第2話 図書委員の後輩は、清楚系美少女


 放課後。



 最後の授業が終わってからまだ三十分も経ってないのに、既に廊下は閑散としていた。聞こえてくるのは、あたしの上履きがぺたぺた鳴らす音に、時折、遠くから響いてくる吹奏楽部の楽器の音だけ。ついさっきまで、あんなにざわついていたのが嘘みたいに静かだ。みんな、授業が終わったと同時に真っ先に部活に向かうか、家に帰るかするから、案外こういうなものなのかもしれない。


 かく言うあたしも、いつもだったら図書当番のない月曜日は、すぐにお家に帰るところなのだけれども。


『あのね、誰も彼がお昼ご飯を食べているところを見たことがないんだって』


 どうしても、親友の放ったこの一言がささくれみたいに心に引っかかっていた。


 もっと詳しく聞こうとした瞬間に五限目の始まりを知らせる鐘が鳴って、結局聞けずじまいになってしまった。


 まぁ、ともみも、あの時あたしに話したことより詳しいことは知らなそうだったし、それ以上聞いても無駄だったかもしれないけど。


 お昼休みが終わった後は、なんだかいつも以上に授業に身が入らなかった。


 五限目と六限目の間、先生の声を右から左へ聞き流し続けて、ぼんやりとともみから聞いた話を反芻していた。


 とはいえ、もとより考えることが苦手なあたしだ。そもそも、いくら頭を捻ったところで答えが見つかる問題でもない。


 案ずるより産むが易し。


 思い切って本人に聞くのが一番手っ取り早いという結論に至った。



 そういうわけで、早々に意を決したあたしはいま、図書室に向かっている。委員会の当番でもないのにあの場所に向かうのは初めてだ。


 月島くんなら、きっと、今日も図書室に来ているだろう。


「失礼します」


 そっとドアを引くと、この場所特有の本の匂いが鼻をかすめた。


 さっと視線をめぐらせて月島くんを探したけれど、遠目からでもすぐにわかるあの細身のシルエットを見つけることはできなかった。


 なんだか、一気に拍子抜けしてしまった。


 月島くん、今日は、図書室に来ていないのか。

 一瞬、間違えて別の部屋に入ってしまったかのような錯覚すら覚えた。彼のいないこの場所は、最後の一ピースが抜け落ちているジグゾーパズルみたいに思えた。


 カウンターの向こう側には、今日の図書当番の後輩ちゃんが本に目を落としながら、座っていた。もっとドアを引いて図書室の中に足を踏み入れると、彼女はようやくあたしがやって来たことに気づいたようで、ゆっくりと顔を上げた。


「あれ、由花先輩じゃないですか。今日は、先輩が当番の日じゃないですよね?」


 穏やかで、やさしく甘い声。少し垂れ目ぎみの大きな黒い瞳が、たおやかに細められる。


 図書委員の後輩、桃瀬ももせ 綾乃あやのちゃん。


 百合のように清楚な、新入生きっての美少女だ。


 自ら図書委員を志願したという読書が大好きな綾乃ちゃんは、上品でおしとやかで、本を読む姿が本当によく似合っている。


 女のあたしから見ても、外見だけでなくちょっと内気な性格まで含めて、本当にかわいらしい女の子だ。


 もちろん、男子が放っておくわけもなく、うちのクラスの馬鹿共男子たちも、誰が綾乃ちゃんをGETできるかなどとわいわい騒いでいた。


 おしとやかな文学美少女、か。

 あたしには絶対に真似できないキャラだなぁ、ちょっと羨ましい。


「うん。でも、ちょっと用事があって来たの」


 そういえば、一つ年下ということは、綾乃ちゃんは月島くんと同じ学年だ。

 折角ここまできたんだし、思い切って彼女に彼のことを聞いてみよう。


「綾乃ちゃん。突然なんだけど、月島くんって知ってる?」


 彼女は、あたしの言葉に小さくうなずいた。


「ええ。一応、クラスメイトですから」

「クラスメイト!? そうだったんだ……!」


 そっか。月島くんと綾乃ちゃんはクラスメイトなんだ。


 言われてみれば、不思議でもなんでもない。一学年に五クラスしかないのだから、むしろ、そこそこの確率でありえた話だ。


 それなのに、どうにも二人が同じ教室で授業を受けている場面は想像できなかった。あたしの中の月島くんが、図書室の中に留まっているからなのかもしれない。


「そうですよ。それで、月島君がどうかしたんですか?」

「いや、そんなに大したことじゃないんだけど……。彼、今日図書室に来てた?」


 綾乃ちゃんは細い指をこめかみにあてると、


「いえ、来てないと思いますよ」


 小さく首を横に振った。

 そんな仕草にも、小動物を思わせる愛らしさがあってかわいらしい。


 彼女は、あたしから月島くんの名前が出たことが不思議だったのか、澄んだ黒い瞳を瞬かせて首を傾げた。


「先輩、月島君になにか用事があったんですか?」

「んー。大したことじゃないんだけど、ちょっと聞きたいことがあって」

「そうなんですか。それにしても……月島君ってよく図書室に来るんですか?」


 さくらんぼの唇から飛び出た予想だにしない発言に、驚いて固まった。


 えっ?

 よく来るもなにも、毎日来ているんじゃなかったの……? 


「綾乃ちゃんは、月島くんが図書室に来てるのを見たことがないの?」

「少なくとも、わたしが当番だった日にはありませんね」


 綾乃ちゃんの図書当番の担当は、月曜日の放課後だ。


「ってことは……もしかして、月曜日だけ活動する部活に入っているとか?」

「わたしが知る限りでは、彼は部活に入っていなかったかと思います」

「じゃあ、塾とかかな。それとも、習い事とか?」

「うーん……彼とはお話したことがないので、これ以上のことは分からないです」


 ……月島くん、やっぱり既に孤立気味なのかなぁ。

 彼が自ら望んでやっていることなのだとしても、これから高校生活を営んでいく上で初っ端から浮きまくっているのだとしたら、先輩としてちょっぴり心配だ。あたしがこんなことを思うのは、余計なお節介なのかもしれないけれど。


 でも、これで月島くんに関する情報が、また一つ増えた。


 彼は、月曜日の放課後には図書室に来ない。


 というよりも、あたしがただ勝手に毎日図書室に来ているのだと思い込んでいただけで、決まった曜日にだけ来るようにしているのかもしれない。よく考えてみれば、そっちのほうが自然だ。 


 物思いに沈んでいたら、じっとその大きな瞳に見つめられていて、ハッとした。慌てて、愛想笑いを浮かべる。

 なんとなく決まりが悪くなって慌ててしまったあたしは、泡のようにふわふわと浮かんできた思考をそのままするりと零していた。


「ねえ、綾乃ちゃん。月島くんって、クラスではどんな人?」


 言葉にした途端、西日で黄金色に染めあげられた大きな本棚の前にかがんで、本を吟味している月島くんの姿が頭をよぎった。


 あたしは、図書室の中にいる時の彼しか知らない。図書室を出た月島くんは、一体、どんな風に過ごしているんだろう。

 

 綾乃ちゃんは驚いて大きな瞳をしばたかせると、答えづらそうに目を伏せた。


「彼は……大人しくって、いつも本を読んでいて、何を考えているのかわからない人、ですかね。実は……わたしは、ちょっと苦手です」


 苦手。


 その二文字は冷たい弓矢に姿を変えて、スッとあたしの胸を凍えさせた。


 あたしは、月島くんのことを何も知らない。


 それなのに、彼を否定するその言葉を思った以上に受け付けられず、ショックを受けている自分すらいて、戸惑った。


「……どうして?」


 聞いても仕方のないことなのかもしれないけれど、聞かずにはいられなかった。


 綾乃ちゃんは、眉尻を下げて困ったように微笑む。彼女にこんな顔をさせてしまったのは、あたしだ。ダメだと思っているのに、ますます顔が曇ってしまった気がする。


 彼女はそんなあたしを安心させるように、「苦手っていうのは、何も、深い意味があって言ったわけじゃないんです」と前置きしてから、付け加えた。


「ただ、月島くんって、常に近寄るなオーラを放っている感じで、ちょっと怖く感じるんですよね。そこが、良いって言っている女の子も結構いるみたいですけど……」

「そっか。彼、やっぱり、モテるんだね」

「ええ。変わってはいるけれど、相変わらず支持している女の子も多いみたいですよ。わたしの友達にも彼に憧れている子がいるんですけど、その子曰く、一匹狼で近寄りがたいところが良いんだそうです」


 綾乃ちゃんは「まぁ、わたしには、さっぱりその良さは分からないんですけどね」と付け加えるのを忘れなかった。とりあえず、月島くんは綾乃ちゃんのタイプでないらしいということだけは、十分すぎるほどに伝わった。

 

 気づけば、目の前の彼女の口元が、不自然なくらいに綻んでいてぎょっとした。黒目がちの瞳はどことなくいつもよりも生き生きと輝いていて、楽しそうにあたしを見つめている。


 これは……なんか、ちょっと嫌な予感がする。


「それにしても由花先輩、やけに月島くんに興味があるんですね」


 ああ、予感的中だ!


「べ、べつに。ただ、ちょっと聞きたかったことがあっただけで、やましい気持ちとか、そういうのは、全くなくて」


 綾乃ちゃんの唇がますますにやにやと吊り上がっていく。

 ダメだ。話せば話すほど、墓穴を掘ってしまう気がしてならない。


 これは、とりあえずいったん話題を変えるに限る……!


「そっ、そういう、綾乃ちゃんは……好きな人とか、いないの?」

「いますよ。というか、付き合っている彼氏さんがいます」

「えええっ!? 聞いてないよ! 同じ高校なの?」

 

 突然の衝撃的なカミングアウトに、ここが静かな図書室だということも忘れて、思わず大きな声が出てしまった。何人かに振り返られた気がする。恥ずかしすぎる……。


 でも、綾乃ちゃんに彼氏がいただなんて、かなり意外だった。

 可憐な美少女だけど、とっても奥手そうだからてっきりいないものだとばかり思いこんでいた。たぶん、あたしだけじゃなくて、みんながそう思っていたはずだ。


 ああ。

 一体、何人の男子がこの残酷な真実に咽びむせび泣くことだろう。


「他校ですよ。中学三年生の時に同じクラスだったんですけど、明るくて、人気者で……ずっと、憧れてました。だから、卒業式の日に、思い切ってわたしから告白したんです」

 

 愛おしむようにそう語った綾乃ちゃんは、心の底から幸せそうに微笑んでいた。

 

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