第63話 魔法のスープ
エミーリアは、日の光が東の空を明るくする前に起きてきた。
いつもよりも早いが、身支度を整えると、いつものように邸宅の扉が開く前にできることをやり始める。
裏口近くに燃料となる薪を運び、雑多の用事に使用する水がめの中の水を一度捨て、中を洗い、井戸から汲み上げた新しい水で満たす。
それは彼女にとっては毎日の仕事だった。
そんな彼女に遅れること30分程だろうか、東からの光で空を覆う雲が輪郭をはっきりとさせ始めた。どこからとなく、小さな羽音とさえずりも聞こえ始める。
「ホウキさん」
いつもの準備を一通り終わらせた時だった。朝の挨拶もそこそこで、今まで黙々と作業を続けていたエミーリアが私に背を向けたまま声をかけてきた。
冷たい空気の中、その背中は弱弱しくはあったがまっすぐ伸びていた。
「今日、マンセット商会に一緒に行ってくれますか?」
よく見るとその体は小さく震えている。
<もちろん、ありがとうエミーリア>
「いえ、これは私が行きたいからです」
そう言ってからエミーリアは、裏口まで歩んでいくと、それまでは内側から開かれるまで待っていた扉をノックした。
エミーリアはそれから朝の準備をいつもより早く終わらせ、ブドルク男爵家を後にする。
門を出て歩き始めた彼女の両の手は悲しいくらいに力が入り、俯きがちになっている顔の中で小さな唇は色を失っていた。
大丈夫かと声をかけるのは簡単だが、今の彼女に必要なのはそんな気遣いの言葉ではないのだろう。
(だが、かける言葉が見つからない)
数日前のアキラの気持ちがよくわかる。
力がこもったその両の手は冷たかった。
アキラに思考通信を送る。
<アキラ、ちょっとお願いできるか?>
<なんですか? オトーサン>
<今、男爵夫人家を出たんだが、私たちが着くその前に【心室】から出して、用意しておいて欲しいものがあるんだ>
<いいですけど、なんですか?>
それは、大したことがないものだった。
だが今、彼女ために何かできないかと考え、私が思いつく数少ないものの1つだった。
エミーリアが前に立つよりも早く、アキラが扉を開き迎えた。
「おはようございます。エミーリアさん、オトーサン」
「おはようございます」
挨拶をしたエミーリアを招き入れると、アキラはそのまま彼女をテーブルに案内する。テーブルの上には、明るい色のテーブルクロスが広げられていた。
「さあ、エミーリアさん座って」
アキラはエミーリアを椅子に座らせる。
「はい」
戸惑いながらも、エミーリアは従う。その際、ずっと彼女に握られっぱなしだった私は、その手から離れる。
「おはよう、エミーリア」
空いたままだった奥の扉から藤色のドレスを着たリブラ教官が現れる。昨日までは、そのまま流してたカツラの長髪が今日はリボンでまとめられていた。
「おはようございます、リブラ様」
立ち上がって挨拶をしようとする彼女を教官は片手で制する。そしてもう片方の手に持っていた皿をテーブルに置く。その大きな木製の皿の上には、切り分けられたパンとチーズ、そして湯気を上げる塩漬け肉が盛られていた。
エミーリアのための朝食をお願いしてはいたが、この数分の間でどうやって塩漬け肉を焼いたのか。
焦げ方から考えても聞かない方が良さそうだった。
「さあ、食べようか」
リブラ教官は、エミーリアの向かい側となる席に座りにっこりと微笑む。
「あの?」
エミーリアがテーブルに置かれた大皿を見てから、リブラ教官の顔を見た。
「はい、どうぞ」
その前に、木製の取り皿と匙の入ったマグカップが置かれる。エミーリアが顔を向けるとアキラがにっこりと笑いストーブの方へ行く。
「朝食もろくに食べてないのでしょう。私の国の言葉に『空腹は強卒すら弱卒にする』というものがあります」
そう言ったリブラ教官の口元は微笑んでいるが、その眼光は強い。
「今日、あなたがどのような思いでマンセット商会に行くことを決めのかは私にはわかりません。ですが、容易な判断ではなかったことはわかっています。そして、何がしらかの覚悟もあなたの中にはあるのでしょう。だとしたら、そのための一歩を踏み出す時に空腹はいけない。そして私はあなたを弱卒としてそのような場に送りだすつもりなど、さらさらありません」
視線を通した強い思いを受けて、エミーリアは喉を小さく鳴らす。
「まあ、空腹では上手くいくものも上手くいかないから、朝食をしっかり採っていこうということだよ」
リブラ教官の強さを少し薄めるように私がそう言うと、エミーリアは顔を俯かせた。同時に、腹の虫が鳴く。
はっとした彼女が、真っ赤になった顔を両手で覆った。
「ははは、体は必要な物がわかっているみたいだね」
みんなの優しい笑いが居間に満ちた。角ばっていたエミーリアの細い方がすとんと丸くなる。
「恥ずかしいです……」
両手で顔を覆ったまま、エミーリアは小さく呟いた。
「さあ、冷めないうちに食べよう」
リブラ教官の声に観念したように、エミーリアが顔を上げる。その顔はまだ真っ赤だ。しかし、今朝の蒼白な顔よりはずっといい。
「あ、今お湯を注ぎますね」
ストーブから湯気立ち上がっているケトルを持ってアキラがエミーリアの傍らに立つ。
そして、エミーリアの前のマグカップにお湯を注いだ。
甘い香りが微かに立ち上り、空だったマグカップには黄色味がかった液体で満たされる。
「あ、スプーンでかき混ぜてください」
言われた通りに、エミーリアはマグカップを匙でゆっくりとかき回す。
すると、マグカップの中の液体はより濃い黄色になり、香りも強くなった。
「あの、これは?」
「魔法のスープだよ、美味しいから飲んでみな」
私の言葉にエミーリアは両手でマグカップを持つ。
「あ、熱いですから気を付けて」
アキラの言葉にうなずき、息を数度吹きかけてから慎重にカップを傾ける。ゆっくり中身を啜った、その灰色の目が驚きで大きく見開かれた。
「美味しい!」
「良かった! さあ、どんどん食べて下さい! スープもお代わりがありますから」
アキラが嬉しそうにそう言い、自分とリブラ教官のマグカップにもお湯を注ぐ。
「本当においしいです。このスープ」
そう言ってエミーリアは暖かい息を漏らす。
「パンとの相性も抜群なので、試してみるといいですよ」
リブラ教官がそう言って、パンを一切れ取ると、ちぎってスープに浸して口に運ぶ。それを見て、エミーリアも同じようにしてみる。
スープが沁み込んだパンを口に含んで、また目を大きくした。
「美味しい!」
朝食の食卓は、彼女の驚きと共に回り始めた。
(よかった)
私は内心で胸を撫でおろす。
魔法のスープ。
なんてことはない、インスタントのコーンスープである。
だが、チープだが特別なその温かいスープと皆で囲う食卓は、彼女の固まった心を少しは柔らかくできたようだった。
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