第30話 日給金貨1枚
夫人から借りる家は、本当に夫人の邸宅近くであった。
塀の配置の関係で遠回りしないといけないが、敷地的には斜め後ろといって問題がない位置である。
うまく塀をショートカットしていければ徒歩1分もかからないのではないだろうか。
その家は周囲の物件よりは敷地は狭く、建物もこじんまりとしていたものの、塀に囲われ小さな庭もあった。
ただ、しばらく借り手がなかったのか、その庭は勢い盛んな植物たちの楽園と化している。
簡素な木製の扉には、大き目な錠前がかけられてた。
夫人は自分の荷物から取り出した鍵でその錠前を外して扉を開ける。
娘たちとペギョールを残して、夫人と我々は家の中に入った。
掃除用具を置いたエミーリアが、近くの窓を開けていく。
明るい日の光が部屋に溢れる。
生命豊かな庭の様子から、埃と蜘蛛の巣の盛大なお出迎えを覚悟していたが、多少埃が目に付くところはあったものの家の中は、その想像よりはずっとマシな状態だった。
「本当なら昨日中に掃除は終わらせてあるはずだったのですけどね」
夫人の言葉にエミーリアが身を縮ませる。
建物はウナギの住処といった感じで奥行がある構造になっていた。
1階には簡易暖炉的な据え付けのストーブがある居間、その奥に1部屋、さらその奥には井戸がある土間が並んでいた。
2階には2部屋ある。
やはり庶民の家としてはかなり贅沢な造りといえるだろう。
契約の内容はよく見ていなかったが、賃料もそこそこいいお値段なのではないだろうか。
だが、他の人間の出入りがない一軒家。
さらに塀に囲まれていることを考えれば、任務の拠点とするなら宿屋などよりもずっといいだろう。
一通り我々を案内してから、夫人はエミーリアを我々の前に引き出した。
「まったく使えない子ですけど、この子を今日は置いていきますので、好きなように使って構いませんわ」
夫人が傍らにいるせいか、恐ろしく縮こまりながらエミーリアが頭を下げる。
「手伝っていただけるなら助かります。ところで改めましてですが、こちらの方は奥様の家の使用人なのですか?」
教官の言葉に、夫人はあからさまに馬鹿にしたような表情を浮かべる。
「この子はエミーリア、使用人ではございませんわ」
「使用人ではないとなると、一体?」
突っ込んで事情を聴いたリブラ教官に、夫人はわずかに苛立ちの表情を滲ませる。
「この子は、今は亡き夫が連れてきたいわば居候といったところですわ」
エミーリアは自分のことが話題になっているためか、ますます身を縮めた。
そのままいくと、そのうち細く縮まりすぎてどこかに消えてしまいそうである。
「ほんと、幼い頃から情けで置いてあげているにも関わらず、ろくに家の手伝いもできずでに。よく言いますわよね『働かない者は、食卓に座る権利はない』と」
その声を聞いていると、心が痛くて思わず身悶えしたくなった。
エミーリア本人に至っては推して知るべしだろう。
リブラ教官は夫人の言葉に少し考えるそぶりをみせた。
「あの奥様、一つご相談があるのですが」
「相談?」
夫人が細い眉を顰める。
「はい、よろしければ祝祭が終わるまでの間、エミーリアさんに私たちの家でのお手伝いをお願いできないでしょうか。もちろんお代はお支払いいたします」
夫人は一瞬、何を言われているのかわからない様子だったがやがて笑うように小さく鼻をならした。
「お金、お金と、まったく……」
いくらなんでも、さすがに今の持っていきかたは強引すぎたと私も思った。
瞬間である。
「で、お幾らほど支払えるというのですか」
扇子で口元を隠しながら夫人が乗ってきた。
正直、驚きである。
しかし、リブラ教官はそれがわかっていたかのようにさらりと条件を提示した。
「1日金貨1枚として金貨13枚、いえ15枚を前金でお支払いいたします。いかがでしょうか」
夫人の瞳の中で感情が動いたのがわかった。
たしか金貨一枚は、この物語世界では一人前の職人の日当に相当する。
女性の場合、職種にもよるが恐らくその半分かそれ以下くらいではなかっただろうか。
つまりは、リブラ教官は相場の倍以上の額を払うと言っているのだった。
「商人の方というのは、往々にしてけち臭く支払いを渋るものと相場が決まっておりますのに、随分とお金離れがよいのですわね」
商人であるセントバンスさんを前によく言えたものだとある意味関心する。
そのセントバンスのさんの方を見ると、彼はただ静かにこの状況を傍観するに徹しているようだった。
「奥様やお嬢様方にもご迷惑をおかけするということを考えれば、これくらいは当たり前ではないでしょうか」
教官がにっこりと笑う。
「わかりました。では祝祭が終わるまでエミーリアにお手伝いをさせましょう。ただ、こちらでも必要となることもありますので、その時はこちらを優先させていただきますが、それでよろしいですわね」
条件を考えるとよろしくない。
しかしリブラ教官はそれを即承諾した。
その後、エミーリアに手伝いをしてもらう時間などの条件を取り決めた。
夫人は食べ物を与えてくれるのならば、朝から深夜まで使っても構わないとのたまう。
そして教官からその場で金貨15枚の支払いを受けとると、エミーリアを置いてそそくさとドレスの仕付けのために出かけていった。
「さて、とりあえずこれで私めがお受けしたご依頼は、全て完了ということでよろしいでしょうか」
夫人たちを見送った後、セントバンスさんがそう言った。
「そういえばそうですね。大変お世話になりました」
教官が一礼すると、セントバンスさんが滅相もないと言う。
「それにしてブドルク男爵夫人は、なかなかに特徴的なご婦人でしたな」
セントバンスさんのその言葉に教官が思わず苦笑いを浮かべる。
「ええまあ。予想外じゃなかったといえば嘘になりますね」
「もし、今後何かありましたら、いつでもご連絡ください。特に先ほどの件なども」
意味深にそう言ってセントバンスさんが一礼する。
「はい、何かございましたらよろしくお願いいたします」
リブラ教官が微笑んで返す。
なんだろうか、やはりどこか緊張感があるこの二人のやり取りだが、男爵夫人を見た後だとなんだか霞んでしまう。
恐るべし毒花夫人。
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