第62話 夜の来訪者
濃い闇の中、ペギョールは物置の戸に手をかけた。しかし、寝る時は内側から鍵をかけるように私がアドバイスしていたこともあり、戸には閂が掛かっているので開かない。それでも音を立てないようにしながら、なんとかこじ開けようと彼は試みているようだ。
「ホウキさん!」
元々今夜は眠りも浅かったのだろう、その物音にエミーリアがすぐ目を覚ました。小さな震える声が壁の向こうから聞こえた。
<大丈夫、私はここにいる。今、戸を開けようとしているのは使用人のペギョールだ>
「ペギョールさん?!」
驚いたエミーリアの声が少し大きくなった。
「エミーリア、おい、起きているなら、ちょっとここを開けろ!」
小さく、だが低い声でペギョールが声をかけてくる。その言葉は若干呂律が回っていない。
「あ、はい」
反射的にエミーリアは、その声に反応し扉を開けようとする。
<戸は絶対に開けちゃいけない!>
咄嗟に送った思考通話を受けて、エミーリアの動きが止まったのがわかった。
「おい、早くしろ」
しかし、その間もペギョールは戸を開けようとし続ける。元々がボロボロの物置小屋なので、このままでは何かの拍子で開いてしまう恐れもあった。
<少し大きめな声で、暗くて、開けられないと言うんだ、そして用件だけを聞いて>
「く、暗くて閂が上手くはずせません。こんな夜に何か御用ですか?」
指示にしたがって、普通に話すよりも少し大きめな声でエミーリアがそう言うと、ペギョールが慌てる。
「声が大きい、クソ! もっと声を落とせ」
そして、周囲の様子に変化がないことを確認すると、彼は戸から手を放し壁越しにエミーリアと話し始めた。
「エミーリア、お前はいつもドジばかりふむし、ろくに働けもしねぇ、それなのに、あの奥様の下で今まで無事にやってこれたのは、誰のおかげかわかってるな」
「……」
エミーリアが答えに困っていると、ペギョールが苛立たし気に言う。
「俺だ、俺がいなけりゃ、お前は今まで無事に来られるわけがなかった、それがわかっているのか!」
「はい……」
エミーリアは小さく肯定した。だが、その声の調子は心からそう思っているようにはまったく聞こえない。どちらかといえば、恐怖によって答えてしまったという感じである。
「だったら、俺が困っている時は、どんなことをしてでも恩を返すべきだよな」
彼の吐く言葉は、ヌメリを帯びた蛇がのたうつかのような不快さをもって肌に触れてくる。
「あの、一体何を……」
「何、簡単なことさ、今、お前が手伝いに行っている家のお嬢さん方は大金持ちだろ? ちょいと隙をみてその荷物から金貨を20枚、いや30枚それかもっと価値のある物を拝借してくるだけでいい」
「それって、私に盗みをしろってことですか?」
ペギョールが物置の壁を軽く蹴った。それから、慌てて辺りを見回す。
「そうじゃねえ、ちょっと拝借するだけだ。なあ、俺は今、本当に困ってるんだ。頼むよエミーリア、その金が用意できねーと、大変なことになっちまうんだ」
先程までとはうってかわって懇願するような声を出すペギョール。わずかな沈黙が降りた。
「でも……、そんなこと、やっぱりできません」
エミーリアは、小さく消え入りそうな声だがきっぱりと断った。すると、先程よりも強くペギョールが壁を蹴る。
「てめえ、いつからそんな口がきけるようになった! そもそもてめえのせいでこうなってるんだぞ!」
「なんで私が?」
確かに唐突な話だった。そろそろご退場を願おうと思っていたが、少し事情を把握しておいた方がよさそうだった。
<エミーリア、少し気になるからこのまま話を聞いてもらってもいいかな、もし無理そうなら地面を2回踏み鳴らして、すぐに追っ払うから>
物置の中からの地を踏み鳴らす音はしない。
「なんで私が関係あるんですか? ペギョールさん」
代わりにエミーリアは、もう一度、ペギョールに問いかけた。
「うるせぇ、てめえがあの家で手伝いにいったから、狙い目だと思って、分け前が期待できると思って、だからドレスの代金にも手ぇ出しちまったんじゃねえか」
言葉の脈絡と呂律がおかしくなり始めていた。もしかすると、酔いが大分回ってきたのかもしれない。しかし、今の言葉からするとよくわからないことが多いが、どうやらペギョールはドレスの代金に手を出してしまい、それで金に困っているようだった。
「てめえなんて、どうなっても良かったんだよ! だいたい、奥様も今度の舞踏会が上手くいったら、てめえぇをどうにかするって、お嬢さん方と話していたから、ついでと思ったのによぉ」
物置小屋の中で、微かに気配が動いた。
「くそ、なんであんなことになっちまたんだよ、てめぇ、あいつらに何をした!」
その一言でなんとなくだが、把握した。
<エミーリア、ありがとう、今追っ払う>
私は予め結んでいたイメージを解き放つ。
それは一気に周辺に広がる。
やがて、それは音となって帰ってくる。
犬の遠吠えの大合唱という形で。
「くそ! なんだっていうんだ!」
突然、響き始めたその音にペギョールは慌ててあたり見渡す。中には、徐々にこちらに近づいて来る犬の吠え声もあった。
「くそ! くそ! いいかエミーリア、また明日の晩来る! ちゃんと持ってこなかったら酷いからな!」
ペギョールは慌てて門から外によろけながらも飛び出していく。その直後、その後を追うようにいくつかの気配が行き過ぎ、遠ざかるペギョールの喚き声が聞こえた。
また、何匹かの犬が男爵夫人の敷地内に入ってくると、私のところに来た。
濡れた鼻先が私の匂いを懸命に嗅ぐ。
これぐらいでいいだろう。
私はもう一度イメージを結び、解き放った。
広がった波に合わせて今度は、王都の夜に静けさが戻ってくる。
今の騒ぎでブドルク男爵夫人の邸宅の中でも、動く人の気配がする。
そして、目の前にはまだ犬たちがいた。恐らく自由に歩いているところを見ると野良犬なのかもしれない。見られると厄介だろう。
「騒がせてしまって、ごめんよ」
小声でそう告げると、犬たちはびっくりしたように一瞬後ずさる。だが次の瞬間、すべての犬が尻尾を盛大に振り出すと、うちの特にでかい1頭近づいてきて、私を舐める。
生暖かい感覚。
正直、犬に舐められるのは好きではない。
そして私は猫派である。
だが、彼らの好意に文句はいえよう訳もない。
「さあ、人が来るからお行き」
マナを言葉に乗せ解き放つ。
言葉は分からずとも、意図は伝えることができる。それを受けて犬たちは、一目散に門から敷地外へと駆け出していく。
<エミーリア、ごめん、辛い思いをさせてしまったね>
言葉による返答も中で動く様子もなかった。
<エミーリア?>
心配になり、もう一度思考を送ってみる。すると、中で気配が動いた。どうやら再びエミーリアは寝床である藁の中に潜り込んだようだった。
<エミーリア、大丈夫かい?>
「大丈夫です。もう休みます」
壁の向こうから短くそれだけが聞こえて来る。
<わかった、おやすみエミーリア>
今の私には、彼女にそう告げるしかできなかった。
私は、今の件をすぐにリブラ教官とアキラに報告した。
そして、情報デバイスで録音していたペギョールとエミーリアのやり取りを聞かせる。
<トーサン、なぜペギョールが来た時点ですぐに連絡をくれなかった>
<申し訳ありません>
<まあ、過ぎたことはいい。しかし、これでこの前の押し込み強盗の件がわかったようだな>
<はい、恐らく教官たちがまとまった金品を持っていることをあの強盗たちに伝えたのはペギョールだったのでしょう>
両者の間にどのような繋がりがあるかはわからない。しかし、直前に別の押し込みに失敗した強盗たちは、王都を去る前の一仕事としてペギョールから得た情報を元に、あの日、押し入ってきたのだと予想はできた。恐らく、成功した暁にはペギョールにも分け前が当たるという話だったのだろう。
ただ、教官達の所在の確認もしないという雑な仕事だったために失敗、いや教官がいても失敗しただろうが、しかもイレギュラーズとの遭遇で廃人になってしまうという散々な結果に終わった。
恐らく今度の舞踏会用のものだろうドレスの代金に手を出していたペギョールは、アテであった分け前がなくなり、窮地に立たされて今晩のことに及んだのだろう。
<ですが、どうします?>
<兵士に突き出しましょう、そんな奴!>
アキラが語気を強めた。しかし、リブラ教官はそれを否定する。
<いや、それはしない>
<どうしてですか?>
<まずペギョールが強盗達と通じていた物的証拠はなく、それにあの押し込み強盗は世の中では起きていないことになっているからだ>
確かにそうだった。家の中で起きていたことと、教官が到着と共に展開した【耳目払い】で、あの押し込み強盗の件は今のところ表に出ていないのである。つまりは起きていないのと同じであった。起きていない強盗について、関係者を突き出しても意味はないだろう。
<だったら、このまま放っておくんですか?>
アキラの語気が収まらない。
<確か明日の晩もペギョールは来ると言っていたな>
<はい、大分酔いが回っていたようなので、もしかしたら覚えていないかもしれませんし、犬に追われていたようなので、どうなったのかわかりませんが>
<犬に噛まれてしまえばいいんだ!>
リブラ教官がため息をついたのがわかった。
<落ち着けアキラ君。とりあえずその件については明日、私が片付ける>
その思考には、有無を言わせぬ鋭さがあった。
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