第42話 悪夢
『傷』の発生の瞬間を見るのはこれで2回目でだった。
空間に浮かんだ盛り上がった肉のような部分が伸縮する。
やがてそれを突き破り、女性の腕ほどの太さがある黒い触手のようなものが何本も現れた。
それはやがて亀裂にまとわりつき、両手で隙間を押し広げるような動きをする。
それに合わせ、小さかった亀裂が上下に、そして左右にひろがっていく。
世界が悲鳴を上げているのを感じる。
周囲のマナが揺れていた。
『傷』の向こうは、無数の蠢く漆黒の触手に埋め尽くされている。
居間に黒い霧状の瘴気があふれ出し始める。
やがて無理やり傷を押し広げるようにして球状の触手の塊が現れ出た。
「な、なんだよこりゃ」
【雷刺】の硬直より回復し始めた男たちが、扉の方へ後ずさり始める。
だが、彼らの目は蠢く球状の中心の一点を見たままそこから視線を離せずにいるようだった。
こちらに来ようとして足を止めたローガンも同様の様子だ。
かく言う私も、気を緩めればその一点に視線を持っていかれそうになる。
そこには触手の合間に埋もれ全容を現していない何かがあった。
それがこちらの思考と行動に干渉をしていているのだが、問題はそれだけではなく、その隠れている何かが赤く発光していることだった。
『傷』の向こうに色がある。
それは非常に危険な意味を持つ可能性があった。
<教官、『傷』とイレギュラーズが出現しました>
私は相手からの干渉に抗しながら、なんとか思考通信を送った。
正直、思考干渉を受けている中なので正常に伝わるかは怪しい。
情報デバイスを通して映像も送りたいが、思考通信の上位に当たるそれは情報量の多さからある程度、落ち着いた状態でなければきちんと機能しない。
さらに押し込み強盗が入った時点で、情報デバイスは自動的に防護関連に能力を集中させる戦闘モードに切り替わっているはずなので尚更だった。
その設定を解除処理している余裕はない現状では送れてせいぜい静止画が関の山だろう。
(とにかく、伝わったことを信じて、なんとかしてエミーリアとローガン少年を外に逃がさないと)
重い視線を引きずり、エミーリアに目を向ける。
恐怖に固まっていた彼女だったが、ようやくその呪縛から逃れた様子でおずおずと周囲を見回し始めていた。
彼女は視点を引っ張られていない様子である。
どうやら思考干渉はあの触手の塊の中心点を視界内に収めることが発動のスイッチになっているようだった。
だがそう考えるのほぼ時を同じくするように、エミーリアが皆が見ているものを追い上を向こうとする。
「エミーリア! 上を見るな!」
言葉に彼女の動きが止まる。
その視線が、声の主を求めて私の周囲をさ迷う。
やがて、その視線が直立している私のところで固定された。
恐怖ではなく、驚きで今度はその瞳が大きくなる。
<そう、君の目の前にあるホウキだよ>
この距離なら、まだ十分に【思考会話】は通じるはずだ。
私は、落ち着かせるようにゆっくりと、そして深く思考を送る。
<今、上を見てはいけない。いいね>
彼女は震えながら静かにうなずいた。
そんな彼女の頭上では、のたうつ触手が『傷』をさらに押し広げながら、徐々にこちら側へ出てくる数を増やしている。
どうやらあの蠢く塊は全体の一部にすぎないらしかった。
幸いというべきか、『傷』の真下にいる彼女は、今はそれらに気付かれていないようである。
<動けるか?>
私の問いかけに彼女は首を横に振る。
その床に投げ出された脚は、一目でわかるほど震えていた。
<じゃあ、目を閉じてその場に伏していて>
その指示に彼女は素直に従う。
<ローガン! 後ろ向きのままでもいい外へ!>
しかし、ローガンも視線を動かせぬまま小さく首を横に振る。
「あ、足が」
先程までわずかに後ずさりをしていた男たちもその動きを止めていた。
思考の干渉が身体機能に大きく影響を出し始めているようだった。
<教官! 鷹でローガンだけでも外へ! あと到着したら【耳目払い】をこの家の敷地に!>
室内の映像を何シーンか静止画でリブラ教官に送った直後だった。
大きな羽音と共に扉が開く。
そして開け放たれた入り口を器用にすり抜けて2羽の鷹が室内に入り込むと、ローガンの服を掴み、見た目からは予想できない力で彼を引きずった。
その動きに逃すまいと触手が動く。
だが、まだこちらの空気に慣れていないのか鈍重な動きのそれを鷹とローガンは躱し、少年の体は扉の向こうの光の中に消える。
<あと少しで…・・する! 無茶はす・な!>
同時に入るリブラ教官の途切れがちな思考通信。
状況を説明しなくても、リブラ教官はすでに何が起きているのか理解しているようである。
<なんとか、エミーリアの脱出を優先させます!>
そう送った直後だった。
ローガンたちを取り逃したのが悔しかったのかどうかはわからないが、球体を形作っていた触手の一部がほどけ、中心にあった赤い光の正体が露わになる。
それは縦にしたラグビーボール型の深紅の単眼。
全貌が露わになった瞬間、先程よりも強力な引力で視線が引っ張れる。
同時に、私の脳裏を既視感が閃光のように一瞬駆け抜けた。
その既視感の正体はわからないが、露わになったその赤によって、現状がかなりまずい状況だという事が確定する。
イレギュラーズたちの身体は基本的に黒色をしている。
濃い影が実体を持ったような感じだ。
しかし時折、黒以外の色を持つ存在がいる。
『有色』。
『名を持ちし者』にこそ及ばないが、それに準ずる通常のイレギュラーズとは比べ物にならない危険な存在とされている。
その色の部位が多く、範囲が広いものほど危険とされているが、今、目の前にいるのは色の範囲こそ狭いものの、間違いなくその『有色』だった。
少なくとも私などが相手できようもない相手のはずである。
単眼から洩れる赤い光が部屋を満たした。
「あ、ああぁぁ」
足元で呻く声がする。
視線をなんとかまわすと、床に転がっているお頭の限界まで見開かれたその瞳が赤の単眼を凝視し、口からは引きずりだされるように声が漏れていた。
そして明らかな変化がその身体に表れ始める。
お頭の栗色をしている髪が見る見る色を失っていっていた。
それはよく小説などである恐怖による変化などではない。
髪だけでなく、皮膚や着ている衣服すらも徐々にではあるが色が薄くなっているのだ。
色が奪われている。
そのことにどのような意味があるかはわからないが、まともな事ではないことは確かである。
そして、色が奪われているのは人間だけではなかった。
黒い触手が触れている壁や床もかすかに色が変化しているように見える。
ただ、明らかに単眼のイレギュラーズと目を合わせている人間の方が色が消え去っていく速度が早いようだ。
先ほどから私の指示を守り、瞳を閉じているエミーリアには今のところ色の変化はない。
直接触手で触れられるか、あの単眼を見ることが色を奪う条件のようだった。
とにかくエミーリアを、なんとかこの家の外に脱出させなければいけない。
ローガンと同様に教官の使い魔に連れ出してもらうことを考える。
しかし、先ほど使い魔のうち2羽は確実にイレギュラーズの姿を視界に収めていた。
思考干渉の影響を受けている可能性もある。
だとすれば、最大数でだしているとしてまともに動けるのはあと2羽。
そこまで考えたところで、恐ろしい可能性が頭に浮かぶ。
リブラ教官は使い魔の鷹たちと感覚を共有している。
(もしかしたら、今、教官自体も思考干渉の影響を受けているのではないだろうか)
彼女の事である、多少の思考干渉を受けても大きな影響はないはずだと思いたいが。
<リブラ教官……>
思考通信を行おうとするが、強くなった干渉によって思考自体が乱された。
送るべき言葉が思考として形作れない。
内に回った思考干渉の毒は急激かつ確実に私を蝕んでいた。
そして、無理やり頭を捻られるように視線が単眼の方へと向いていく。
なんとか抗おうとするが心身ともに言うことをまったく聞いてくれない。
赤く禍々しく輝くその中心、虚無の闇を湛える瞳と完全に視線が合ってしまった。
瞬間、すべてが停止する。
魔法が途切れ、ホウキの体が床に転がる。
まったく、何も動かせない。
金縛りのような状態。
のたくる触手が床に転がっていた男たちと私に巻き付き、つるし上げた。
男の1人は、かなり灰色に近くなっていた。
赤い光の膨張で単眼が徐々に大きくなっているように感じる。
眼前が真っ赤に染まる。
男たちの呻き声が小さな合唱のように響く。
何かが奪われている確かな感覚。
恐怖がせり上がってくる。
だが、逃げることができない。
それは幼い頃にさいなまれていた悪夢のようだった。
その時、再び既視感が私の中を駆け抜け、私の心のうちに何かが浮上して来る。
<逃げられないなら、立ち向かうしかないじゃない>
誰かが囁いた気がした。
それはまどろみの者をやさしく目覚めさせるような声。
同時に奮い立たせるようなエール。
揺蕩っていた私の意識はそれらに導かれ、既視感の正体に行きついた。
(私はコイツを前にも見たことがある!)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます