を行く馬の列が、その家々の間を縫うように入っていく。領土を仕切るための囲いは無く―――高台に立つ城を中心として城下の家々が、迷路のごとく放射状に広がっていた。
「そう、あれが帝都だ」
*
うねうねと連なる城下の黄土色の家々。大きな水瓶を背負い歩く人、露店には見たこともないような果物や毛皮、美しい布が並べられ、それを見にちらほらと人が集まっている。
「他国のように門扉は無いんだ。地利の無い者が入り込んでも、案内無しには城まで辿り着けないからね」
馬に乗った〝城の人たち〟を見上げて、住民は恭しく頭を下げていく。
優雅な会釈で返して見せ、コンツェが頭上高くを見上げた。
「ほら、あれがイクパル城だ」
連なる土色の壁の最奥に、かすかに見える大きな建造物――。フェイリットは目線を空近くまで動かして、口を開けた。
「赤い―――城」
張り巡らされた水の無い堀の向こうに、台形状に上へ昇る赤色の城がこちらを見下ろし聳えていた。城下に広がる土色の街と見事な対色を描いている。幾重もの城壁に囲まれた、その最も高いところに広がる一番大きな横長の宮殿―――その中央部分には、いくつかの球形の屋根も並んで見える。
―――なんて、
「美しいだろう? あの赤い色は赤砂岩なんだ」
――そう、美しい。城ならば、どこでも同じだろうと思っていた。絵画でだけ見たことのあったメルトロー王宮とは、材質も建ち方も明らかに違う。
メルトローの王宮は誰に聞いても「美しい」と答える。他国の人間が見たら、指を咥えるか感嘆に涙するとさえ言われる宮殿だ。しかしメルトロー宮殿の連なる均一さと正確な左右対称は、どこか人の手を感じさせずにいられないもの。
イクパル城の単一色の赤と、無駄な装飾を省いた砂岩の外壁。それはどこか人智の力を越えたものさえ感じさせる。メルトローの芸術的な美とはまた違った、何とも不思議な美しさと威厳が漂っていた。
完璧な城塞だというのに、そこに感じられる意匠は惜しみない。
「俺はここの城が一番好きだな。故郷は違うけど、なんだか『還ってきた』って感じがするんだ」
「……うん」
じんわりと、胸を締め付けるような焦燥感。不思議な感覚を味わいながら、フェイリットはじっと城を見上げ続けた。
「城の門を三つくぐった一番奥に王宮が……見える? あの丸い屋根だ。あの前には貯水用の大きな泉が広がってて、月夜の晩には水面に浮かぶもうひとつの宮殿を見ることができるんだ」
水面に漂う赤色のイクパル宮殿、それはさぞかし幻想的だろう。意匠は惜しみなく凝らすけれど、自然への敬意を忘れない民族。
自然さえ制圧しようと志す、メルトローとは対局の意図が読み取れる。天を指す美しい針と呼ばれるメルトロー宮殿とは、やはり対極だ。国によって、こんなに〝想い〟に違いがあるなんて。
「台形みたいな型をしているけど、いくつもの宮に分かれてるの?」
造りを見上げて、フェイリットはふと思う。ひとつに繋がっているかと思われた建物は方々で途切れ、緩やかな坂ごしに連なっている。
「そう。あの門の向こうも、独立した街になってる。その中でも皇帝が住まう宮殿はあの一番上の部分だけで、行政もすべてあそこで取り仕切られてる。下のほうの宮はみんな皇族や貴族の住居だ」
堀にかかる橋を渡りゆるやかな勾配を上っていくと、大きな城門が迫ってくる。楕円のアーチを描く門の両脇に立つ衛兵が、行列とは遅れて馬に乗るコンツェの顔を見つけて敬礼した。
「門は三つある。今潜ったのがジャイ・ハータ門、次がアル・ケルバ門、王宮につながる最後のがタルヒル門」
門兵に敬礼を返しつつ、コンツェが説明を続ける。
「ジャイ・ハータ門とアル・ケルバ門の間に練兵場と兵舎がある―――俺やアンが暮らすのは大体このあたり。その他にも下級の貴族の屋敷があったり、高級商人が露店を開いたりする」
「なるほど、街だね。ジャイ・ハータ、アル・ケルバ、タルヒル…なんだか人名みたい」
久しく剣には触れていない。錬兵場とやらがここからは見えないことに心中で落胆しながら、フェイリットは感心したように息をつく。
「うん、もとは人名らしいよ。昔の皇帝の名前だったか、将軍の名前だったか……まあここでは皇帝も将軍も兼任するようなものだから、皇帝って言ったほうが正しいのかな」
ふと見遣ると、前方を行っていた近衛たちが二番目の門であるアル・ケルバを通らずして進路を左へと向けている。錬兵場と兵舎がこの狭間にあるというから、そのどちらかへ戻るのだろう。
コンツェの駆る馬はそれには習わず、アル・ケルバ門へと向かった。
「アル・ケルバ門とタルヒル門の間に皇族の屋敷が並んでる。君をアンの実家に届けるよう言われてるから」
「……そういえば、アンは皇族なのに兵舎で暮らしてるの?」
さきほどの兵舎の説明では、そういうことになる。真っ先に出るだろうワルターの名が上らなかったのは、彼がちゃんと自分の屋敷に居を持っているからだろう。同じ皇族なら、アンだって実家に住んでいたほうが自然なのに。
「アンは前帝の宰相の娘って言ったのは覚えてるか?」
「ええ、それで今はお兄さんが継いでるって」
「そう、元凶はその兄。―――ああ、ようやく来た」
ぞろぞろと過ぎ去る馬の列から逆行して、白馬を駆るアンの姿が見える。
アンに向かって手を降ると、コンツェはすとんと馬から飛び降りた。
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