第70話 Bセット

 次の日、ペギョールはいつも通りに夫人の邸宅に現れた。

 しかし、エミーリアを見る目と態度は、明らかに今までと違い、恐れ避けている様子であると彼女自身が語る。

 どうやら、リブラ教官の忠告は聞き入れられたようだった。


 午後の穏やかな日差しの中、テーブルを隅にやりアキラとエミーリアがダンスの練習をしている。

 その後ろを控えめな音量で三拍子の音楽が流れていた。

 それは、午前中に見学に行った内区のダンス教室で流れていたものを録音したのである。

 様々なことが立て続けに起こったこの数日が嘘のような平和な午後だった。

 そして、今日はこれまでの分を取り返さんとアキラの指導にも熱が入っている。

「そろそろ、休憩にしよう」

 私は情報デバイスから流れていた音楽が終わるのを見計らって2人に声をかける。

「はい」

 うっすらと汗をにじませ、肌を上気させたアキラが答えて、エミーリアとのつながりを解いた。

 途端にエミーリアがよろけて転びそうになる。それをアキラが手を伸ばし引き戻した。

「ありがとうございます」

 エミーリアは大分息が上がっている様子である。慣れの差があるのだろうが、まだまだ余計な力が体中にかかっているようだ。

「でも大分、よくなってきましたよ」

 アキラがエミーリアに手ぬぐいを渡しながらにっこりと笑った。

「ありがとうございます」

 いっぱいいっぱいといった感じでエミーリアは、汗を拭う。あまり余計な事を考えなくて済むという意味では、このダンスの練習は彼女の心にとっての良い骨休めになっているのかもしれなかった。

(だが、もう少し身体的にも休むことができればいいのだが)

 そこであるアイデアが思い浮かんだ。

<アキラ、ちょっといいか?>

<オトーサンなんですか?>

<Bセットって、今回持ってきているか?>

<はい、ありますよ、というかあれ、大きくて出し入れが面倒なんで入れっぱなしです>

<そうなんだ、じゃあ、今から出してくれ>

<え、もしかしてエミーリアさんに?>

<そういうことだ>

 今まで気になっていたこともある程度は改善されるし、明日の伯爵屋敷への訪問の準備にもなる。さらに、少しでも彼女の心身が休まれば実に一石三鳥であった。準備にそれなりに時間がかかるが、その間にリブラ教官も帰ってくるだろう。

 今回は恐らく彼女の力もあった方がよかった。

 そして、予想通り、私がアキラが若干四苦八苦して【心室】から取り出したBセットをセッティングをしているうちに、カナン商会に出かけていたリブラ教官がやや大きな包みを持って帰って来たのである。


「こんなたっぷりのお湯に浸かるなんて始めてです」

 扉の向こうから微かな水音と共にエミーリアの声が聞こえてきた。

「それにこの色がついたお湯、とってもいい香りがします」

「しっかり、肩まで浸かって温まるんだぞ」

 リブラ教官の声もする。

 2人は居間の隣の部屋に展開したBセット、組み立て式簡易浴室で入浴中だった。湯に浸かって心身ともリラックスしてもらおうという計画だったが、この調子からすると少なくとも喜んではもらっているようである。

「そういえば、昨日も思ったんですけどリブラ様って銀髪なんですね」

「そうか、君の前ではずっとカツラを被っていたから、この髪を見たのは昨日が初めてか」

「はい、でも、こんな綺麗な髪だったら伸ばしたらもっと素敵なのに」

「そうかな?」

「そうですよ、伸ばすべきだと思います」

 そこそこの女子トークが交わされるのが聞こえる中、私は目の前の人物を凝視していた。

 リブラ教官にひっつくようにして現れたローガン。

 彼は扉の向こうの様子に興味深々といった様子だった。

 そして、その扉の前にはアキラが立ちふさがるようにして椅子に座っている。

 その目がこちらをじっと凝視していた。

<オトーサン、なんで居間の隣に設置したんですか! 土間にすればよかったじゃないですか>

<セットしようと思ったら土間ではスペースが足りなかったんだよ>

 漆黒の瞳が疑わし気な色を見せる。

<とりあえず、オトーサンは耳も塞いでいてください>

<塞ぐ耳がないんだよ、それに聞いても減るものでもあるまいし>

<そういう問題ではありません>

 私たちがそういったやり取りを密かにしている間にも、扉の向こうでは驚いたり、はしゃいだりする声が華やかに響く。

「すごい泡がいっぱい!」

「目に入ると痛いから、目を閉じているんだぞ」


 扉が開かれ、湯気と共に肌を上気させたリブラ教官とエミーリアが出てきた。

「やはり、風呂はいいな」

 手ぬぐいを肩にかけリブラ教官がそう言う。

「これで良く冷えた牛乳があれば最高なのだが」

「そんな贅沢なものありませんよ」

「そうか」

 私の返しにリブラ教官がやや残念そうにした。

「さてエミーリア、髪をよく拭いておくんだ」

「はい、でもこの布すごく水を吸いますね」

 真っ白いバスタオルで髪を丁寧に拭きながら、エミーリアが感心したように言う

 シャンプーなどで洗った影響もあるのだろう。その髪は、これまでにない艶やかさが出ており、味わい深い色となっていた。

 そんな彼女を横目で見ながら、リブラ教官はテーブルの上に置いたままになっていた包みを開く。

「リブラ様、それはなんですか?」

「ああ、寸法確認の意味も兼ねてベンジャミン殿に託されたものだ」

 そう言って教官が広げたのは、光沢がある淡いオレンジ色をしたドレスだった。

 しかし、それは彼女の丈からするとやや裾が短い。

「さっそく試着してみよう」


 私とローガンは、夕暮れ空の下に放り出された。

 同時に窓も閉められる。

「ホウキ先生」

「ん?」

「オイラたちって、アキラさんと比べて扱い悪くないっすか」

「まあ、それは仕方がないだろう」

「あと」

「ん?」

「オイラも後でその風呂に入ってみたいっす、残り湯でいいんで」

「たぶん、却下されるな」


「もう入って来ていいですよ」

 しばらくして、アキラが扉を開けた。

 中に入ると、先ほどのドレスを着たエミーリアがいた。

 馬子にも衣装というが、風呂に入り身体を整え、彼女のためにあつらえたように沿うドレスを着たエミーリアには、それでは説明できない雰囲気がある。一言でいえば、醸し出される可憐さだろうか。

 隣で、ローガンも口を半開きにしている。

「どうでしょうか? 似合っていますか?」

 そう言いエミーリアはゆっくりと回った。

 オレンジ色の裾が微かに広がり、部屋の中に一輪のガーベラの花が咲いた。

「すげー、似合っているっす!」

 ローガンに先を越されてしまう。

「とても似合っている。びっくりするくらいだ」

 所詮【偽装】は偽物に過ぎないのだなと改めて思いながら素直に感想を述べると、エミーリアが少し不器用にはにかみの笑みを浮かべた。

「さすがベンジャミン殿といったところだな」

 満足気にリブラ教官が言う。

「どこか、気になるところはないか? なければその寸法を元に、舞踏会用のドレスも作業を進めるそうだ」

 エミーリアは腕を上げ下げしてみた後、ダンスの姿勢を取り、ステップを踏む。

「大丈夫みたいです」

「そうか、それでは明日はそれを着て子爵の家を訪れるとしよう」

 リヨンド子爵の招待を受けることをリブラ教官は決めていた。

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