第69話 緑炎
昨晩と違い今夜は雲はなかった。
降り注ぐ青白い光が世界を静かに冷やしている。
私はここ数日そうしているように、男爵夫人宅の物置小屋の壁に立てかかっていた。ただ、いつもはエミーリアの寝床と壁一枚隔てた場所にいるが、今夜は物置小屋の扉のすぐ横にいる。
そして、ペギョールが現れるのを待っていた。
時刻はすでに夜中を回っている。
今夜はもう姿を現さないかと思った時だった。
昨日と同じようにこちらに向かう気配を感じた。その気配は、門の近くまで来ると足音を落とす。完全に殺し切れていないそれは実にお粗末な足運びだった。
門のところまでくると、影が周囲の様子を覗う。風も吹かぬ夜の闇にあるのは。静かに寝静まった家々の気配のみ。
背を丸めた影が物置小屋に近づく。
特徴的な角ばった顔の中で、細い目が月の光を受けて蛇の表皮のようにぬめり輝く。
酔っている気配はなかった。つまりこの男は、素面でエミーリアのところに来たのだ。
昨夜、彼女を脅した内容を履行するために。
ペギョールは扉の前に立つと腰の後ろに手を回すと、鈍い光を放つ刃を鞘から抜いた。その手が扉の取っ手に触れる。
そっと引く。
立て付けの悪さからくる軋み音を立てて、扉がわずかに開いた。恐らく、昨夜と同様に内側から閂が掛けられていると思ったのだろう。少し驚いたような表情を浮かべた後、ペギョールは扉をさらに開き、すばやくその隙間に身体を滑り込ませた。そして扉が閉じる。
しかし、次の瞬間、その扉が再び勢いよく開かれる軋み音がする。
そして物置の中からペギョールが転げ出てくると尻もちをついた。その眼前には、今、天にある月と同じ輝きを放つ刃が静かに迫っていた。
「な、なんでてめえが」
地面に尻もちをついたまま、ペギョールが愚かにも手にした刃を前に突き出す。
銀一閃。
ペギョールの手の中で、ナイフの刃が椿の花の落ちるが如く、根本から途切れ地面に転がった。一瞬の空白の後、何が起きたのか理解しペギョールが目を見開く。その喉に銀月の姫の切っ先が紙一重だけ残し突きつけられた。
「ひぃい」
切っ先から逃れるように顎を上げ、ペギョールが後ろに身を反らし逃れる。
「騒ぐな、騒げば、次はその首が落ちることになる」
夜の冷気など比べ物にならない、心まで凍らせるような鋼の声。後ろに這いずるペギョールを追うようにゆっくりと物置小屋からリブラ教官が姿を現す。
月の光がピンライトのように彼女の姿を強烈に世界に浮かび上がらせていた。
銀に輝く髪の下で瞳が緑炎を宿している。それは映した相手を焼き焦がす炎であり、同時に獲物の心臓を冷たく握る死神の指先でもあった。
ペギョールは口を開き喘ぐが、月下に咲いた死の眼差しはやつに呼吸を許さない。
「今後、エミーリアに手を出そうと思うな」
言葉を出すこともできないペギョールは、必死の形相で何度も何度も頷いた。その顔がどんどん赤く染まっていっている。
「そして、今のことは決して口外するな」
ペギョールは再び頷く。
「くれてやる、ドレスの代金はこれで払え、いいな」
そう言ってリブラ教官はペギョールの横に革袋を投げた。地に落ちたそれから硬貨がぶつかり合う音がし、開いた口から緑がかった金の輝きが覗く。
「これからは何を成すべきで、何を成してはいけないか、よく考えてから行動することだ。私はいつでもお前の首筋に刃を当てている」
頷くペギョールの顔色はもう限界だった。
「ならば行け!」
教官のその言葉と共に、ペギョールは喘ぎながら傍らの袋を掴むと、手足を絡ませながら転がるようにして門から外に出ていく。
それを見届けた彼女は静かに銀月の姫を鞘に戻した。
「終わったな」
軽く息を吐いて教官がこちらを向いた。その瞳にはまだ炎の残滓が見える。アキラのことは押さえていたが、彼女自身内心ではかなり怒っていたようだ。
それでも完全な殺意を向けたわけではないのだろう。もしそうだったらペギョールは生き残ることなどできなかった。
「さて、エミーリアを迎えに行ってくる」
エミーリアは、アキラと共に拠点で待機していた。眠っていても構わないと言ってあるが、彼女の性格からするとどうだろうか。
「トーサンはここで待っていてくれ」
そう言うと、リブラ教官は塀を飛び越えて姿を消した。
今夜の作戦をリブラ教官が提案した時、アキラは不服そうだった。
「なんで、あんな男に金貨を渡す必要があるんですか、ただ、追い出せばいいだけじゃないですか!」
その言葉にリブラ教官は首を振った。
「そうするとブドルク男爵家の中で様々な問題が起こってしまう、ドレスのこと、邸宅での雑事のこと」
確かに単純ペギョールを排除してしまうのは、舞踏会前の大事な時期にいらぬ混乱を引き起こす可能性がある。
それはそのままエミーリアに返ってきてしまうのだ。
「でも、もしあの男がドレスの代金を払わず、金貨を持ち逃げしたらどうするんですか」
その可能性もない訳ではない。
「そうなったら、その時に考える」
リブラ教官はそう言っていた。
しかし、先程の様子を見ている限り、ペギョールが金貨を持ち逃げしたり、エミーリアに手をだすことはなさそうだった。
また、教官のことを話すことも。
しばらくして、エミーリアをお姫様抱っこした教官とアキラが音もなく庭に降り立った。
「さあ、着いた」
その声に、閉じられていたエミーリアの目が開く。
彼女を地面に下しながら、リブラ教官が静かに言葉を紡いだ。
「ゆっくり休む、と言っても難しいかもしれないが、それでも休んでくれ、君にとっての本番はこれからなのだから」
エミーリアが無言でうなずく。
「大変かもしれないが、私たちが、仲間がいることを信じて欲しい」
「今日は、僕も一緒に朝までいますから」
よく見るとアキラの肩には毛布が何枚か掛けられていた。
「ありがとうございます」
エミーリアは一礼すると、アキラと一緒に物置の中に入っていった。
「すいません、汚いところで」
「大丈夫ですよ、トーサンの万年床の部屋も似たようなものですから」
小さな声が小屋の中から洩れてくる。
少し余計なことも言っているようだが。
「ではトーサン、引き続き2人のことを頼む」
「はい」
月の光を受け、彼女は背を向けた。
「助かっている」
最後に、それだけ残して彼女は音もなく塀を軽々と飛び越えいく。
「いえいえ、どういたしまして」
私の声は、星明りに静かに溶けた。
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