第13話

翌朝。

スーツに腕を通すと、より何かに守られている気持ちになった。

大丈夫。大丈夫だ。


綾子が笑顔で「いってらっしゃい」と言ってくれた。

大丈夫。大丈夫だ。



家を出て、深呼吸をして歩き出す。

駅の方向に向かい始めると、ゴミ捨て場の前で近所の主婦達が集まって会話をしているのを見つける。

「おはようございます!」

私は殺人犯なんかじゃない。何も恐れる事は無い。

大きな声で挨拶をした。

「、、、。」

主婦達は私の顔を見ると、不自然な間を作った。

何かおかしい。

「あの、おはようございます。」

すぐに動機が激しくなったが、動揺せずにもう一度挨拶をしてみる。

「あー、持田さん、おはようございます。」

主婦達は気まずそうに一人ずつ小さい声で挨拶をした。

明らかに今までとは様子が違う。

挨拶をすると「じゃあまた」と言って主婦達はあっという間にその場から離れて行った。

なんなんだ、一体。

もしや既に近所の人間にまで噂が回ってきているというのか?

動機はさらに激しくなる。



先程までの小さな勇気は一瞬にして崩壊した。

私は回れ右をして自宅の方向へ戻った。



会社に向かったはずの私がすぐに戻ってきても綾子は何も言わなかった。

優しく、「ゆっくり頑張ろう」と背中をさすってくれた。

綾子が仕事に向かうとまた恐怖心でいっぱいになった。

先ほどの主婦達の反応だって私の考えすぎかもしれない。

私はこんなにも弱い人間だったのか。

寝室の隅で、必死に恐怖から隠れていた。



人間の心なんてとても脆いものだ。

何十年もかけて築きあげた自身や信念は一度失ってしまうと、そう簡単には戻ってきてはくれない。

"心がポキッと折れる"

なんという表現力だ。まさしく私はポキッと折れてしまったのではないか。

赤間も折れてしまったのだろうか?


もう一生ここから出たくない。

このままずっとこの寝室に守られていれば、傷つく事もない。



仕事ばかりしていて気がつかなかったが、呆然と過ごす時間はあっという間に過ぎていく。

夕日が寝室に差し込む。

優しい光が私を励ますかの様に包み込んでくれる。

今日はもう早く終わってしまえ。

明日になれば何か変わるかもしれない。

大丈夫。私はまだ大丈夫だ。

必死に自分に言い聞かせる。



そろそろ綾子が帰ってくるだろう。

綾子に大丈夫、と言ってもらえれば私はまた立ち上がれるはずだ。

ぎゅっと目を瞑り綾子の笑顔を思い浮かべる。

「よし」と小さな声で呟き、リビングへ向かおうと寝室のドアを開ける。

その時、何やら玄関の外から騒がしいざわめきが聞こえた様な気がした。

ドクン、また嫌な予感がする。

すると勢いよくドアが開き、私はビクッと体を揺らした。

綾子が今にも泣き出しそうな顔で帰ってきた。


「、、、どうした?」

「あっ、ううん、なんでもないのよ。」

明らかに様子がおかしい。

そしてドアが開いた瞬間に近所の人間がうちの前に溜まっている光景が見えた。

ドクン、ドクン

私は綾子をどかして、ドアを開けた。

「待って!行かないで!」

綾子の声を無視して家の外に出ると、溜まっていた人間が一斉に私の事を見る。

なんだ、、、?何が起きている?

私の事を見ると、近所の人間達はそそくさとその場を去って行った。

家の前に出て、振り返る。私はその光景に息を飲んだ。


"人殺しの家"

"パワハラ上司"

"殺人犯"


こういう光景を映画では見た事がある。

我が家の門の壁にスプレーでその言葉たちが書かれていた。

ああ、なんというベタな展開なんだ。

思わず片手で頭を抱え笑ってしまった。


綾子が泣きながら家から出てくる。

笑っている私を見て、さらに泣き声は大きくなった。


いつの間に書かれていたんだ?

私が寝室で体育座りをしている時に?あんな日中に?

わざわざ我が家まで来て、書いていくだなんて。

笑いが止まらない。



近所でも私は殺人犯になった。

もう完全に前の様に平穏な日々はこの家に訪れないだろう。

そう断言された気がした。



赤間、この光景を見ているか?

お前の自殺の影響はすごいぞ。

私の人生を完全に狂わせたぞ。


すごいよ、お前。

ほんの数日で私をここまで狂わせた。


もういいだろう?

もう充分だろう?



私の笑い声と、綾子の泣き声だけが響いていた。




しばらくして、綾子は意を決した顔をして家の中に入った。

すぐに掃除道具を持って家の前に戻ってきた。

「はい、これあなたの分。」

小さなブラシを私に差し出した。

「、、、え?」

「、、、消そう?こんな事に負けちゃ駄目だよ。」

綾子はまっすぐに私の目を見てそう言った。

彼女はこんなにも強い人間だったのか。


私に無理矢理ブラシを持たせ、綾子は壁を磨き始めた。

その姿は驚く程に美しかった。

私はまた涙が出てきてしまった。




彼女をこれ以上傷つけたくないと心底思った。





「綾子。」

「ほら、あなたも早く手伝ってよ。」

「綾子。」

「何よ!」

少し怒った様に綾子は振り返った。

私は綾子の隣にしゃがんで、彼女の目をしっかりと見た。


「、、、ごめん。負けてもいいかな?」

「、、、え?」

「多分、こういう事がしばらく続くんだよなって思って。」

「だから、、、負けちゃ駄目だよ。」

「ここ数日、甘えてばっかで悪かった。」

「そんなの当たり前でしょ!?夫婦なんだから!」

「松原さんに言われたよ、こんな状況でも自分の事ばっかりかって。」

「こんな状況だからでしょ?そんなの当たり前じゃない。」

「いや、こんな状況だからこそ周りの人間の事を考えなきゃいけないんだ。」

「私なら全然大丈夫!」

「、、、私がなんとかするから暫く離れて暮らしてくれないか?」

綾子は私の言葉に目を見開いた。

「、、、何言ってんの?」

「君が傷つくところを見たくないし、私の情けない姿ももう見られたくないんだよ。」

「だから私は全然大丈夫だって言ってるじゃない!」

綾子の目から涙が溢れる。

「近所の人間にももうこれからはそういう目で見られるよ、もしかしたらマスコミだって群がってくるかもしれない。それでも全然大丈夫なんて言える?」

「だ、、、大丈夫だって、、、」

「殺人犯の旦那だって言われるんだ。もう今まで通りには暮らせない。」

「だって、、、誤解じゃない、、、誤解だって分かってもらえるまで言い続けるわよ!」

「、、、うん。でも一つだけ事実がやっぱり残るんだ。赤間が私の名前を出して自殺したという事実は消えない。全員が分かってくれる訳ないんだ。、、、私はその事実を受け止めた上で今後の事を考えなきゃいけないんだ。会社だって判断に時間がかかるだろう。明日明後日にまた二人で笑って暮らせる訳じゃないんだ。、、、私の事を信じてくれて、一緒に戦ってくれようとして本当にありがとう。それだけで充分だ。」

綾子は黙って私の目を見つめながら、静かに涙を流してる。

「綾子を巻き込みたくない。、、、必ずまた平穏に暮らせる様に努力するから、待ってて欲しい。」



夕日はとっくに姿を消し、うっすらと月が私達を見下ろしていた。

赤間、見ているか。

私はお前の死と向き合う事に決めたよ。

懸命な妻を見て、私はこの状況を変えたいって心から思ったんだ。

その為には、私が変わらないといけないんだろう?

この時代の人間として。






翌日。

綾子は荷物を持って、出て行った。

最後まで「一緒に居たい」と涙を流してくれた。

映画のワンシーンの様に、「必ず迎えに行くから」と伝えた。




しばらく休めと言われてから今日で四日目。

まだ四日しか経っていない事にただ驚いた。

赤間が死んでからまだ一週間も経っていないだなんて。



松原からの連絡はいつになるだろうか。

私に今出来る事は連絡を待ちながら、赤間との日々を必死に思い出す事だけだった。

頭の中では私が赤間で、目の前には私がいる。

私が赤間に言った言葉たちを事細かに思い出す。

それを繰り返して一日が終わる。





翌日、松原から電話があった。

予想以上に噂は広まっていて、収集がつかないと言う。

事実関係の確認中ではあるが、マスコミが騒ぎ出す前に正式に休職処分を取らせて欲しいという連絡だった。

私はある所で既に覚悟をしていた為、冷静にその判断を受け入れる事が出来た。

解雇ではなく休職という判断に感謝こそ覚えた。





そして翌日。赤間が死んでから一週間が経った。

時間は早い様で遅い。

数年分の濃さの一週間であった。

私の今の仕事は自分を見つめ直す事だ。

ようやく赤間を傷つけた瞬間を自覚出来る様になり始めていた。

あの時、こういう伝え方にしておけば、と考える様にしている。

二度と私の事なんて見たくもないだろうが、いずれ赤間の家にも挨拶に行かなければいけない。

今はまだそんな勇気は無いが、いつか必ず心から謝罪をしなければいけない。

赤間、私は変わってみせるからな。



−その時、ピンポーンとチャイムが鳴る。

突然の音に私は驚いた。

誰だ?ついにマスコミが騒ぎ始めたのか?

私は恐る恐るインターフォンの画面を見る。


そこには宅急便の人間が映っていた。

なんだ?綾子が何か注文していたのだろうか?

ひとまず安心をして返事をする。

「はい?」

「あっ、ニコニコ宅急便です。持田さんのご自宅でしょうかー?」

爽やかな好青年の笑顔が映し出される。

ニコニコ宅急便?聞いた事の無い名前だ。

「そうですけど、、、」

「えーと、持田章介さんにお荷物届いてますー!」

「あ、私です。誰からですか?」

「あっ、えーと、レッドシネマさんからですねー。」

レッドシネマ?そんな会社あったか?

「えっと、あ、じゃあ今開けます。」

よく分からないまま、とりあえず私宛という事に間違いは無い様なので受け取りに向かった。


「あ!持田さんですねー、ではこちらに判子をお願いします!」

好青年は素晴らしい営業スマイルで小包を差し出した。

「あ、はい。」

「ありがとうございます!」

判子を押して小包を受け取ると、好青年は爽やかに去って行った。

小包を見ると、確かに"レッドシネマ"という会社から私宛に送られてきている。


リビングに戻り、小包を開けてみる。

完全に開ける前に少し手を止める。

「、、、爆弾だったりしてな。」

思わず独り言を呟き、少し笑ってから開けてみる。



中には一枚のDVD-Rが入っていた。

送付状も何も入っていない。

「なんだこれは、、、?」

ラベルも何も貼られていない、中身がなんだか分からないそのDVD-Rに恐怖心を覚える。

「、、、レッドシネマ、、、?赤間か、、、?」

赤間から送られてきたという事か?

久しぶりに動機が激しくなり手が震え始めた。

死人からの送り物だなんて、ホラー映画でしか起きないだろう。

この中に赤間の自殺の原因がさらに分かるものが入っていたら、、、?



私は急いでそのDVDをプレーヤーに入れる。

心臓が口から出てきてしまいそうだ。

私は立ったまま、画面をジッと見つめる。


ドクン、ドクン、ドクン、ドクン




映像が映し出される。










「、、、なんだこれは、、、」

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