第10話
珍しく早い時間に帰宅した私に綾子は驚いていた。
「あれ?すごい早いね、おかえりなさい」
綾子はキッチンで夕食の準備を始めていたところだった。
「珍しいー、ちょうど今から夕飯作るから。食べるでしょ?」
私が早く帰ってきた事が嬉しいのか、綾子は笑顔だった。
彼女の笑顔の先には赤間の母親、指原の殺意に満ちた目が浮かび上がる。
「・・・・・」
「、、、どうかした?」
何も言わず、呆然と綾子の顔を見る私を不思議そうな目で見る。
「、、、いや、今日は体調が悪くて早退してきたんだ。ごめん、もう寝るよ。」
そう告げて足早に寝室へ向かった。
「大丈夫?風邪?薬いる?」
綾子も心配そうに付いてきてくれる。普段は感謝する事だが、今はただ一人にして欲しかった。
「大丈夫だから、寝たら治るよ」
「、、、そう?」
違和感を感じた綾子は大人しくリビングへ戻ってくれた。長年一緒にいるおかげで私が一人になりたい時は言わずとも察してくれる。
ベッドに寝そべり目を閉じて、今日起こった事を冷静に思い返す。
まず、赤間が昼を過ぎても出社しなくて、さすがにおかしいと思って指原に聞いてみて、赤間から指原に遺書メールが届いて、ちょうど赤間の母親からも会社に電話があって、松原と病院に向かって、、、駄目だ、まとめるには重すぎる内容だ。
指原に言われた言葉たちを思い出す。
まさか赤間が私を殺したいと思うほど憎んでいただなんて。
そして私がいない世界に行きたいと言って死んでしまうだなんて。
映画でもなかなか無い、予測無しの急展開だ。
私は赤間を追い込もうだなんて一度も思った事は無い。
厳しくした時はもちろんあるが、それは憎くて注意した訳ではない。
この膨大な量の私の仕事をいかにストレス無く進められるか協力して欲しかっただけだ。
赤間を憎いだなんて思った事も無い。
どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
私はこれからどうなるのだろうか。
明日から自宅待機だとしたら、綾子になんと話そう。
押し寄せる数々の不安に心臓が過剰に動いていることが分かる。
ドクンドクン、、、ドクンドクン、、、
赤間の顔が頭の中から離れない。
ただ色々な場面を思い出しても、彼女の笑顔の場面にはたどり着かなかった。
そうか、本当に私は憎まれていたのか。
そのまま眠る事など出来なかったが、12時前に綾子が寝室に入ってきた時に急いで寝ているフリをした。
綾子は静かに自分のベッドに入った。
「、、、寝てるの?」
私は綾子に背を向けている為、彼女がこちらを見ながら話しているのかは分からない。
「・・・・・」
今は何も話せないので思わず寝たフリを続けてしまった。
「、、、私はいつでも味方でいるからね」
そう呟いた後、綾子のベッドから布団を深くかぶる音が聞こえた。
彼女はどれだけ私の事を理解してくれているのだろうか。
彼女に全て話したくなった。
あなたのせいじゃない、と言って欲しかった。
彼女ならきっとそう言ってくれるに違いなかった。
そう思っているのに、、そう思うからこそ、綾子からも赤間の母親や指原と同じあの目で見られてしまったら、それこそ私も死んでしまいたくなる。
それがどしようもなく怖くて、今はまだ何も言えなかった。
そのまま気がつくと朝を迎えていた。
7時30分。松原から連絡がくるのはもう少し後だろう。
携帯を手に取りリビングへ向かう。
静かに寝ていた綾子ももう少しで起きてくるだろう。
朝、リビングへ向かうと一番にカーテンを開けていたが、そんな気分にはなれなかった。
まるでマスコミを怖がる芸能人、いや、警察を怖がる犯罪者か。
今日は天気が悪いのだろう。薄暗いリビングの中、ソファに座り目の前のテーブルに携帯を置く。
ただ壁に掛けられた時計を眺める。
カチカチ、カチカチ、秒針の音が大げさに聞こえてくる。
「おはよ」
突然背後から綾子へ声をかけられ思わずビクッと肩を揺らす。
「どうしたの座ったまま、準備しなくて大丈夫?」
綾子は不思議そうに私を見ながらキッチンへ向かう。
「朝ごはん、食べるよね?」
私は綾子の顔を見ることも返事をすることも出来ず、視線を時計に戻した。
「、、、ねえ」
返事をしない私に少しイラつきを見せながら綾子が再び私の元に近づいてくる。
「昨日から本当におかしいよ。なんかあったんでしょ?どうしたの?」
顔を近づけてくる綾子の視線から必死に逃げようとする。
−その時、携帯の着信音が鳴り響いた。
「わっ」
突然の着信音に綾子は驚く。
私はすごい速さで携帯を手に取る。松原だ。
「はい、持田です」
「ああ、早いな、おはよう」
「、、、おはようございます」
あまりに顔が強張っていたのか、綾子は心配そうに私の隣に腰掛けた。
「えっと、昨日の夜連絡しなくて悪かったな、とにかく帰社した後は深夜までバタついてしまって」
「いえ、大丈夫です。それで、、、」
「、、、帰社した後すぐに社内調査を行った。そこで発覚した話がいくつかあってな、事実確認をするから今日お前の家に伺っても大丈夫か?」
「え、、、それは大丈夫ですけど、、、」
「事実確認と、お前が今抱えている仕事を一度こちらへ預けて欲しい」
「え、、、」
「しばらくは自宅待機をした方がいい、赤間の母親は公にしないとは言ってくれているが、社内にはすでに広がっている。どこから話が漏れていくか分からない状況だ。事実確認はきちんと行うが、お前の為にも会社の為にも今お前を外に出す事は得策ではない。」
松原の声は途中から水中で喋っている様な、ボコッボコッと私の耳の中では全ての言葉を上手にすくい上げる事が出来なかった。
「、、、奥さんは今日は家にいるのか?」
隣にいる綾子を見る、先程より心配そうな顔をしている。
綾子はヴァイオリン教室の講師である為、基本的には平日休みである。
今日は金曜日、カレンダーを見ると休みのマークが書かれている。
「、、、はい」
「そうか、、、今後の事もある、奥さんにも同席してもらうか?」
「いや、それはちょっと困ります!、、、あとで整理して私から伝えますので、、、妻には外出して貰います」
「えっ?」
思わず声を出す綾子。まさか上司との電話に自分が登場するとは思いもしなかっただろう。
「わかった。じゃあ、、、そうだな、10時頃伺っても大丈夫か?」
時計を見る、ちょうど8時を過ぎたところだった。
「わかりました。では後ほど。」
電話を切って、ゆっくりと綾子の方を見る。
「、、、誰か来るの?」
「ああ、、、上司の松原さんが10時に来る。休みの日に申し訳ないんだが、松原さんがいる間は外出してて欲しい。」
「、、、わかった。わかったけど、どうして?」
「理由はあとで話すから、、、」
見るからに参っている私の姿に、今は何を聞いても駄目なのだろうと察した綾子は何も言わずに立ち上がりまたキッチンへ向かった。
「、、、朝ごはん作るからとりあえず食べよう?」
「、、、ああ」
何も食べれる気はしないが、気遣う綾子にも申し訳なく返事をした。
美味しいはずの綾子の朝ごはんは、何も味がしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます