第68話 ブドルク男爵

<オトーサン、これってつまり>

 アキラが思考通信で確認してくる。

<エミーリアは、ブドルク男爵家の貴族籍に属している家族ってことだな>

 ブドルク男爵夫人はエミーリアのことを居候と表現していたし、エミーリアもそう思っていた。

 しかし、目の前の証明が有効ならば、エミーリアはブドルク男爵家の人間ということになる。

<じゃあ、エミーリアさんの父親って>


「これは、一体どういうことなのでしょうか?」

 エミーリアは、目の前のことが上手く呑み込めずに子爵に尋ねた。

「エミーリア、君はブドルク男爵家の貴族籍に属している、そういうことだよ」

「え、でもどうして?」

 驚きでエミーリアの言葉遣いがフランクになっている。恐らく本人は気が付いていない。子爵もそれを気にする様子もなく、彼女の疑問に答える。

「兄上、ブドルク男爵が病の中で己の死期を悟り、君を密かに養子に迎えていたのだよ。姉上にも内緒でね」

「でも、どうして? もしかして……」

 エミーリアはそこで言葉を一回切った。

「もしかして、私のお父さんは男爵様だったのですか?」

 それは彼女にとって聞くのはかなり勇気がいる質問だっただろう。

 しかし、子爵は静かに首を横に振った。

「君のお父上は兄上ではない」

「なぜ、そう言い切れるのですか」

 必死に取り付くような目でエミーリアが子爵に訴える。子爵はそれを受け止めると、諭すような口調で答えた。

「遺言にそう書いてあったんだ、もし君が養子になっていることを知ったらそう思うかもしれないと、その時はきちんと否定して欲しいと」

 遺言状には、どうやら先々のことを考え、その対応についても書かれていたらしい。

「ただ、誤解しないで欲しいのだが、それは兄上が君を否定しての言葉ではない」

 子爵が付け加えるようにそう言った。

「では、その遺言の中に私の父と母のことについては、何か書かれていませんでしたか?」

 エミーリアの出生を追うのは、舞踏会への参加の足掛かりという意味があったが、彼女の中にもやはり両親のことを知っておきたいという欲求があったようだ。

 しかし、再び子爵は首を横に振る。

「すまない、そのことについては説明できることがないんだ」

 執務室のガラス窓から入る午後の日差しがしばしの沈黙を照らす。

  

「では、男爵様はなぜ私を養子に」

 エミーリアは、自分の前にある証明書類に目を落とした。一口も口を付けていない紅茶のカップから細い湯気が霞むよう上る。

「兄上は、君のお母さんから君を託されたのだ。そしてその責任をどうしても果たしたかった」

 小さい子供に絵本でも読んで聞かせるような声だった。

「でも、兄上は病にかかり己の死期を悟った」

 子爵が膝の上で両手を組む。それはまるで祈りの姿勢のようだった。

「そして兄上にはわかっていたんだ。きっと姉上は自分が死んだ後に君を家から追い出すだろうと、だから君を守るために一計を講じた」

 悲しみの色を僅かに含んだ瞳が書類の上をなぞる。今、向かい合った血のつながらない叔父と姪は、目線の先にある1人の男の遺志について思いを馳せていた。

「まずは君を自分の養子として貴族籍を与えること、貴族籍の有無はこの国では大きな差となることがあるからね。それに貴族籍があれば貴族家に嫁ぐのも容易になると考えたんだろうね」

 確かに、今回の舞踏会の件を考えても貴族籍があることは、大きな意味を持つ。

「ただ、それを姉上に伏せていたのは、死後に姉上が男爵家の当主となった時に除籍されないためだろうね。いつ姉上が見つけてしまうかもしれないという運任せな面はあるけど、幸い君の貴族籍はまだ残っていることは、今日、カリバドル氏が確認してくれている」

 だから、あれほどカリバドル氏は手紙の用意に時間がかかったのか。

「そしてもう一つ。兄上はマンセット商会のカリバドル氏に君の養育のためのまとまった資金を預けていたんだ」

 そういうことか。

 エミーリアが季節ごとにマンセット商会で受け取っていた換金できる紙。それは男爵が預けていた養育費の手形だったのではないだろうか。

「それは、君の養育費であると同時に、姉上から君を守るためのものだった。兄上は君が直接受け取ることを条件に、時期ごとにまとまったお金を受け取ることができるようにしていたんだ。そして、そのことだけは姉上に伝えていた」

 恐らくブドルク男爵は、自分の死後、男爵夫人が浪費で身を持ち崩す場合のことも、ある程度予想していたのではないだろうか。

 そしてその際、真っ先に切り捨てられる可能性があったエミーリアに季節ごとの養育費という金銭的な価値をつけて、彼女を守ろうとしたのだ。

「同時に兄上は、それでも君が追い出された際や、どうしてもブドルク男爵家から出たくなった時、自立を考えた時に備えて、私への遺言をマンセット商会に預けていた。最初から私に事情を打ち明けてくれなかったのは、私が伯爵家の婿であるという事情を慮ってくれたのと、姉上との仲がよくないというのがあったのかもしれないね」

 深く吐き出す息と共に金色の口ひげが力なく下を向く。

 確かに子爵の説明は、ある程度筋が通っているように見えるが、所々何かが隠されているように感じた。

「とにかく今回、君が姉上からの自立を決めたことで、兄上が託した私の役目がやってきたということだ」

 子爵は貴族籍の照明書類をエミーリアの方へそっと押し出す。

「だから、君は何も心配せずに舞踏会に出席するがいい」


 

「それでは明後日、再び来るといい。一緒に昼食を食べよう、ちょうどパルファも子供と来ることになっているし、コリンヌもいるはずだから」

 玄関まで見送ってくれた子爵がそう言い、アキラの方を見る。

「急な話で悪いが、君の主にもぜひ来ていただけるように伝えてくれ」

「はい、承りました」

 アキラが一礼する。

 あれから、舞踏会についての準備や自立時の資金についての話がなされた。

 子爵は、舞踏会当日は屋敷で身支度を整え、同じく舞踏会に出席予定の娘と一緒に子爵家の馬車に乗っていくことを勧めてくる。

 そして、ドレスについても上の娘がエミーリアの年頃に来ていたものがあるはずだと言ったが、彼女は子爵の申し出を断った。

 今、用意していただいているものがあるからと。

 そしてエミーリアは、リブラ教官達が良くしてくれていることを伝え、舞踏会までは一緒に過ごすつもりだと伝えていた。

 血がつながっていないとはいえ、自分の姪が使用人のように働くことについて難色を示した子爵だったが、エミーリアのその言葉もあり引き下がる

 その代わりリブラ教官との面会を望んできたのだった。

「それと貴族籍のことも含めて、姉上に知られることがないように気を付けるんだよ」

 最後に子爵はそう念押しをして、我々を送り出した。

 

 外周区へと向かう緩やかな坂を下りながら我々はしばらく無言だった。もうすぐ日が傾き始める。見上げた空にまるで迷子のように小さな雲が一つだけ空に浮かんでいた。

 どこかの貴族家の豪奢な馬車が我々を追い抜き、行き過ぎた。石畳の上を転がる車輪の音と、リズミカルな蹄の音、時折振られる鞭の音が遠ざかっていく。

 状況は確実に良くなってきている。

 しかし、あまりにも考えることが多すぎて素直に喜ぶに至っていなかった。特にエミーリアの心中は幾ばくであろうか。

 舞踏会に参加できるのは嬉しいだろう。

 その先には王子との再会もある。

 同時に、はっきりとしなかった両親のこと。

 それでなくても、ここ数日の環境の激変は少女の心を千々にしても不思議ではなかった。


「舞踏会に出ることができますね。これで」

 半歩後ろをむ私たちの方を振り返り、彼女は唐突にそう言った。

「これで殿下にハンカチーフをお返しできます。ありがとうございます」

 白い頬が、弱々しい唇が、灰色の静かな瞳が、精一杯の笑みを浮かべる。

 礼を述べるのは私たちの方だった。

 随分とこの子には無理をさせている。

 だからこそ、今夜はその心が少しでも安らかにあるためにやるべきことがあった。

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